作品タイトル不明
8.天子の教育は大変だ
光熹元年(189年)10月 司隷 河南尹 洛陽
ブエナス・タルデス、董卓だぜ。(スペイン風)
漢王朝の改革を目指す俺たちは、その象徴である天子の教育を当面の目標とした。
そこであれこれと手を回してみたところ……
「遅いぞ、ヒゲ親父。今日は何をして遊ぶのだ」
「はいはい、そう焦りなさいますな。それにこれは遊びでなく、お勉強ですよ」
「そんなのはどうでもいい! 早く始めるぞ」
「御意に」
結局のところ、俺たちは天子の教育係に滑りこんだ。
ただし太傅なんて重職でなく、その配下の1人に、荀攸をねじ込んだ形だ。
俺や賈詡はその協力者として同行する。
しかし本来ならこんな人事、認められるわけがない。
いくら将軍とはいえ、俺みたいな武官が天子と親しくするなんて、周囲が反対するからな。
ところが賈詡が言ったように、天子はなぜか俺を好んでいたようだ。
試しに打診してみたら、思った以上に良い感触を得られたのだ。
それならってことで、まずはお試しで陛下に謁見してみた。
もちろん俺だけでなく、荀攸や賈詡を引き連れてだ。
そこで俺たちは、主に史記に基づくお話を披露した。
事前に子供が好みそうなネタを選んでおいたから、天子はそれに食いついた。
また話を聞きたいと言われ、それでは数日おきに伺いましょう、となりそうだったのだが、ここで横槍が入る。
天子の周囲に侍る輩が、それを許さなかったのだ。
”涼州の田舎武官などに、天子さまの教育などできるものか”
とかなんとか言って。
しかしこれは十分に予想されたことで、これに対する隠し玉も準備してあった。
「お初にお目にかかります、陛下。 蔡邕(さいよう) 伯喈(はくかい) にございます」
「うむ、くるしゅうない」
そう、後漢でも有数の才人と言われる蔡邕だ。
史実では董卓に協力的だった官吏として、有名な人物である。
俺の暗殺後、 王允(おういん) のクソ野郎に因縁をつけられ、獄死させられる悲劇の男でもある。
しかしその知能たるや半端でなく、さまざまな学問や芸術に通じていたとか。
ところが数年前に冤罪で捕らえられ、釈放されても危険を感じ、揚州へ逃げていた。
史実では董卓に強引に呼び出され、やむなく出仕したようだな。
そこで俺は荀攸に手紙を書いてもらい、天子の教育に協力してほしいと頼みこんだ。
俺だけならまだしも、荀攸の仲介には効果があったらしい。
さほど待たずに、蔡邕が上京してくれた。
ここで俺たちは改めて、漢王朝の問題点とその改革について話し合った。
もちろん蔡邕もそれを憂いていたので、無事に協力を得られることになる。
ここまでくれば、俺たちを拒む理由などない。
俺たちは堂々と太傅の配下として、数日ごとに参内することになった。
主導するのは蔡邕だが、その内容は事前に協議していく。
そして当日、主に喋るのは俺か賈詡だ。
蔡邕は知識は凄いんだが、それだけに小難しい話になってしまう。
そんなの子供にとっては退屈だから、俺や賈詡が噛み砕いて話すのだ。
ちなみに試しにと思って、陳留王 劉協(史実の献帝)も一緒にどうかと誘ったら、乗ってきた。
劉弁が14歳(数え)に対し、劉協は9歳と幼いが、年のわりにしっかりしている。
物覚えもいいようで、どんどん吸収してる感じだ。
すると劉弁の方も対抗意識を燃やして、勉強に身が入る。
おかげで俺たちの講義に、横槍が入りにくくなった。
やはり最初はけっこう、問題視されてたんだ。
俺みたいな田舎者が、天子の教育なんておこがましいとか、そんな話でな。
しかし蔡邕という立派な学者はいるし、荀攸だって名家の出身だ。
何よりも、天子や陳留王が楽しみにしてるとくれば、ケチをつけにくい。
こうして軌道に乗った勉強会だが、その陰ではいろいろと試行錯誤をしていた。
基本的には史記や漢書などの史書から、子供でも興味を持ちそうな話題をピックアップする。
春秋戦国時代のあれこれとか、歴代皇帝のエピソードとかな。
それをおもしろおかしく脚色はするんだが、最後に振り返りを実施する。
この人物はこうなっちゃったけど、実際はどうするべきだったかとか、この皇帝は成功したように見えるけど、その裏にはどんな状況があったかなんてな。
もちろん言葉の使い方については、細心の注意をはらった。
下手に皇室批判と取られたら、俺たちの目論見はおじゃんだからな。
そうやって勉強会を続けていたある日、劉弁がポツリとつぶやいた。
「ご先祖さまは皆、こんなに重い責任を負ってきたのかのう?」
「……さすがは陛下。そこにお気づきになられましたか」
「フン、あれだけしつこく聞かされれば、誰でも気づくわ。のう、協?」
「アハハ、そうですね」
劉弁に問われた劉協が、苦笑いしながら応える。
改めて思うが、2人ともあまり子供らしくない。
いや、見た目は子供で間違いないのだが、ちょっと大人びていると言うのか。
史実では暗愚として廃位された劉弁も、付き合ってみると案外、 敏(さと) かった。
ちょっと口下手というか、引っ込み思案なため、史実では評価が低かったのかもな。
しかし周りの評価を聞くと、あまり聞き分けのよくない、我がまま坊主だったらしい。
そこである時、ちょっとした話の流れで、心境の変化を聞いてみた。
”陛下が以前よりも前向きで、頼もしいという声が上がっているようです。何か思う所がありましたか?”
すると劉弁はこう言った。
”おぬしたちが朕を一人前に扱ってくれるのが、嬉しかったのだ”
それを聞いた時は、ちょっと物悲しくなっちまったな。
実際、天子ってのは中華を統べるための公器みたいなもんで、多くはそこに人格を求めない。
特に今までは幼かったのもあって、周りのいいようにされてきた。
皇子だった頃から、あれをしては駄目、こうあるべきなどと、価値観を押しつけられるばかりだ。
その点、俺たちは彼らの自主性を尊重した。
勉強会を始めた頃、劉弁にこう問われたことがある。
”このような事を知って、なんの意味があるのだ?”
そこで俺はすかさずこう返す。
”陛下。知識こそは力です。孫子も言っているではありませんか。己を知り、彼を知れば百戦あやうからず、と。例えば北の遊牧民どもは、たびたび我が国を侵略してきますが、その状況もさまざまです。それによって我が国は遊牧民と戦ったり、協定を結んだりしてきましたが、それも相手を知らねば、上手くゆきません。一見、無駄に思えることも、役に立つ場合もありましょう。もちろん全てを覚える必要はありませんが、知識が豊富なほど、良い判断ができるのです”
すると劉弁は、ちょっと嬉しそうな顔をしていたな。
それまでは余計な知識を耳に入れないようにされるばかりだったのが、反対のことを言われて新鮮だったんだろう。
ま、いずれにしろ、天子との信頼関係はできてきた。
これをテコに、政治改革を進めようかね。