作品タイトル不明
もう一度見る人
翌朝、南門詰所の前には、昨日と同じ机は出ていなかった。
昨日はここで相談机を開いた。
けれど今日は、掲示板の前に何人かの冒険者が集められている。
入口奥の確認に入る日だった。
昨日、相談机に来た顔もあった。
手当て布の場所を聞いてきた若い剣士、採取道具を少し減らした女性冒険者、荷物運びらしい大きな背負い袋を持った冒険者、盾を持った冒険者もいる。
リクは昨日買った滑り止め爪を鞄の横に入れていた。
まだ少し硬い金具が、歩くたびに小さく鳴る。
ハクトは南門詰所の中へ目を向けた。
昨日の夕方、ダレスは言った。
入口奥の確認に入る、と。
そして、自分たちは入口奥へは入らない、と。
わかっている。
わかっているはずなのに、胸の奥は少し落ち着かなかった。
詰所の中へ入ると、セイルがいた。
店で見る時より荷物は少ない。
けれど、腰には目印布と細縄があり、鞄の横には薄い記録板が下がっている。
棚の前に立っていた道具屋ではない。
外へ出る支度をした人だった。
セイルが元案内人だったことは知っている。
滑り止め爪の使い方も、匂い玉の意味も、道標札を残す場所も、セイルは道具屋としてだけではなく、道を歩いた人間として話していた。
けれど、現場へ出る支度をしたセイルを見るのは初めてだった。
セイルの右腕は動く。
ただ、大きく使おうとはしていない。
鞄の位置を直す時も、最後は左手が動いた。
「セイルさんも、行くんですか?」
「見るだけだ。」
それだけだった。
けれど、昨日の店で聞いた言葉と同じように、道具屋の言葉には聞こえなかった。
ダレスが机の上に地図を広げた。
ハクトが清書した地図、詰所用の地図。
それから、調査隊用として分けた入口浅部の記録。
「今日入るのは、入口奥の確認だ。ただし、全員が同じ場所へ行くわけではない。」
ダレスは集まった冒険者たちを見た。
「セイルが奥を見る。ガルドが前方を警戒する。盾を持っている者を1人、入口側の守りにつける。軽装で動ける者を1人、連絡補助につける。」
盾を持った冒険者が、少し姿勢を正した。
若い剣士も手を上げかけたが、ダレスが先に見た。
「剣を振りに行く場所ではない。指示があるまで抜くな。」
「……はい。」
若い剣士は手を下ろした。
昨日より腰袋は増えている。
そこに手当て布が入っているのだろう。
それでも、奥に行く役ではなかった。
ダレスは続けた。
「他の者は入口付近で待機だ。水、手当て布、予備道具、荷物を見ろ。入口の外側で落石や足元に変化があれば、すぐ知らせろ。」
採取道具を持った女性冒険者が、小さくうなずいた。
荷物運びの冒険者は背負い袋の紐を握り直した。
ダレスの視線がハクトへ向く。
「ハクト、お前は入口までの案内記録と、戻り道の確認だ。」
「はい。」
「リク、お前は道具管理と記録補助。荷物の出し入れも見る。」
「はい!」
「入口奥への無断進入は禁止。詰所の指示から外れた者は、その場で外す。戻る判断に従えない者は参加させない。」
誰も軽く返事をしなかった。
昨日、掲示板の前で聞いた時より、その言葉は重く聞こえた。
ハクトは自分の地図を見た。
そこに入口奥はない、自分が描く場所ではない。
でも、そこへ行く人たちが戻ってくるには、自分の地図が必要になる。
セイルが横から言った。
「入口奥の地図は俺が描く。お前は入口までの道を崩すな。」
「はい。」
「奥を見たいなら、まず戻る道を見ろ。」
ハクトはうなずいた。
見たい、その気持ちはある。
昨日見なかった場所、足跡が消えていった先、小さな影が逃げた奥。
けれど、そこは今の自分の道ではない。
南門を出る時、昨日相談に来た女性冒険者が荷物を背負い直していた。
昨日より袋が小さい。
手当て布は採取袋とは別の小袋に入っている。
若い剣士の腰にも、小さな布袋が増えていた。
薬だけではなく、手当て布を入れた袋だろう。
若い剣士はハクトに気づくと、少し照れたように手を上げた。
「手当て布、買ってきた。」
「よかったです。」
「薬師の店、すぐわかった。昨日の案内、助かった。」
採取道具を持った女性冒険者も、背負い袋を軽く持ち上げて見せた。
「私も袋、減らしてきたよ。」
