軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 逃げようとした私

手紙は、十日後に届いた。

朝の食卓に、執事のフレデリックが持ってきた。「カーゼル辺境伯家からでございます」と言って、ミーナの隣に置いた。

母が顔を上げた。父が新聞から目を離した。

ミーナは封筒を受け取って、「ありがとう、フレデリック」と言った。

声は、いつも通りを装った。

封筒を開けたのは、書斎に戻ってからだった。

封蝋を割って、手紙を取り出した。

レオナルドの字は、細くて整っていた。軍人の字というより、学者の字に近かった。力が入りすぎず、でも一文字一文字がはっきりしていた。

手紙をゆっくりと読んだ。

辺境の春のこと。雪解けが遅いこと。北方の民が今年の農作業の準備を始めていること。川の水量が増えていて、一部の橋が心配されていること。

それから、一行だけ、研究のことが書いてあった。

学会の否認については、気にしないでほしい。ルーカス博士の研究は正しい。正しいものは、時間がかかっても残るものだ。

こう最後に、短く書いてあった。

王都の春は、どうですか。

それから、もう一行。

北の空の色は、説明が難しい。来てみれば、わかります。

ミーナは手紙を読み終えて、机の上に置いた。

しばらく、そのままにしていた。

『来てみれば、わかります。』

その一行が、紙の上で、少しの間、光っているように見えた。

返事を書こうとした。

便箋を引き出しから出した。ペンを持った。インクをつけた。

しかし、なにも書くことができなかった。

何を書けばいいのか、わからなかった。いや、わからないのではなかった。書きたいことはあった。辺境の川のこと、もっと聞きたかった。農作業の準備というのがどんな様子なのか、想像しながら読んでいた。ルーカスが回復に向かっていること、伝えたかった。

