軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 隣国の王女

レオナルドから返事が来たのは、二週間後だった。

手紙を受け取って、ミーナはすぐに開封した。

封を割る手が、少し急いでいたことに、自分でも少し驚いた。

『ヴェルダン公爵令嬢殿

お手紙ありがとうございました。

返事が遅れたのは、川の件で少し立て込んでいたためです。橋は、今年は架け替えることにしました。昨年からの懸案で、ちょうどよい機会でした。

一人で文献を読んでいるとのこと、それで十分だと思います。指示がなければ読めないのと、指示がなくても読めるのとでは、積み重なるものが違う。ルーカス博士が戻った時、あなたの方が先に進んでいるかもしれない。

疑問が生まれたら、書いてください。私に答えられることは少ないかもしれませんが、一緒に考えることはできます。

魔力の制御と感情の関係については、辺境の老人が興味深いことを言っていました。「力は感情の形をする」と。詳しくは、記録を探してみます。

辺境の春、今日は風が強かった。』

ミーナは手紙を何度も読み返した。

『一緒に考えることはできる』、と書いてあったことが嬉しかった。

そして『力は感情の形をする』という言葉が、気になった。

文献の欠落に対して、辺境の老人の言葉が答えをくれるかもしれないと思った。

明確な答えではなかった。でも、レオナルドは答えを探してくれていた。

レオナルドからの手紙の余韻を、ミーナはしばらく味わった。

胸の奥でまた、何かが揺れた。

その感情に、まだ名前をつける勇気がミーナにはなかった。

それからも、レオナルドとも手紙が続いた。

週に一度、あるいは十日に一度。辺境からの封筒が届くと、ミーナは書斎に持っていって、そこで開けた。

内容はいつも、辺境の日常だった。北方の民が今年どんな種を蒔いているか。川が落ち着いてきたこと。新しく架けた橋を村の子どもたちが渡る練習をしていること。古い言葉を知っている老人から、戦前の辺境の話を聞いたこと。

ミーナも日常のことを手紙に書いた。

文献で見つけた疑問。孤児院のルカが全部の漢字を覚えようとして苦労していること。春になって、書斎の窓から見える庭の薔薇の枝に、花の気配が出てきたこと。

そして、文献の欠落について考えたことを、少しずつ書いた。感情と魔力の関係。熾火と燃え盛る炎の違い。老人の「力は感情の形をする」という言葉を、自分の指先の感覚と照らし合わせてみると、何かが一致する気がすること。

レオナルドは、それに対して短く答えた。『辺境の別の老人にも確認してみます』と。

やりとりは、静かに続いた。

何かを約束したわけではなかった。何かを期待させるような言葉も、どちらも書かなかった。

ただ、手紙のやりとりが続いた。

その「続く」という事実が、ミーナの中で少しずつ、温かいものになっていった。怖さは消えなかった。でも、温かさの方が少しずつ大きくなっていった。

それでいい、とミーナは思っていた。

噂を最初に聞いたのは、五月に入った茶会でのことだった。

ルウェラン侯爵夫人の主催する、会というよりは、小さな集まりだった。令嬢が六人、夫人が四人。白いカップに春の花のような茶の香りが立って、窓から庭の光が入っていた。穏やかな午後だった。

隣に座っていたグレイン子爵夫人が、扇を少し動かしながら言った。

「ねえ、聞きましたか?カーゼル辺境伯の話」

ミーナのカップを握る手に、ぎゅっと力が入った。

「どのようなお話しでしょうか?」

「隣国との縁談が進んでいるとか。マーレン王国の王女様と、政略的な繋がりを持つためだそうですよ」

ミーナはカップを、静かに皿の上に置いた。

音は立てなかった。

「まあ」と別の夫人が言った。「辺境伯ともなれば、そういうご縁もおありになるでしょうね」

「北の国境に近いもの。マーレンとの関係は、王国にとっても重要でしょうし」

「それに、マーレンの第三王女はまだ二十歳でいらっしゃるとか。大層な美女だそうで」

「辺境伯はまだ、戦争のせいでご婚約がなかったですしね。これは正式に話が進むかもしれないわねえ。おめでたいわねえ」

会話は和やかに続いた。

ミーナは何も話さず、穏やかに微笑んで、茶を一口飲んだ。

特別にルウェラン侯爵夫が取り寄せた高価なお茶らしかったが、味が全くしなかった。

窓から入る春の光が、今日は少し白すぎた。まぶしい、というより、色がなかった。光だけがあって、温かみがないように感じられた。

『二十歳の王女。しかも大層な美女』

その言葉を、ミーナは胸の中で一度、静かに受け取った。

受け取りながら、思った。

(やはり、そういうものなのか)

