軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 嵐と決意

レオナルドからの返事は、四日後に受け取った。

レオナルドの手紙の返事は、いつもより早かった。

封筒を手に取った瞬間、ミーナは自分の指先が少し冷たくなっていることに気づいた。指先はいつも温かいはずなのに、今日だけは違った。ミーナは早く知りたいと思う反面、手紙を開けて回答を知ることを、怖いと思っていた。

手紙を持って書斎に急いだ。

パタンと扉を閉め、震えるてで封を割った。

『 ヴェルダン公爵令嬢殿

直接聞いてくれたことに、感謝します。

噂の件、事実を申し上げます。

マーレン王国から、確かに打診はありました。第三王女との縁談について、王国経由で正式な書状が届いたのは、二ヶ月ほど前のことです。

しかし、断りました。

理由は、政略的な縁組みに乗るつもりがないことと、もう一つ。

自分が選びたい人がいるということです。

まだ何も申し上げる段階ではないかもしれません。でも、あなたが直接聞いてくれたので、正直に書きます。

返事をお待ちしています。』

それから、追記が一行あった。

『 北の空の色は、あなたと一緒に見たいと思っています。』

ミーナは手紙を読み終えた。

読み間違えたかもしれないと思い、三度繰り返し読んだ。

文字は変わらなかった。

断りました、とあった。

自分が選びたい人がいる、とあった。

北の空の色は、あなたと一緒に見たいと思っています、とあった。

ミーナは手紙を机の上に置いた。

指先が、また温かくなっていた。

今日は、特別に温かかった。

安心してしばらく、動けなかった。

ただそこに座って、窓の外を見ていた。

庭の薔薇が、今日は光の中にあった。白い花びらが、春の午前の光を受けて、少し透き通って見えた。向こう側が見えそうで、見えない。そういう白さだった。

断った。

その事実が、ゆっくりと落ちてきた。

噂を聞いた夜、ミーナは「やはり私では役不足なのだ」と思った。その言葉が心の底から浮き上がってきた。半年かけて薄くなっていたはずの言葉が、一夜で濃くなった。

でも違った。

断っていた。

打診は二ヶ月前にあったという。つまり、手紙のやりとりが始まった頃には、もう断っていた。ミーナが「返事を書くのが怖い」と三日間迷っていた頃、辺境ではすでに断っていたのだ。

ミーナはそのことを、しばらく胸の中で転がした。

『自分が選びたい人がいる』

それが自分のことだとは、まだ書いていなかった。でも、この手紙の流れで、ミーナ以外の誰かのことだとは読めなかった。

(どうしよう。すごく怖い。)

もう一度、人を好きになり、その人を信じることが、怖かった。

でも。

ミーナは自分の手を見た。指先が、温かかった。

この温かさは、誰かに証明してもらわなくても、ここにある。

信じることも、たぶん、同じだ。

誰かに保証してもらってから信じるのではなく、自分で選んで信じる。

傷つくかもしれない。

でも、信じないことで失うものも、ある。

ミーナはペンを取った。

返事を書こうとした。

その時、机の上の別の紙が目に入った。

昨夜まで書いていた、ノートの切れ端だった。

話を少し戻さなければならない。

あれは、三日前の夜のことだった。

ミーナはいつものようにルーカスの写本を読んでいた。古代魔法の制御に関する章の、ルーカスが「続きを探している」と書いた箇所だ。感情と魔力の関係が途中で途切れていて、何ヶ月も気になっていた欠落だった。

その夜、何かがつながった。

きっかけは、レオナルドの手紙の一節だった。

先月届いた手紙の中に、こう書いてあった。「今年の辺境は、例年より魔物の出が多い。北方の民が言うには、川の氾濫が続いた場所に必ず群れが現れる。水の道が変わると、何かが乱れると、老人たちは言う。理屈はわからないが、当たっている」。

ミーナはその一節を読んだ時、何か引っかかるものがあった。でもその夜は言語化できなかった。

三日前の夜、写本を読み直しながら、その引っかかりが形になった。

写本の欠落部分の手前に、こういう記述があった。

「古代魔法の制御において、最も困難なのは『流れを止めること』ではなく、『流れの方向を変えること』である。若い魔力は流れの強さで制御するが、古代魔法は——」

そこで途切れていた。

ミーナはその文章を、何十回も読んでいた。でもその夜初めて、続きが見えた気がした。

(流れの方向を変えること)

水だ、とミーナは思った。

川の水は、低い場所へ流れる。それは変えられない。でも、 堰(せき) を作れば方向は変えられる。堰を作るのに必要なのは、強い力ではない。正しい場所に、正しい形で、力を置くことだ。