伝えたいことがあるのに、ペンが動かなかった。

ミーナはペンを置いた。

便箋を、引き出しに戻した。

また明日、と思った。

また明日、は、三日続いた。

三日目の夜、ミーナは自分が何をしているのか、ようやく言葉にした。

逃げているのかもしれない。

返事を書かないことで、何かから逃げている。

それが何からかは、少し考えればわかった。

返事を書いたら、続くから。

手紙が続いたら、何かが始まるから。

何かが始まったら、また、終わるかもしれないから。

十二年間の婚約が一夜で終わった夜のことを、ミーナの体はまだ覚えていた。あの夜、廊下の壁に手をついた感触。膝が震えていたこと。大理石の冷たさだけが現実だったこと。

もう一度あれが来るかもしれないと思うと、返事を書く手が止まった。

レオナルドは、そういう人ではない。

そのことは、わかっていた。

でも、頭でわかっていることと、心が信じることは、違う。

頭は言う。『レオナルドとあの人は違う。』

心は言う。『でも前も、信じて裏切られた。』

十八歳の時、アルベルトのことを、いい人だと思っていた。自分の話を聞いてくれる人だと。珍しい本を探してきてくれる人だと。戦場に行っても、帰ってきてくれる人だと。

それらは全部、若かったミーナに向けられていたものだった。

ミーナという人間に向けられていたのではなく、若くて美しいミーナというラベルに向けられていたものだった。

ラベルが変わった時、全部が変わった。

レオナルドは違う、とミーナは思う。あの人の目は、ラベルを見ていない。でも、そう思うこと自体が、十二年前と同じだ。あの時も、そう思っていた。

信じることと、信じようとすることの間に、薄い膜がある。

その膜を、今のミーナはまだ破れなかった。

孤児院へ行ったのは、四日目のことだった。

ルカが走ってきた。

「ミーナ様、久しぶり!」

「一週間ぶりでしょう?久しぶりじゃないですよ」

「一週間は久しぶりだよ。学校の先生は毎日来るのに」

「私は先生ではないですよ」

「でも先生みたいなものじゃん」

ルカはミーナの手を引っ張った。「早く来て、書いたものを見てほしいの」

引っ張られながら、ミーナは少し笑った。

この子の前では、余計なことを考えている暇がなかった。

ルカが書いたのは、五十音の表だった。全部の文字を、紙いっぱいに書いてあった。形が歪んでいるものもあった。でも、全部あった。

「全部ね、僕が書いたんだよ」

「すごいですね。全部書けたんですね」

「一つも間違えてないでしょ?どう?どうかな?」

「本当ですね。ルカはすごいですね」

「ほめて!ほめて!」

「今褒めましたよ」

「もっとほめて!もっと!」

ミーナは声を上げて笑った。久しぶりの笑いだった。胸の奥から来る笑いだった。

「ルカはすごいです。毎日練習したのでしょう?努力家さんですね」

「そうなの。僕毎日練習したの。ミーナ様に見せるために」

「ルカ、見せてくれてありがとう」

「ミーナ様は? 何か練習してる?」

突然聞かれて、ミーナは少し詰まった。

「……魔法の練習をしてるよ。少し止まっているんだけどね」

「なんで止まってるの?毎日やらないの?」

「先生が体調を崩してしまってね。それから、色々とあったの」

「再開したらいいじゃん!やりたくないの?」

ルカは当たり前のように言った。

「先生が戻ってきたら、再開できると思うんだけどね」

「でも先生がいなくても、練習できるんじゃないの?」

七歳の子どもの言葉は、まっすぎすぎて、時々刺さる。

「……そうかもね」

「僕だって、ミーナ様がいない日も練習してるよ。一人でもできるよ」

ルカはそう言って、また紙に文字を書き始めた。次の課題に、もう移っていた。

ミーナはその横顔を見ながら、少し考えた。

『一人でもできるよ。』

それは、七歳の子どもの言葉だ。単純で、当たり前で、でも今のミーナには、妙に重かった。

ルーカス博士が戻るまで待っていた。研究院が再開するまで待っていた。

でも、待ちながら何もしないことと、待ちながら続けることは、違う。

指先の温かさは、今日もある。

一人だったとしても、この温かさは消えない。

孤児院の帰り道、ミーナは遠回りをした。

王都の北側にある、小さな広場のある通りを歩いた。ここは人通りが少なく、石畳が古くて、少し凸凹している。子どもの頃、ここでよく転んだ。

転んだ記憶がある場所を、今は大人の足で歩いている。

何が変わって、何が変わっていないのか。

街は変わっていない。石畳は変わっていない。転ぶことがなくなったのは、大人になったからか、慎重になったからか。

どちらも少しずつ本当のことだと思った。

広場の端に、古い石のベンチがあった。

ミーナはそこに座った。

春の午後の日差しが、石畳を斜めに照らしていた。光の色は淡くて、白に近かった。雪のような色ではなく、もっと柔らかい白。春の光だけが持つ、温かみのある白だった。

手袋を外した。

指先を光にかざした。

何も見えない。でも、温かかった。内側から温められているような、あの感覚が、今日もそこにあった。

そして今日は、もう少し、はっきりしていた。

かざした指の周りに、ほんのわずかに揺れるものがあった。陽炎のように、でも陽炎とは違う、琥珀色の揺らぎ。他の人には全くわからないだろう。でも、ミーナには見えた。

(私の魔力は、ここにある)

ミーナは思った。

(研究院が閉まっていても。ルーカスがいなくても。学会に否認されても。レオナルドが遠くにいても。ここにある)

誰かに証明してもらわなくても、ここにある。

それは、返事を書くこととは、別のことだ。

自分の中にあると認識することと、誰かに見てもらうことは、別のことだ。

混ぜてはいけない。

自分の中にあるものは、誰かに確かめてもらわなくても、ここにある。

誰かに分かってもらうことは——それは、別に考えればいい。

ミーナは手袋を戻した。

ベンチから立ち上がった。

よし帰ろう、と思った。

帰ったら、ルーカスの文献を一人で読もう。研究院から借りたまま、読みかけのものが何冊かある。指示がなくても、読める。ノートに書き込める。

それだけのことが、今日は少し、明るく思えた。

帰ってから、ミーナはまず文献を開いた。

ルーカスから借りた写本の、古代魔法の制御に関する章だった。老人の読んだ跡がある。鉛筆で薄く線が引かれていて、欄外に小さな字でメモがある。「この箇所、現代語訳に誤りあり」「一例のみで判断は早計」「辺境の老人の証言と一致」。

ルーカスがこの本を読んだ時間のことを、ミーナは思った。

ルーカスは四十年かけて集めてきた。誰も信じなくても、学会に否認されても、集め続けた。

それは、なぜ続けられたのか。

答えは、あると信じていたから、だろう。

正しいものは、時間がかかっても残る、とレオナルドが手紙に書いていた。その言葉は、レオナルド自身の言葉ではなく、辺境で出会った誰かの言葉かもしれない。あるいは、戦場で学んだことかもしれない。

どこから来た言葉でも、今のミーナは、信じることができた。

ミーナはノートを開いた。

写本を読みながら、気づいたことを書いていった。疑問に思ったことも書いた。ルーカスのメモに対して、自分なりの考えを書いた。

そして、気づいたことがあった。

制御の章に、一つの欠陥があった。

正確に言うと、欠陥ではなかった。書かれていないことがあった。古代魔法の制御において、感情と魔力の関係についての記述が、途中で途切れていた。筆写の際に欠落したのか、もとから書かれていなかったのか、ルーカスのメモには「続きを探している」とだけあった。

ミーナは自分の指先を見た。

温かい。

感情が揺れた時、温かさが変わる。泣きたかった夜は、燃えるようだった。孤児院でルカに笑わせてもらった日は、やわらかく広がった。広場でかざした今日は、静かで安定していた。