アルベルトは十八歳を選んだ。

社交界の男性たちは、縁談を持ってきた時、みな魔力の話をした。

そしてレオナルドには、二十歳の王女との縁談がある。

若さと政治的な価値。

それには、何も勝てない。

ミーナはそれを、すでに知っていたはずだった。知っていたはずなのに、知らなかったふりをしていたのかもしれない。手紙が届くたびに、少しずつ何かを期待していた。その期待を、今日の噂が静かに冷やした。

(やはり私では足りないのだ)

その言葉が浮かんできた時、ミーナは自分でも驚いた。

それは、認めたくなかったことでもあった。

婚約解消の夜から半年。研究院に通い、文献を読み、手紙を書き、孤児院に通い、広場のベンチに座り、それだけのことをしてきた。

でも、私では足りない。

レオナルドが三十歳の自分を選んでくれるかもしれないと思った時、それは十八歳で婚約が決まった時よりも遥かに大きな喜びを感じさせていたのだと、ミーナは気づいてしまった。

歳をとることを残酷に感じ、目の前が真っ暗になってしまった。

帰りの馬車の中で、ミーナは一人だった。

窓の外の景色が流れていく。石畳、商店の軒先、行き交う人々。全部が見えているのに、何も見ていなかった。

一度傷ついた心が、もう一度傷つくことは、最初に傷つくより辛い。

馬車がガタンと揺れた。

ミーナは窓に額を触れないくらいに近づけて、外を見た。

春の王都は、美しかった。花が咲いている。光がある。人が笑っている。

全部が、今は遠かった。

自分だけが、透明な壁の内側にいるようだった。

指先が、温かかった。

今夜だけは、慰めにならなかった。

でも、そこにあった。

帰ってから、すぐに書斎に入った。

机の上に、先週届いたレオナルドの手紙が、まだ置いてあった。

ミーナはそれを見た。

でも、手に取らなかった。

ただ、そこにある、白い封筒を見た。

噂は噂だ、とミーナは思った。

確認されたことではない。ただ、茶会で聞いた話だ。社交界の噂が全部本当なら、この王都は毎日沢山の事件が起きていることになる。

でも。

噂には、核がある。

全くの根も葉もないことは、噂にならない。何かがあるから、形になって広がる。

辺境伯と隣国の王女。

政略的な縁談。

それは、あり得ることだった。むしろ、自然なことだった。辺境を守る立場の人間が、隣国と縁を結ぶことは、理にかなっていた。

ミーナは椅子に座った。

なぜ自分がここまで揺れているのか、少し考えた。

返事を書き始めてから、まだたったの二ヶ月。約束なんてどこにもなかった。永遠を誓い合った言葉の一つだって、ありはしない。ただ、数通の手紙が途切れずに続いていただけ。

なのに私は、レオナルドに何を見ていたんだろう。勝手に期待して、勝手に夢を見て……。

頬が火照る。穴があったら入りたい。なんて、なんて滑稽で間抜けなんだろう。

同じ場所を何度も、何度も、擦り切れるまでなぞり続ける思考は、どこにも辿り着けないまま、ただ私の内で醜い円を描き続けていた。

翌日、孤児院へ行った。

ルカは今日、熱を出して休んでいた。院長に聞くと、昨日から少し体調を崩しているが、心配はないという。

ルカのいない孤児院は、少し静かだった。

他の子どもたちと過ごしながら、ミーナはルカのことを考えた。

あの子は、毎日練習している。ミーナが来ない日も、一人でやっている、と言っていた。

見てもらいたいから続ける。でも、見てもらえない日も続ける。

ルカはとても偉い子だ。

一方で、自分はどうか。

レオナルドから手紙が来ない日も、文献を読んでいた。一人で疑問を書き留めていた。孤児院に来ていた。指先の温かさを確かめていた。

手紙が来るから続けていたのではなかった。

でも、手紙が来るかもしれないと思うと、少し速く目が覚めた。

それは本当のことだった。

それが今、崩れそうになっていた。

院長が、お茶を持ってきてくれた。

「ミーナ様、今日は少し顔色が良くないですね。大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ。ありがとうございます」