「昨日より動きやすそうですね。」
「うん、全部持ってこなくてよかった。」
リクが小さく笑った。
「昨日の相談、少し残ってるね!」
「はい。」
進ませるためだけの相談ではなかった。
止まるため、分けるため、足りないものを知るため。
それが、今日の支度になっている。
南門の外へ出る。
朝の空気は冷たく、土の匂いが少し強かった。
人数がいるせいか、昨日より足音が多い。
けれど、誰も勝手に前へは出ない。
先頭はガルド。
少し後ろにセイル。
ダレスは全体を見ている。
ハクトは地図を持ち、リクは荷物と帳面を見る。
シアは後ろ寄りに立ち、時々ハクトたちの位置を確認していた。
南門、古い石標、橋手前。
何度も地図に書いた場所を、今日は人数を連れて進んでいる。
ハクトは先頭に立っていない。
それでも、地図を持つ手は昨日より重かった。
「前ばかり見るな。」
セイルの声がした。
ハクトは顔を上げた。
「はい。」
「案内人が最初に見るのは、戻る道だ。」
ハクトは振り返った。
南門はもう少し遠い、古い石標は見えている、足元の土は、まだ乾いている場所が多い。
「前だけ見るなら、ただの先頭だ。」
「……はい。」
ハクトは地図に視線を戻し、今歩いてきた道を確認した。
進んだ線ではなく、戻る線として見る。
同じ道なのに、少し違って見えた。
古い橋へ近づくにつれて、地面の色が変わる。
土が湿り、草の間に小さな石が増えていく。
昨日より人が多い分、足音が橋の方へ吸い寄せられるように聞こえた。
ハクトは、前にマルタから聞いた言葉を思い出した。
旧街道は途中で山肌に沿う。
崩れた場所は、たぶん今も危ない。
それに、荷馬車が通らなくなった道は、魔物が道にする。
その時は、地図の上に置いた注意だった。
けれど、今日は足元に近い。
古い橋の向こうに、その言葉の続きがある気がした。
橋手前で、ダレスが手を上げた。
「ここで一度止まる。」
全員が止まった。
後ろの冒険者たちも、すぐには詰めてこない。
若い剣士が片手を上げ、後ろの荷物運びへ止まる合図を出す。
荷物運びの冒険者は、背負い袋の肩紐を締め直してから、静かにうなずいた。
昨日の説明を聞いただけで、全員が慣れているわけではない。
それでも、勝手に前へ出る者はいなかった。
リクは鞄から滑り止め爪を出した。
昨日買った、自分のものだ。
貸与品ではない。
共同資金を減らして買った、自分の足元だった。
リクは靴に合わせ、金具の位置を確認する。
少し硬そうだったが、手つきは昨日より迷っていない。
セイルがそれを見た。
「渡る前に見る、渡ってから直すな。」
「はい!」
「おかしいと思ったら、橋に乗る前に言え。」
「はい!」
リクはもう一度留め具を押した。
小さな金具がかちりと鳴る。
「大丈夫です!」
「なら行く。」
ガルドが先に橋へ乗った。
橋は昨日と同じように、わずかに湿っていた。
けれど、今日は一人ずつではない。
順番を守り、距離を空ける。
ハクトは足元を見ながら、昨日自分が膝を打った場所を確認した。
橋の途中で、シアが後ろを見た。
「間を詰めすぎないで。」
「はい。」
若い剣士が少し下がる。
荷物運びの冒険者も、背負い袋の揺れを抑えた。
ハクトは橋の板ではなく、橋の先を見た。
いや、違う。
橋の先だけではない。
戻る時に見える手すりの割れ、水音、足元の湿り、リクの立つ位置。
昨日より、見るものが多い。
橋を渡り、向こう側の足場に着く。
そこでまた止まる。
リクは滑り止め爪を外さず、足元を確認していた。
「どうですか?」
ハクトが聞くと、リクは軽く足を動かした。
「借りた物より、ずれにくいかも。走りづらいのは同じだけど。」
「橋の上では走りませんから。」
「うん、これなら歩きやすい!」
リクはもう一度、留め具を指で押した。
それから鞄の位置を直す。
それは、セイルが何度も言っていたことだった。
持っているだけで進める道具ではない。
歩ける場所を、戻れるようにするための道具だ。
入口手前に近づくと、ハクトの置いた道標札が見えた。
小さな札は倒れていない。
風に少し揺れているだけだった。
セイルはその前で足を止めた。
札を見る、橋を見る、入口を見る。
また札を見る。
「悪くない位置だ。」