(これが、制御の鍵かもしれない)

そう思った。

ルーカスが「続きを探している」と書いた欠落部分。それは、辺境の記録の中にあるかもしれない。

レオナルドの手紙の言葉が、また頭に来た。

『来てみれば、わかります。』

ミーナはノートに書き込んだ。疑問と、気づいたことと、「辺境の記録を確認する必要がある」という一行を。

ルーカスがいれば、すぐに聞けた。でも今は、自分で考えるしかない。

その「自分で考えるしかない」という状況が、今日は少し違う色を持っていた。

不自由ではなく、少しだけ、自由に近い色だった。

夜になってから、ミーナは便箋を引き出しから出した。

三日間、戻し続けていた便箋だった。

ペンを持ち、インクをつけた。

今日は、手紙を書くことができた。

なぜ書けたのかは、自分でもよく分からなかった。孤児院でルカに言われたことが、どこかで効いていたかもしれない。広場のベンチで光に手をかざしたことが、何かを動かしたかもしれない。文献の中に欠落を見つけて、それが辺境の記録と繋がるかもしれないと気づいたことが、背中を押したかもしれない。

理由はわからなかった。でも、書くことができた。

『 カーゼル辺境伯様

お手紙、ありがとうございました。返事が遅くなってしまって、申し訳ありません。

辺境の川の水量が増えているとのこと、今年の雪解けは例年より早いのでしょうか。橋のことが心配ですが、辺境伯のことですから、もう対策を立てておられることと思います。

こちらは、少し止まっていた日々が、ようやく動き始めました。ルーカス博士は快方に向かっていると聞いています。研究院が再開するまでの間、お借りしている文献を一人で読んでいます。疑問がたくさん生まれますが、一人で考えることも、悪くないと気づきました。

一つ、聞いてもよいですか。辺境の北方の民の記録の中に、魔力の制御に関するものはありますか。文献に欠落があって、その続きが辺境にあるかもしれないと思っています。もし手がかりがあれば、教えていただけると助かります。

学会の件について、「正しいものは時間がかかっても残る」とお書きくださいました。その言葉を、何度も読みました。ありがとうございました。

王都の春は、今日は暖かかったです。

北の空の色、いつか見てみたいと思っています。』

書き終えて、少し読み返した。

前回の手紙より、少しだけ長くなった。研究の質問が一つ入った。それだけで、手紙の重さが変わった気がした。

返事が書けなかった三日間のことや、いろんな悩みについては書かなかった。書けなかった、というより、まだ書く言葉を持っていなかった。

それでいい、と思った。

書けることだけを書いた。書けないことは、また今度でいい、と思えた。

ミーナは手紙を丁寧に封筒に入れた。

『カーゼル辺境伯様』と宛名を書いた。

明日、執事のフレデリックに頼もう、と手紙を書いてすぐに決めた。

ランプを落とす前に、ミーナは少し窓の外を見た。

夜の空に、星が出ていた。春の星は、秋より少し淡い色をしている。白というより、青みがかった白。遠くにあるものの色だ。

レオナルドが今夜見ている空と、同じ空かもしれない。

そう思った時、胸の中で何かが静かに揺れた。怖さではなかった。怖さに似ているが、違った。

期待、と呼んでいいのかどうか、まだわからなかった。

でも、ふんわりと胸の中で揺れた。

それだけは、確かだった。

翌朝、フレデリックに手紙を渡してから、ミーナは書斎に入った。

ルーカスの文献を開いて、昨夜の続きから読み始めた。

文献をめくる指先が、温かかった。

窓の外で、鳥が鳴いていた。冬とは違う、軽くて、少し湿った、春の空気に溶ける春の鳥の声だった。

ミーナはその声を聞きながら、ページをめくった。

レオナルドに返事を書いた、という事実が、胸の中でまだ少し揺れていた。

揺れているのが、怖いからか、嬉しいからか、今はまだわからなかった。

でも、動いている。

止まっていたものが、ほんの少しだけ、動き始めた様に感じられた。

夕方になって、母が書斎に入ってきた。

「ミーナ、顔色が良くなったわね。安心したわ」

「お母様、ありがとうございます」

「何かあったの?」

「実は手紙の返事を書きました。辺境伯への」

母はしばらく、ミーナを見た。

それから、何も言わずに微笑んだ。

余計なことを言わない母で、よかった、とミーナは思った。

「お茶を持って来させましょうか?」

「いいえ、お母様のお部屋で一緒に飲みましょう」

二人で母の部屋に向かいながら、ミーナは廊下の窓から空を見た。

夕方の光が、街の屋根を橙に染めていた。

深い橙ではなく、薄い橙だった。もうすぐ暗くなる前の、一番やわらかい時間の色だった。

それは琥珀に、少し似た色だった。

母の部屋で一緒にお茶を飲みながら、『悪くない一日だった』とミーナは思えていた。