作品タイトル不明
道を戻すための地図
セイルが入口の暗がりへ足を踏み入れた。
続いて、ガルドが入る。
ダレスもその後ろに続いた。
盾を持った冒険者が入口側に立ち、軽装の冒険者が少し後ろにつく。
暗がりは、5人をゆっくり飲み込んでいく。
シアは入らなかった。
入口の外側に残り、ハクトとリク、待機組の位置を見ている。
ハクトは動かなかった。
動かないことが、今の役割だった。
若い剣士は入口の方を見ているが、剣には手をかけていない。
採取道具の女性冒険者は、水袋と小袋を足元に置き直していた。
荷物運びの冒険者は、背負い袋を下ろし、すぐ開けられる向きに変えている。
リクは鞄の口を開けたまま、道具の位置を確かめた。
手当て布、水袋、目印布。
そして、匂い玉。
「匂い玉、すぐ出せるよ!」
「はい。でも、もし使うなら場所を考えてからにしましょう。」
ハクトは入口を見た。
入口奥へ投げれば、魔物を奥へ寄せるかもしれない。
けれど、戻ってくるセイルたちの道に寄せることにもなる。
橋側へ投げれば、帰る道を塞ぐかもしれない。
使うなら、入口でも橋側でもない場所だ。
横の草むら。
荷物から離れ、戻る道からも離れる場所。
ハクトは地図の端を押さえた。
道標札、橋の見え方、入口手前の木、大きな石、リクの位置、水袋の位置、待機している冒険者たちの立ち位置。
奥へ行かなくても、見るものは多かった。
入口の奥から、乾いた音がした。
剣の音ではない。
何かが落ちて、転がる音だった。
若い剣士の足が、半歩だけ前に出る。
「止まって、前は空けて。」
シアの声が飛んだ。
若い剣士は止まった、剣には手をかけていない。
ただ、目だけが入口の奥を追っている。
もう一度、石が転がる音がした。
今度は少し近い。
入口脇の草が揺れる。
灰色の小さな影が飛び出した。
丸い体、尖った歯。
口の周りに、石の粉のような白い汚れがついている。
1匹。
続いて、もう1匹。
ハクトは息を止めた。
以前見た小さな影に似ている。
けれど、今回は違う、
明るい場所に出てきた。
形も、動きも、歯の白さも見える。
「石噛み鼠。」
シアが短く言った。
ハクトはその名前を、頭の中で繰り返した。
石噛み鼠。
南門外縁で、初めて名前として認識できた魔物だった。
「石をかじるんですか?」
「柔らかい石や、崩れた壁を削る。単体なら大きな魔物じゃないけど、巣の近くでは数が増える。」
シアは入口から目を離さずに言った。
「前に出ない。入口を空けたまま、横へ逃がす。」
若い剣士が息を飲む。
「剣、抜いていいですか?」
「抜くなら横、前へ出ないで。」
「はい。」
若い剣士は剣を抜いた。
けれど、入口の正面には立たない。
シアに言われた通り、右側へ回る。
石噛み鼠の1匹が、荷物の方へ走った。
荷物運びの冒険者が背負い袋を抱え直す。
女性冒険者が水袋をかばうように膝をついた。
ハクトは声を出した。
「荷物は木の側へ。入口と橋側を空けてください。」
荷物運びの冒険者がすぐ動いた。
背負い袋を木の根元へ寄せる。
女性冒険者も小袋をまとめて、その隣へ置いた。
入口の前が空く、橋側も空く。
リクが匂い玉を手に取った。
「使う?」
石噛み鼠の1匹が、荷物から向きを変えた。
もう1匹は入口脇の石をかじり、体を低くしている。
ハクトは横の草むらを見た。
入口から離れている。
橋側でもない、荷物からも遠い。
「右の草むらへ。入口にも橋側にも寄せない場所です。」
「おっけー!」
リクが匂い玉を投げた。
小さな玉は草むらの中に落ち、すぐに強い匂いを広げる。
石噛み鼠の1匹が、びくりと体を跳ねさせた。
鼻を動かす。
荷物の方ではなく、草むらの方へ向きを変える。
「今。」
シアの声と同時に、若い剣士が横から一歩出た。
剣を振り下ろすのではない、進路を塞ぐように刃を置く。
石噛み鼠が止まる。
その瞬間、シアが短く踏み込んだ。
一撃。
灰色の影が地面に倒れた。
もう1匹は草むらへ走った。
匂い玉の匂いに引かれたまま、入口から離れていく。
シアは追わなかった。
「追わないで、入口を空ける方が先。」
「……追わなくていいんですか?」
「今は討伐じゃないよ。」
シアは入口を見た。
「戻ってくる道を塞がない方が大事。」
若い剣士は入口を見て、剣を下げた。
「はい。」
リクは匂い玉を投げた場所を見た。
草むらの中で、匂いがまだ残っている。
「匂い玉、使ったね。」
「はい、記録します。」
ハクトは地図の端に書き込んだ。
