作品タイトル不明
橋手前までの相談机
翌朝、南門詰所の前に小さな机が置かれた。
机の上に広げたのは、昨日清書した相談机用の地図だけだった。
入口の形はない、足跡の記録もない、小さな影のことも書かれていない。
ハクトは地図の端を指で押さえた。
そこにあるのは、南門外縁から古い石標まで。
そして、古い橋手前までの道。
戻る時に見える目印、立ち止まる場所。
リクは隣で料金札を置いた。
『準備相談:2リル』
『店や詰所への案内込み:3リルまで』
『小分けセット:5リル』
札の位置は、もう迷わなかった。
机の前に立てば、先に料金が見える。
ダレスが詰所から出てきた。
地図を見る、料金札を見る。
それから、ハクトを見た。
「入口は載せていないな。」
「はい。」
「橋周辺は。」
「詰所確認へ回します。」
「いい。」
ダレスは掲示板の方へ視線を移した。
「入口奥の調査は、明日以降だ。」
「今日ではないんですか?」
「準備なしに入る場所ではない。」
ダレスは新しい札を掲示板にかけた。
周りにいた冒険者たちが、すぐにそちらへ視線を向ける。
『調査協力者募集』
『南門外縁・古い橋周辺』
『目的:危険箇所確認、帰路記録、物資運搬、警戒補助』
『条件:詰所説明必須』
『単独行動不可』
『入口奥への無断進入禁止』
「調査協力者も募る。」
「冒険者も、ですか?」
「そうだ。ただし、戦うだけの者はいらない。」
掲示板の前に人が集まり始めた。
「調査協力ってクエスト?」
「南門?」
「入口奥って何だ?」
「報酬あるのかな。」
ハクトは一瞬だけ、地図の端を強く押さえた。
入口奥。
そこには足跡があった。
小さな影がいた。
シアが傷を負った。
匂い玉を使った。
でも、机の上の地図には、それを書いていない。
ダレスが低い声で言った。
「聞かれたら、詰所へ回せ。」
「はい。」
最初に来たのは、革鎧を着た若い剣士だった。
腰の剣に手を置き、掲示板と机を交互に見ている。
「調査協力って、ここで相談できるんですか?」
ハクトは地図を少し自分の方へ引いた。
「詳しい内容は詰所で確認してください。ここでは、参加する前の準備確認ならできます。」
「準備確認?」
「はい。持ち物や荷物の量を見て、足りないものや分けた方がいいものを一緒に確認します。」
リクが料金札を指した。
「準備相談は2リルです。よければ、先に料金をお願いします。」
「じゃあ、頼む。」
剣士は2リルを机に置いた。
『共同資金:52リル → 54リル』
リクが帳面に記録する。
剣士は自分の持ち物を机に出した。
剣、小さな回復薬、水袋、携帯食、採取袋が2つ。
ハクトは持ち物を順番に見た。
「手当て布はありますか?」
「回復薬があるから、いらないと思ってた。」
「小さな傷や、薬を使う前の応急手当には布があった方がいいと思います。」
「そういうものか。」
「はい。調査協力の参加条件は詰所で確認してください。ここでは、準備の不足だけ見ます。」
剣士は回復薬と水袋を見比べた。
それから、掲示板の方を見る。
「戦う準備だけじゃ足りないんだな。」
「そうですね。戻るための準備も必要だと思います。」
リクが帳面に書いた。
『相談1:調査協力前の準備確認』
『手当て布なし』
『回復薬のみ』
『詰所説明へ』
剣士はうなずき、荷物をしまった。
「手当て布、どこで買える?」
「薬師の店なら扱っていると思います。場所の案内込みなら、追加1リルになります。」
「じゃあ、詰所の説明を受けた後で頼むかもしれない。」
「はい。」
剣士は掲示板をもう一度見てから、詰所の入口へ向かった。
最初より少しだけ、剣に置いた手の力が抜けているように見えた。
次に来たのは、採取道具を持った女性冒険者だった。
背負い袋が膨らんでいる。
袋の口から、空の小瓶や布袋がいくつも見えていた。
「橋の手前までの準備を見てもらえるって聞いたんだけど。」
「はい、準備相談は2リルです。」
「お願い。」
女性冒険者は2リルを置いた。
『共同資金:54リル → 56リル』
リクが帳面に記録する。
ハクトは荷物を見る前に聞いた。
「今日はどこまで行く予定ですか?」
「古い橋の近くまで行けるならと思って。」
「橋周辺は詰所の確認が必要です。この地図では橋手前までです。」
「あ、そうなんだ。」
女性冒険者は少し驚いた顔をした。
それから背負い袋を下ろす。
リクが荷物を見て、すぐに小さく首をかしげた。
「採取物と手当て布が同じ袋ですね。」
「だめ?」