「ルカがいないせいかしら。ルカはムードメーカーですからね。寂しいですよね」

「そうかもしれません。ルカがいないと寂しいです」とミーナは答えた。

嘘ではなかった。半分は、本当のことだった。

帰り道、ミーナは例の広場を通った。

石のベンチに、今日は誰かが座っていた。老人が一人、目を閉じて、春の光の中にいた。

ミーナは別のベンチに座った。

広場の中央に、小さな噴水がある。水が、低い音を立てて流れていた。

その音を聞いていた。

ミーナは噴水の水を見た。

水は、低い場所へ流れる。それが水の性質だ。変えられない。

でも、流れた先で、また別の形になる。

同じ水が、違う場所で、違う形になる。

(私は今、どこにいるのだろう)

ミーナは思った。

老人が日なたで目を閉じている。噴水が鳴っている。子どもが遠くで笑っている。街は動いている。

ふと、ベンチの足元を見た。

石畳の隙間に、小さな花が咲いていた。黄色い、名前のわからない花だった。前に孤児院で見たものと、同じ種類かもしれない。誰も植えていない。誰も水をやっていない。でも、そこで綺麗に咲いていた。

琥珀色の光は、誰かに見てもらわなくても、ミーナの指先にある。

あの花も、誰かに気づいてもらわなくても、そこに咲いている。

見られているから咲くのではない。

咲くから、誰かに見られる。

ミーナはその花を、少しの間、見た。

その日の夜、ミーナは孤児院の子どもたちのことを思い出した。

ルカではなく、別の子どもだ。五歳の女の子で、名前をエルと言った。両親を事故で亡くして、半年前に孤児院に来た。最初はずっと泣いていた。誰がどう慰めても泣いてばかりいた。

でもエルは先月から、少し変わってきた。

他の子と話せるようになって、先週は初めて笑った。

院長は「時間がかかった」と言っていた。「でも、時間をかけた分だけ、根が張った感じがします」と。

『根が張る。』

その言葉を、ミーナは今夜、自分のものとして考えた。

傷ついた心を癒すには、時間がかかる。でも時間をかけた分だけ、何かが変わっていく。

婚約解消から、半年経った。私の心は、少し楽になってきていると思う。

レオナルドと隣国の王女との婚約の噂が本当かどうか、まだわからない。

もし本当だったとしたら、それはその時に考える。

今考えても、確かめようがない。

ミーナは便箋を引き出しから出した。

今夜は、書けるかどうかわからなかった。

でも、引き出しを開けた。

短い手紙をレオナルドに書いた。

『カーゼル辺境伯様

少し、聞いてもいいですか。

社交界で、噂を聞きました。辺境伯が隣国の王女と縁談中だという話です。

直接聞くのは、失礼かもしれません。でも、聞かないまま何かを想像し続けることの方が、私には難しいので。

事実でなければ、忘れてください。

事実であれば、教えてください。

どちらでも、私はここにいます。』

書いてから、長い間、読み返した。

送っていいのか、何度も迷った。

でも、送ることにした。

聞かないまま想像し続けることの方が、難しい。それは本当のことだった。アルベルトとの十二年間、ミーナは多くのことを聞けなかった。聞くことを、失礼だと思っていた。波風を立てることを、恐れていた。

その結果、一夜で全部を知らされた。

今度は、思い切って聞いてみようと思った。

怖いけど、勇気を出してみようと思った。

書き終わった手紙を机の上に置いて、ランプを落とした。

暗くなった部屋で、ミーナは目を閉じた。

返事が来るまで、何日かかるかわからない。

来ないかもしれない。

来たとしても、何と書いてあるかわからない。

窓の外に、春の夜の空があった。

星は今夜も出ていた。

遠くて、淡い、青みがかった白い光が、いくつか瞬いていた。

その中に、琥珀に近い色の星が一つ、あった気がした。

ミーナはそれを少しの間見てから、目を閉じた。

今夜は、眠れるかどうかわからなかった。

でも、横になって目を瞑った。