ハクトは一瞬、返事が遅れた。
「はい。」
「入口に近すぎない。橋も見える。戻る基準にはなる。」
胸の奥が少しだけ熱くなった。
けれど、セイルは続けた。
「だが、札に頼るな。」
「はい。」
「倒れた時に何を見るかも決めておけ。」
ハクトは道標札から視線を外した。
橋の見え方、入口手前の木、水音、足元の大きな石。
それから、道標札の少し手前にある、根が浮いた場所。
地図の端に書き足す。
『道標札が倒れた場合:橋の見え方、水音、入口手前の木、大きな石を確認』
セイルが横目でそれを見る。
「全部覚えようとするな。使えるものを選べ。」
ハクトは少し考えた。
水音は変わる、人が増えれば聞こえにくい。
木は見える、橋の見え方も戻る時に使える、大きな石も、足元の基準になる。
ハクトは書き直した。
『道標札が倒れた場合:橋の見え方、入口手前の木、大きな石』
「それでいい。」
短い言葉だった。
それでも、ハクトには十分だった。
入口前に着いた。
昨日見た暗がりがある。
外の光が届く範囲。
その先は、やはり暗い。
入口の奥は、昨日より静かに見えた。
でも、静かだから安全とは限らない。
昨日、小さな影はその静けさの中から出てきた。
ダレスが全員を止めた。
「ここから先は役割を分ける。」
ガルドが前に出る。
盾を持った冒険者が、入口側の守りに入る。
軽装の冒険者が、セイルの連絡補助として少し後ろにつく。
シアがハクトとリクの後ろへ立つ。
若い剣士、採取道具の女性冒険者、荷物運びの冒険者は、入口外側で待機する位置についた。
セイルがハクトの前に立った。
「お前はここだ。」
ハクトは奥を見た。
曲がり角。
その先。
自分が知らない白い場所。
「でも……。」
言いかけて、止まる。
言っても、答えはわかっている。
セイルは静かに言った。
「奥は俺が見る。お前は、俺たちが戻る道を見ろ。」
ハクトは口を閉じた。
それから、うなずく。
「はい。」
リクが隣で鞄の口を開いた。
「僕は、道具を見ます。」
リクは匂い玉、手当て布、水袋、予備の目印布を確認した。
新しい滑り止め爪は、靴にしっかりついている。
それを見て、ハクトの胸のざわつきが少しだけ落ち着いた。
若い剣士が入口の奥を見ていた。
けれど、剣には手をかけなかった。
昨日、相談机で手当て布を聞いた時とは違う顔をしている。
ハクトと目が合うと、若い剣士は少しだけ肩をすくめた。
「俺も、ここまでらしい。」
「はい。僕もです。」
「奥に行くだけが協力じゃないってことか。」
「たぶん、そうだと思います。」
採取道具の女性冒険者は、足元の小袋を確認していた。
「私は荷物と水。戻ってきた人に渡す係だって。」
「大事だと思います。」
「うん。昨日、袋を分けておいてよかった。」
ハクトはうなずいた。
奥へ行かない人にも、役割がある。
自分だけではない。
ここに残る人たちにも、戻ってくる人を支える役割がある。
入口の前で、ダレスがしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言う。
「俺は、この道を開ける気はなかった。」
ハクトは顔を上げた。
ダレスは入口ではなく、古い橋の方を見ている。
「閉じておけば、新入りは死なない。」
セイルは入口の暗がりを見たまま答えた。
「閉じた道は、誰も見なくなる。」
「わかっている。」
「見ない道は、別のものが使う。」
その言葉で、ハクトはまたマルタの言葉を思い出した。
荷馬車が通らなくなった道は、魔物が道にする。
まだ奥を見ていない。
けれど、その言葉はもう、ただの注意ではなかった。
ダレスは小さく息を吐いた。
「だから、見る。」
セイルはうなずいた。
「見るだけだ。開けるかどうかは、その後で決めろ。」
2人の間に、それ以上の言葉はなかった。
でも、ハクトにはわかった気がした。
これは、ただ入口の奥を調べるだけではない。
止まっていた道を、もう一度見るための確認なのだ。
セイルは入口の暗がりを見た。
右腕は、鞄の紐を握ったまま大きく動かない。
けれど、目だけは奥を見ていた。
「ここから先は、俺が見る。」
その声は、道具屋のものではなかった。
道を知っている人の声だった。