「だめではないです。でも、泥や葉がついたものと手当て布は分けた方がいいと思います。」
「そっか。」
リクは小分けセットを1つ手に取った。
「小分けセットは5リルです。採ったものを分けるなら使えます。」
「じゃあ、それください。」
「ありがとうございます。あと、手当て布は採取物とは別にしておいた方がいいです。汚れると、傷に使いにくくなるので。」
「確かにね。じゃあ手当て布は別の袋に入れることにする。」
『共同資金:56リル → 61リル』
リクは売上を帳面に書いた。
それから、利益だけではなく、相談内容も書く。
『相談2:採取予定』
『橋手前まで』
『採取物と手当て布を分ける』
『小分けセット販売:5リル』
女性冒険者は荷物を入れ直した。
膨らんでいた袋が、少しだけ落ち着く。
「今日は橋まではやめて、古い石標までにする。」
「はい、その方が戻りやすいと思います。」
「ありがとう、行ってくるね。」
女性冒険者が南門へ向かう。
ハクトはその背中を見た。
橋へ行かせなかった。
でも、外へ行く準備はできた。
案内したのか、止めたのか。
たぶん、どちらでもある。
その後も、昼鐘前までに何人かが机の前で足を止めた。
水袋を見せに来た人、橋まで行くつもりだったが、古い石標までに変えた人、詰所の説明場所を聞き、案内込みで3リルを払った人。
リクは料金を先に伝え、ハクトは地図の範囲を越えないように答えた。
入口のことを聞かれた時だけ、何度も同じ言葉を使った。
「詰所で確認してください。」
昼鐘が近づく頃、机の前が少し静かになった。
掲示板の前に残っていた冒険者たちも、詰所の中へ入ったり、南門の外を見るだけで戻ったりしている。
リクは帳面を見て、共同資金を数えた。
「朝だけで14リル増えた。」
「共同資金は66リルですね。」
『共同資金:52リル → 66リル』
リクは小袋を閉じかけて、少し手を止めた。
「ハクト。」
「はい。」
「僕用の滑り止め爪、買っておいた方がいいと思うんだ。」
ハクトは机の下に置いていた貸与品の滑り止め爪を見た。
前に橋を渡った時、リクはそれを借りた。
今日も、相談に来た人たちの荷物を見ながら、足元の話を何度もした。
「毎回借りられるとは限りませんよね。」
「うん。それに、荷物を持って歩くなら、僕の方にも必要になると思う。」
「はい、買いましょう。」
「いいの?」
「リクが動けなくなったら、僕も戻れません。」
リクは一瞬だけ黙った。
それから、小さくうなずいた。
「じゃあ、昼の間にセイルさんの店に行こう!」
相談机はいったん片付けた。
ダレスに声をかけると、昼の間だけなら構わないと言われた。
ただし、地図は詰所に置いていくことになった。
市場通りは昼の匂いがした。
焼いたパン、煮込みの湯気、人の声。
朝から机の前に立っていたせいか、街の音がいつもより少し近く感じた。
セイルの店は開いていた。
ただ、店の奥に、いつもより少し大きめの鞄が置かれている。
棚の上には、目印布や細縄がまとめて出されていた。
「来たか。」
「はい、リク用の滑り止め爪を買いに来ました。」
「貸与品で足りなくなったか。」
「明日以降も必ず必要になると思って。」
セイルはリクの靴を見た。
「荷物を持つなら、足元は自分のものにしておけ。」
「はい。」
「貸与品は歩けるかを見るためのものだ。自分のものは、戻るために合わせる。」
セイルは棚から滑り止め爪を出した。
留め具を確認し、リクの靴に合わせて調整する。
右手で金具を押さえようとして、ほんの少しだけ動きが止まった。
すぐに左手で持ち直す。
ハクトはそれに気づいた。
けれど、何も聞かなかった。
セイルは何事もなかったように調整を続けた。
「40リルだ。」
「はい。」
リクが共同資金から40リルを出した。
『リク用滑り止め爪:購入』
『共同資金:66リル → 26リル』
共同資金の小袋が、一気に軽くなった。
でも、減った分は消えたわけではない。
リクの足元になった。
セイルは滑り止め爪をリクへ渡した。
「橋の上で直すな。おかしいと思ったら、渡る前に言え。」
「はい。」
「荷物を持っている時ほど、歩けると思うな。」
「はい。」
セイルはハクトを見る。
「相談机はどうだ。」
「橋手前までの地図だけ使っています。」
「入口は。」
「載せていません。」
「それでいい。」
短い言葉だった。
でも、ハクトは少しだけ胸の奥が落ち着いた。
セイルは店の奥に置いた鞄を見た。
それから、棚の上の目印布に手を伸ばす。