古代魔法の制御も、同じではないか。

押さえつけるのではなく、方向を与える。感情の流れに逆らうのではなく、感情の流れに沿って、出口を作る。

ミーナは自分の指先を見た。

怒っている夜、温かさは鋭くなった。泣きたかった夜、燃えるようだった。ルカに笑わせてもらった日、やわらかく広がった。広場で光にかざした時、静かに安定していた。

力は感情の形をする、と辺境の老人は言っていた。

それは制御の難しさではなく、制御の鍵だった。

感情を消すのではなく、感情の形に沿って力を流す。川に堰を作るように。水の性質を変えるのではなく、水の行き先を整えるように。

ミーナは夜中の二時まで書き続けた。ノートに、図を描いた。感情の状態と魔力の動きの対応関係。制御の失敗事例と成功事例の分類。写本の欠落部分に入るべき論理の再構築。

書き終えてから、その一つ一つを確かめるように見つめ続けた。

(これが、ルーカスが四十年探していたものかもしれない)

そう思った。

と同時に、もう一つのことが頭に浮かんだ。

『川の氾濫が続いた場所に、必ず魔物の群れが現れる。』

レオナルドが手紙に書いていた言葉だ。

辺境の水害と魔物の出現には、関係がある。

そして古代魔法の制御法は、「流れの方向を変えること」が核心だ。

水の流れの乱れが魔物を呼ぶなら、水の流れを整えることが、魔物の出現を抑える鍵になるのではないか。

そして、それができるのは——強い力ではなく、正しい場所に正しい形で力を置ける、古代魔法の使い手だけではないか。

その夜、ミーナは朝になり空が明るくなっても、考え続けていた。

レオナルドへの返事を書こうとペンを持った時、もう一度、レオナルドからの手紙の追記を読んだ。

『北の空の色は、あなたと一緒に見たいと思っています。』

(行きたい)

と思った。

研究のためだけではなかった。

でも、研究のためでもあった。

その二つが今、まったく同じ重さで、ミーナの中にあった。

どちらかを言い訳にする必要がなかった。どちらかを隠す必要もなかった。行きたいから行く。それだけだった。

ミーナはペンを取った。

返事を書き始めた。

その時、扉がノックされた。

「ミーナ様」

執事のフレデリックだった。声が、いつもより少し緊張していた。

「はい、どうぞ」

「王宮から、緊急の使いが参っております。北方で、魔物の群れが」

「まさか、そんな!」と言って、ミーナは立ち上がった。

「お父様は、どうされていますか?」

「先ほど、王宮へ向かわれました。ミーナ様にも、こちらの書状をと」

フレデリックが差し出した封筒には、王家の封蝋があった。

ミーナは受け取って、急いで中を確認した。

書状の内容は短かった。

『王都北方の国境付近で、大規模な魔物の群れが確認された。王立魔法師団が出動したが、通常の魔力が効かない種類の魔物であることが判明した。古代魔法の使い手に協力を求める。』

