作品タイトル不明
戻るための地図
戻る道は、行きよりも長く感じた。
古い橋から離れるにつれて、水の音は少しずつ小さくなっていく。
けれど、ハクトの耳にはまだ残っていた。
橋の下で揺れた水音。
草の影から出てきた、小さな黒い魔物の気配。
それを見た瞬間に背中を走った冷たさ。
ガルドは先頭を歩きながら、何度か後ろを確認した。
リクは鞄の肩紐を握り直し、足元を慎重に見ている。
誰も無駄に話さなかった。
古い石標が見えてきた時、ハクトは少しだけ息を吐いた。
昨日引き返した場所。
今日も、ここを越えて戻ってきた。
『南門外縁』
『確認済み地点』
表示が浮かぶ。
ハクトは足を止めずに、その表示を見送った。
確認済み。
その言葉が、昨日より少しだけ重く感じた。
「止まるな。」
ガルドが短く言った。
「はい。」
ハクトは返事をして、歩き続ける。
石標まで戻ったから安全、というわけではない。
南門が見えるまでは、まだ外だ。
草むらの向こうで、小さな音がした。
ハクトの肩がわずかに跳ねる。
ガルドが盾を少し動かしたが、すぐに首を横に振った。
「距離がある、構うな。」
「はい。」
リクが小さく息を吐いた。
「……戻る時の方が、ちょっと怖いね。」
「わかります。見た後だから、余計に気になります。」
「うん。知らない怖さと、知った後の怖さって違うんだね。」
ハクトはうなずいた。
知らない時は、ただ不安だった。
今は、何がいるかを少しだけ知ってしまった。
だからこそ、草の揺れや水の音に意味がついてしまう。
けれど、それは悪いことではない。
知ったから、避けられる。
知ったから、戻れる。
ハクトは地図を開いた。
南門へ戻る道が、細い線で表示されている。
来た時よりも、少しだけはっきりして見えような気がする。
『旧リーヴェル街道』
『古い橋までの仮記録を保存中』
表示が淡く光る。
ハクトは足元を見ながら、ゆっくり進んだ。
やがて、南門が見えた。
石造りの門。
その向こうに、赤い屋根の街。
門の前に立つ門番の姿が、妙に頼もしく見えた。
「門まで戻るぞ。気を抜くな。」
ガルドの声に、ハクトとリクは同時に返事をした。
「はい。」
「了解!」
最後の数歩を進み、3人は南門をくぐった。
石畳の硬い感触が靴の裏に戻る。
門の内側には、荷車を押す人や、これから外へ出ようとする冒険者たちの声があった。
ハクトはようやく肩の力を抜いた。
まだ何かを成し遂げたというほどではない。
けれど、外から街へ戻ってきた。
それだけで、胸の奥が少し軽くなる。
ガルドが2人を見た。
「外に出るなら、帰り道まで考えろ。着くだけなら半分だ。」
リクが小さく息を吐き、それから少し笑った。
「戻ってくるまでが探索、か。」
ハクトはうなずいた。
橋を見つけたことよりも、ここまで戻れたことの方が、今は大きく感じられた。
「わかったならいい。」
ガルドの言葉は短かったが、少しだけ認められたように聞こえた。
「ありがとうございました。ガルドさんがいなかったら、あそこまで行けませんでした。」
「護衛の仕事だ。」
ガルドは淡々と言った。
「だが、戻る判断はお前がした。外では、あれができるかどうかが大きい。」
「……ありがとうございます。」
ハクトは少しだけ言葉に詰まった。
嬉しかった。
ただ褒められたからではない。
自分が案内人として、少しだけ正しい判断をできた気がしたからだ。
リクが横で笑う。
「僕も助かったよ。黒いのが出た時、正直ちょっと固まっちゃった……!」
「俺も驚きました。」
「驚いてすぐ戻るって言えたなら、十分じゃない?」
ハクトはそう言われて、橋の下を思い出した。
あの時、行きたい気持ちは確かにあった。
橋の向こう、まだ見ていない道。
地図にない場所。
けれど、それより先に戻ると決められた。
「今日の目的は、橋の確認でしたから。」
ハクトが言うと、リクは満足そうにうなずいた。
「うん、ちゃんと戻る理由を持ってたね。」
ガルドは南門の脇にある詰所へ歩き出した。
「報告に行く。ついてこい。」
「はい。」
詰所の中は、昨日と同じように簡素だった。
木の机、壁にかかった地図、端に置かれた槍と盾。
朝の空気がまだ残っていて、外より少し冷えている。
ガルドは机の前に立ち、門番の1人に声をかけた。
「旧リーヴェル街道の古い橋を確認した。橋は残っているが、渡行は危険。橋下に小型魔物を確認。周辺は水が広がっている。」
門番が顔を上げる。
「魔物が出たか。」
「ああ。まだ小型だが、放置すれば増えるかもしれん。」
ガルドはハクトを見る。
「記録を出せるか。」
「はい。」
ハクトは地図を開き、古い橋の記録を表示する。
『古い橋』
『位置確認』
『橋の中央に床板の抜けあり』
『橋下に淀みあり』
『周辺の草が高く視界不良』
『小型魔物を確認』
『本日は渡らない』
門番は表示をのぞき込み、軽く眉を上げた。
「案内人の記録か。」
「はい。」
「見やすいな。橋の位置もわかる。」
その一言に、ハクトは少しだけ背筋を伸ばした。
「ありがとうございます。」