『入口外側:石噛み鼠2匹』
『匂い玉使用:右草むら』
『入口正面、橋側は空ける』
『荷物位置:入口から外し、木の側へ』
手が少し震えていた。
戦ったわけではない、剣も持っていない。
でも、入口を塞がないように見ていた。
荷物を動かした、匂い玉の場所を決めた。
奥へ行かない場所にも、判断はある。
しばらくして、入口の奥から足音が戻ってきた。
最初に軽装の冒険者が出てくる。
次に盾を持った冒険者。
盾の端に、小さな傷がついていた。
白い石粉もついている。
ガルドが続いた。
その後ろに、ダレスが出てくる。
最後に、セイルが出てきた。
靴先に白い粉がついていた。
土ではない。
割れた石の粉だった。
シアが短く聞いた。
「怪我は?」
「ない。」
ガルドが答えた。
ダレスは入口の奥を振り返ったまま、低く言った。
「魔物より先に、石が落ちた。」
ハクトはセイルの靴先を見た。
白い粉、小さな欠片。
入口奥の暗がりの中で、石が落ちたのだ。
セイルは入口外側を見た。
倒れた石噛み鼠、荷物の位置、空けられた入口、草むらから残る匂い。
「入口は空けたままか。」
「はい。」
ハクトが答えると、セイルは小さくうなずいた。
「ならいい。」
それだけだった。
けれど、ハクトは息を吐いた。
入口を空けておく。
それが間違いではなかったのだとわかった。
セイルはその場で記録板を開いた。
薄い板には、細かい線がいくつも引かれている。
ハクトの地図より、線が短い。
けれど、書かれているものは濃かった。
「落ちた石は新しい。」
セイルは言った。
「古い崩れじゃない、削られている。」
「削られている?」
ハクトは聞き返した。
セイルは指で地図の一部を示す。
「爪か、牙か、硬いものだ。壁を掘った跡がある。」
ガルドが低く言った。
「巣にしている魔物がいるな。」
ダレスの眉が動く。
「主は?」
「いるはずだ。」
セイルは短く答えた。
「小型の足跡はその周りを通っている。だが、壁を崩しているのは別だ。」
ハクトは息を飲んだ。
小型の足跡、壁を削る跡、落石。
そして、さっき出てきた石噛み鼠。
名前がわかると、昨日までの影も少し形を持った。
ただ逃げた小さな影ではない。
石をかじり、壁を削り、巣の近くを通る魔物。
南門外縁は、何もいない場所ではなかった。
名前のある敵がいて、その奥には主がいる。
セイルは続ける。
「魔物の足跡だけ見るな。石も見ろ。壁も見ろ。水の音も見ろ。」
ハクトはうなずいた。
「落ちた石は、次に何が落ちるかを教えている。」
その言葉が、胸に残った。
ハクトはマルタの言葉を思い出した。
旧街道は途中で山肌に沿う。
崩れた場所は、たぶん今も危ない。
それに、荷馬車が通らなくなった道は、魔物が道にする。
今、目の前にあるのは、その両方だった。
崩れた道、そこを通る足跡。
そして、道をさらに崩している何か。
「足跡を追えば、魔物には近づける。」
セイルは入口の奥を見た。
「だが、戻る道からは離れる。」
誰もすぐには答えなかった。
ダレスが入口を見たまま言う。
「今日はここで終わりだ。戻る。」
ハクトは一瞬だけ、奥を見た。
白い場所、まだ見ていない場所。
でも、今はそこではない。
戻る。
この情報を持って戻る。
「はい。」
ハクトは地図を閉じずに、入口前から橋までの道を見た。
道標札、木、大きな石、橋の見え方、荷物の位置。
戻る時も、同じ場所を見る。
いや、戻る時だからこそ見る。
帰りの道は、行きより静かだった。
誰も大きな声を出さない。
若い剣士は剣をしまい、時々入口の方を振り返るだけだった。
女性冒険者は、荷物と水袋を最後まで分けて持っていた。
荷物運びの冒険者は、背負い袋を少し低くして歩いた。
橋を渡る時、リクは新しい滑り止め爪をもう一度確認した。
走らない、急がない。
橋の上では、音が小さくなる。
ハクトは橋の途中で、入口の方を振り返った。
奥は見えない。
セイルが見た場所も見えない。
けれど、入口手前の木と道標札は見える。
自分が見た場所、自分が残した印。
そこまでなら、戻れる。
南門詰所に戻る頃には、昼の光が少し傾いていた。
朝の緊張とは違う疲れが、足に残っている。
詰所の中に机が出された。
昨日の相談机とは違う、報告のための机だった。
セイルは記録板を置いた。
ハクトは自分の地図をその隣に広げる。
2枚の地図は、入口のところで重なった。
ハクトの地図には、南門から入口までが描かれている。
道標札、橋の見え方、入口手前の木、大きな石、戻るための印。