「明日は、詰所の指示をよく聞け。」
「はい。」
「机の上だけ見ていればいい日じゃない。」
ハクトは顔を上げた。
「セイルさんも、南門に来るんですか?」
セイルは答えるまでに、ほんの少し間を置いた。
「見るものがある。」
それだけだった。
けれど、道具屋の言葉には聞こえなかった。
店を出て、ハクトとリクは赤屋根パンを買った。
昼食は、店の脇の邪魔にならない場所で簡単に済ませた。
リクは新しい滑り止め爪を膝の上に置き、何度も留め具を確認していた。
「軽くはないね。」
「でも、足元の準備ですから。」
「うん。お金、減ったけど。」
「減った分は、リクの足元になりました。」
「それ、ちょっといい言い方だね!」
リクは少し笑った。
ハクトも小さく笑った。
午後、南門詰所前へ戻ると、相談机の前にはすでに何人かが待っていた。
ダレスがこちらを見る。
「戻ったか。」
「はい。」
「午後も橋手前までだ。入口の話はするな。」
「はい。」
机を出し直す、地図を広げる、料金札を置く。
リクは新しい滑り止め爪を鞄の中へしまい、帳面を開いた。
午後の相談は、朝より少し慣れてきた。
ハクトは同じ説明を繰り返す。
同じ場所を指す。
同じように、橋手前で止まる話をする。
それでも、相手は毎回違った。
荷物が多い人、水が足りない人、調査協力の説明を受ける前に手当て布を買いに行った人、小分けセットを買う前に、何を入れるか決めていない人。
リクは、すぐに売ろうとはしなかった。
「何を分けたいですか?」
「採取物と、予備の布。」
「それなら、採取物用に1つ。布は別の袋がいいです。」
別の人には、小分けセットをすすめなかった。
「今日は石標までなら、今の袋で足りると思います。」
「買わなくていいの?」
「はい。先に使ってみて、足りなかったらでいいと思います。」
ハクトはそれを横で聞いていた。
売らない商人。
でも、相談としては正しい。
たぶん、それもリクの仕事だった。
夕方が近づく頃、南門の外から戻ってくる人が増えた。
古い石標まで行って戻った人、途中で荷物を減らしてよかったと言った人、橋までは行かなかったと、少し照れたように笑う人。
相談机の地図に入口はない。
でも、その地図を見て戻ってきた人たちはいた。
リクは最後の相談を書き終えると、共同資金を確認した。
「午後は16リル増えた。」
「相談4件で8リル。案内込み1件で3リル。小分けセット1つで5リルですね。」
「うん。」
『共同資金:26リル → 42リル』
リクは朝からの流れを帳面にまとめた。
『朝の相談収入:14リル』
『リク用滑り止め爪:40リル』
『午後の相談収入:16リル』
『共同資金:52リル → 66リル → 26リル → 42リル』
「一度増えたのに、すぐ減ったね。」
「でも、減った分は道具になりました。」
「うん。明日、僕の足元になる!」
その時、視界に表示が浮かんだ。
『案内人経験値を獲得しました』
『職業:案内人 Lv.3』
『経験値:60/120 → 76/120』
隣でリクも表示を見ていた。
『商人経験値を獲得しました』
『職業:商人 Lv.3』
『経験値:42/120 → 60/120』
「入った!」
「はい。」
「売った分だけじゃないよね、これ!」
「相談した分も入っていると思います。」
「うんっ!」
掲示板には、調査協力者募集の札がまだ残っている。
その下には、明日の説明を受けた冒険者たちの名前札が並べられていた。
夕方の光で、札の影が少し伸びている。
ダレスが詰所から出てきた。
「明日、入口奥の確認に入る。」
「はい。」
「お前たちは入口奥へは入らない。」
「はい。」
ハクトはうなずいた。
胸の奥が、少しだけざわつく。
でも、昨日よりはわかっている。
奥を見る人がいる。
自分たちは、奥へ行く人たちが戻ってこられる道を見る。
セイルの言葉が頭に残っていた。
机の上だけ見ていればいい日じゃない。
ハクトは相談机用の地図を畳んだ。
そこに入口はない。
足跡も、小さな影もない。
それでも今日、その地図を見て止まった人がいた。
荷物を減らした人がいた。
手当て布を買いに行った人がいた。
知らない場所を隠すためではない。
知らないまま進ませないために、書かない。
ハクトはリクの新しい滑り止め爪を見た。
買ったばかりの金具は、まだ少し硬そうだった。
明日、それはリクの足元になる。
明日、誰かが奥を見る。
けれど、自分たちが見るのは、その奥へ向かう道だけではない。
戻ってこられる道だ。