門番はガルドにうなずく。
「報告として受け取る。確認隊を出すかは上に回す。」
「そうしてくれ。橋そのものより、水場の方が面倒そうだ。」
ガルドはそう言ってから、ハクトに向き直った。
「お前たちの依頼分はここまでだ。」
「はい。」
その時、ハクトの前に表示が浮かんだ。
『クエスト進行』
『途切れた街道』
『古い橋を確認しました』
『南門詰所へ報告しました』
続けて、別の表示が重なる。
『案内人経験値を獲得しました』
『案内人 Lv.2:42/100』
ハクトは表示を見て、静かに息を吸った。
レベルは上がらない。
けれど、確かに増えている。
横でリクも自分の表示を確認していた。
「僕もちょっと入った。」
「経験値ですか?」
「たぶんね。護衛付きの移動、道具の管理、情報の共有。そういうところかな?」
「なるほど。」
「でも、レベルアップはまだ。商人の道は長いね!」
リクは少し大げさに肩をすくめた。
ハクトは思わず笑う。
門番が机の引き出しを開け、小さな革袋を取り出した。
「南門外縁の追加確認分だ。正式な調査ではないが、魔物の確認も出来た。2人で30リル。」
「ありがとうございます。」
ハクトが受け取ろうとして、少し手を止める。
リクを見ると、リクも同じように革袋を見ていた。
「今回はどう分けますか?」
「共同資金にしない?」
「全部ですか?」
「うん、橋のために使うお金になると思う。回復薬とか、匂い玉とか、次の護衛費とか。」
ハクトはうなずいた。
今回の報酬は、2人のどちらかが使うためのものではない。
次に戻ってくるための準備にする方がいい。
「共同資金にしましょう。」
「決まり!」
リクが革袋を受け取り、鞄の中の別の小袋に入れる。
「共同資金、30リル。」
「これで、次の準備に少し回せますね。」
「うん。でも、必要な物を考えると、すぐ使い道は決まりそうだけどね。」
その通りだった。
古い橋は見つかった。
けれど、渡れる状態ではない。
橋の下には魔物がいて、水場も広がっている。
次に行くなら、もっと準備がいる。
ガルドが詰所の扉へ向かいながら言った。
「今日はもう外へ出るな。」
「はい、そのつもりです。」
「記録を整理して、必要な物を考えろ。外で考えるな。街で考えろ。」
ハクトはその言葉をしっかり聞いた。
「わかりました。」
ガルドは軽く手を上げ、詰所の外へ出ていった。
その背中を見送りながら、リクが小さくつぶやく。
「やっぱりいい護衛だね!」
「はい。またお願いできるなら、お願いしたいです。」
「予定が合えばね、ちゃんと確認しよう!」
リクの言葉に、ハクトはうなずいた。
ガルドにも予定がある。
いつでも頼めるとは限らない。
だからこそ、護衛にも向き不向きがあるという話をしていたのだ。
詰所を出ると、南門前には朝の人通りが増え始めていた。
外へ向かうプレイヤー、荷物を運ぶNPC、門番に話しかける冒険者。
街はもう、完全に動き出している。
ハクトは門の外を振り返った。
さっきまで歩いていた道が、門の向こうに続いている。
その先に、古い石標がある。
さらに先に、古い橋がある。
昨日までは、ただの未確認の道だった。
今は違う。
そこには壊れた橋があり、水の淀みがあり、小型の魔物がいる。
それを知っている。
知った場所は、地図になる。
けれど、地図にしたからといって、安全になるわけではない。
「まず、記録を整理したいです。」
ハクトが言うと、リクはすぐにうなずいた。
「賛成!あと、必要な物も洗い出そう。橋を見る準備と、橋を渡る準備は別だからね!」
「はい。今日は渡るための準備を考える日ですね。」
「うん、すぐ行かないの、大事!」
2人は南門を離れ、市場通りの方へ歩き出した。
昨日より人が多い。
屋台からは湯気が上がり、パン屋の前には数人の列ができている。
朝の街は、さっきより少し賑やかになっていた。
ハクトは歩きながら、地図を開く。
『旧リーヴェル街道』
『古い橋』
『危険情報あり』
新しい印が、地図の端に小さく刻まれている。
そこだけが、他の線よりも濃く見えた。
ハクトはその印を見つめる。
進むための印。
そして、戻るための印。
案内人の地図は、道を伸ばすためだけのものではない。
どこで止まるか。
どこから戻るか。
それも、きっと地図に書くべきことなのだ。
「ハクト?」
リクに呼ばれて、ハクトは顔を上げた。
「どうかした?」
「いえ。地図に、戻るための情報も必要なんだと思って。」
「いいね。それ、案内人っぽいよ!」
「そうですか?」
「うん。行ける場所だけ書いてある地図より、戻れる場所がわかる地図の方が、僕は信用できる。」
ハクトは少しだけ笑った。
「じゃあ、そういう地図にします。」
「期待してるっ!」
リクが軽く笑う。
ハクトはもう一度、地図の印を見た。
古い橋。
危険情報あり。
本日は渡らない。
その記録は、失敗ではない。
戻ってきたから、次を考えられる。
ハクトは地図を閉じた。
今回の目的は終わった。
けれど、次に進むためにやることは、もう目の前に増えていた。