セイルの地図には、入口奥が描かれていた。
けれど、それは奥へ進むための地図には見えなかった。
『新しい落石跡』
『壁削れ』
『石粉』
『小型魔物の足跡』
『壁際へ寄る足跡』
『水音変化』
『通行注意』
『撤退線』
『主の縄張り推定』
ハクトはしばらく、言葉が出なかった。
奥を描いた地図なのに、奥へ進ませる地図ではない。
むしろ、どこで止まるかがいちばんはっきり書かれている。
「すごいです。」
ハクトが言うと、セイルは地図から目を離さずに答えた。
「すごい地図じゃない。」
「え?」
「止まるための地図だ。進みたい奴には、つまらない。」
「でも、これがあれば、どこが危ないかわかります。」
「ああ、そうだ。」
ハクトは自分の地図を見た。
自分の地図は、入口まで戻るための地図だった。
セイルの地図は、入口奥で止まるための地図だった。
どちらにも、奥へ進めという線はない。
けれど、2つを並べると、道になる。
リクは帳面を開き、使ったものを書き込んでいた。
『匂い玉:使用』
『石噛み鼠2匹』
『手当て布:未使用』
『水袋:未使用』
『荷物位置変更:入口外側、木の側』
『リク用滑り止め爪:問題なし』
リクの文字を見て、ハクトは今日の入口前を思い出した。
匂い玉を投げた場所、荷物を寄せた木。
入口を空けたままにしたこと、若い剣士が前へ出なかったこと。
奥へ行かない人たちの記録も、地図につながっている。
ダレスは2枚の地図を見比べた。
それから、自分の靴先についた白い石粉を一度だけ見た。
しばらく黙っていたが、やがて口を開く。
「入口奥の扱いを変える。」
詰所の中が静かになった。
「開けるんですか?」
若い剣士が思わず聞いた。
ダレスは首を横に振った。
「開けるんじゃない。調査対象から、討伐依頼の準備対象に移す。」
ハクトはセイルの地図を見た。
新しい落石跡、壁を削った跡、小型魔物の足跡。
そして、主の縄張り推定。
ダレスはハクトの地図を指した。
「橋手前までと、入口手前までの扱いは変えない。そこは、これまで通り詰所の確認と相談記録で見る。」
ダレスの指が、セイルの地図へ移る。
「変わるのはここから先だ。入口奥は一時封鎖。落石危険、魔物通路、主の縄張りの可能性あり。」
若い剣士は息をのんだ。
女性冒険者も、帳面の文字を見つめている。
ダレスは続けた。
「だが、閉じて終わりじゃない。主がいるなら、討伐依頼を準備する。道を戻すための依頼だ。」
道を戻す。
その言葉が、ハクトの胸に残った。
南門前の相談も、橋手前までの確認も、入口手前までの記録も、消えるわけではない。
今日変わったのは、入口奥だ。
ただの未確認の場所ではなくなった。
危険の原因があり、取り除くべき主がいる場所になった。
セイルが短く言った。
「見るやつがいれば、道は道でいられる。」
ダレスは少しだけ目を伏せた。
「なら、見続ける。」
ハクトは2枚の地図を見た。
一枚では足りない。
でも、一枚で足りないから、誰かの地図と重ねる意味がある。
セイルは奥を見た、ハクトは入口までを見た、リクは道具と荷物を見た、シアは入口を空ける位置を見た、若い剣士は、前へ出ない場所を覚えた、女性冒険者は、戻ってくる人のために水を分けた。
全部が、道の一部だった。
視界に表示が浮かぶ。
『案内人経験値を獲得しました』
『職業:案内人 Lv.3』
『経験値:76/120 → 112/120』
続いて、リクも小さく息をのんだ。
『商人経験値を獲得しました』
『職業:商人 Lv.3』
『経験値:60/120 → 92/120』
「結構、入りましたね。」
「うん、売ったわけじゃないけど。」
リクは帳面を見た。
「道具を出す場所も、荷物の置き方も、商人の仕事になるみたい!」
「はい、戻るための準備ですから。」
リクはうなずいた。
「次、匂い玉を補充しないとね!」
「はい。」
ハクトは地図の端に、最後の書き込みをした。
『入口奥:調査対象から討伐依頼準備へ』
『入口奥:落石危険、魔物通路、主の縄張り推定。一時封鎖』
『橋手前〜入口手前:これまで通り詰所確認と相談記録』
『地図は、重ねて道になる』
書き終えてから、ハクトはもう一度2枚の地図を見た。
白い場所は、まだ残っている。
けれど、ただ白いだけではなくなった。
止まる線が引かれた。
戻る印が増えた。
次に誰が見るのかが決まった。
南門は、開いたわけではない。
それでも、戻すべき道があることは、はっきりした。