通常の魔力が効かない……。

『川の氾濫が続いた場所に、必ず群れが現れる』

レオナルドの手紙の言葉が、頭の中で重なった。

北方の国境付近。春の雪解けで、川の水量が増えている時期だ。水の道が乱れている場所に、魔物が来る。

そして、乱れた流れを整えるのに必要なのは、古代魔法の制御だ。

三日前の夜に書いたノートの内容が、今この瞬間に、全部つながった。

ルーカスが四十年探していたもの。

レオナルドが辺境で抱えてきた問題。

ミーナが文献の欠落から独力で再構築した制御の理論。

それらが今、一本の線になった。

ミーナは窓の外を見た。

庭の白い薔薇が、五月の光の中にあった。

白い薔薇は美しい。でも今、必要とされているのは、散る光ではなかった。

長く、深く、流れを整える力だった。

レオナルドへの返事は、まだ書いていなかった。

でも今は、それより先にすることがあった。

ミーナはノートを持って、書斎をでた。

準備は、思ったより早くできた。

厚手の外套。手袋。移動用の鞄。研究院から借りている写本と、三日前に書いたノート。それを鞄に入れた。

鞄を閉める前に、もう一つ入れた。

引き出しの奥にずっとあった、アルベルトから最初に贈られた白い薔薇の押し花だった。十二年前のもので、花びらはすっかり乾いて、薄紙のようになっていた。

いつか、どうにかしようと思っていた。捨てるでもなく、飾るでもなく、ただ引き出しの奥にあった。

ミーナはそれを鞄に入れた。

今日でなければ、いつにするのか。

母が廊下で待っていた。

「ミーナ、危ないわ。あなたが行く必要はないわ」

「大丈夫です。私は行きます」

「でも、あなたにもしものことがあったら」

「お母様、大丈夫です」

ミーナは母を見た。

「私が行かなければ、若い魔法師たちが傷つき続けます。行けるのに行かないことを、私はたぶん、ずっと後悔します」

母はしばらく、ミーナの手を握って、ミーナを見ていた。

灰色の瞳が、揺れていた。

「分かったわ。気をつけていってらっしゃい」

「はい。いってきます」

「必ず、無事に帰ってきてね」

「はい。必ず、無事に帰ってきます」

ミーナは外套を着た。

扉を出る前に、一度振り返った。

馬車で北へ向かった。

途中から道が悪くなった。春の雨で地面が緩んでいて、馬車が何度か揺れた。窓の外の景色が、王都の石畳から、泥の道に変わった。木が増えた。空が低くなった。

同行したのは、王宮から派遣された護衛が三人と、若い魔法師が二人だった。魔法師の一人は、研究院で顔を合わせたことのある、二十代の男性だった。

「ヴェルダン令嬢、本当に来てくださったんですね」

彼は少し驚いた顔をしていた。

「はい。もちろんです」

「前線は、その……かなり混乱していると聞いています」

「そうですか。一つ教えてください」

「何でしょう」

「現場付近の川の状態は、わかりますか。水量や、氾濫の有無など」

若い魔法師は少し首を傾けた。予想外の質問だったようだった。

「聞いた話では、先週から上流の雪解けで水量が増えていて、北側の支流が一部氾濫しているとのことでした。それが魔物の行動と関係があるかどうかは……」

「実は、関係あると思っているんです」

ミーナは窓の外を見た。泥の道が続いていた。

「川の流れが乱れている場所に、群れが出ています。辺境でも同じことが起きているらしいのです。だから、水の道と魔物の動きには、関係があると思うんです」

「そうなのですか。でも、それがわかったとして、どう対処をするおつもりですか?」

「流れを整える、という方法があります。力で押さえるのではなく、方向を変えるんです。川に堰を作るように」

若い魔法師は黙った。

少し考えてから、言った。

「……通常の魔力では、できないことですよね?」

「そうですね」

ミーナは自分の指先を見た。鞄の中のノートのことを思った。

「でも、古代魔法なら、できるかもしれないと思っています」

馬車がまた揺れた。ミーナは窓の外を見た。

空が、暗くなり始めていた。夕方が近いのではなく、雲が増えていた。重たい、灰色の雲が、北の空から流れてきていた。

嵐が来るかもしれない、と護衛の一人が言った。

「嵐が来ても、構いません」とミーナは答えた。「進みましょう」

前線に着いたのは、夜になってからだった。

王立魔法師団のいる野営地は、北の平原の手前にあった。たくさんの松明が灯されていて、遠くから見ると、地面に落ちた星のようだった。でも近づくにつれて、その光が揺れすぎていることがわかった。風ではなかった。

野営地の中に入ると、若い魔法師たちが地面に座っていた。傷を手当てしている者、息を整えようとしている者、目を閉じて何かに耐えている者。全員が疲弊していた。

「ヴェルダン令嬢」

団長らしき男性が近づいてきた。五十代の、白髪交じりの大柄な人だった。

「遠路、ありがとうございます。状況を説明します」

説明は短かった。

魔物の群れは数百頭。通常の魔力では表面しか傷つけられない。何度も押し返そうとしたが、効果が薄く、消耗するばかりだった。団の三分の一が何らかの怪我を負っている。

「古代魔法が効くかどうか、確証はありません」と団長は言った。「ただ、他に手がないんです」

「一つ確認させてください」

ミーナは言った。

「魔物の群れが出ている場所は、北側の支流が氾濫した地域の近くですか?」

団長は少し目を細めた。

「……そうです。今週から、ちょうど支流が氾濫していて」

「群れは、川に近い低地から来ていますか?」

「ああ。そうです。なぜわかるんですか?」

「辺境でも同じことが起きていると聞いているからです」

ミーナは鞄を開けた。ノートを取り出した。

「川の流れが乱れると、何かが誘発される。それは魔物の本能に近いものだと思います。だとすれば、力で押し返し続けることは、川の流れを押し止めようとするのと同じで、疲弊するだけです」

「では、どうするというんですか?」

「流れを整える、という方法を試させてください。川そのものではなく、川の乱れに呼応している魔力の乱れを、整える。そうすれば群れは、戻ると考えています」

団長は少し黙った。

「……理屈はわからんが、今夜これ以上消耗させるわけにもいかない。試してみてくれ」

「わかりました」

「無理を言っているのは承知です。でも」

「無理ではありませんよ」

ミーナは答えた。

自分でも少し驚いた。躊躇いがなかった。

理屈は自分の中にある。あとは、試すだけだ。

「では、行きましょう」

ただ戦場に出る前に、一つだけ、試してみたいことがあった。

ミーナは傷ついた魔法師の前に膝をついた。二十代前半の、若い男性だった。右手に布が巻いてあった。

「手当てを、少し試させてもらえますか」

男性は驚いた顔をしたが、頷いた。

ミーナは両手でその手を包んだ。

目を閉じた。

ノートに書いた理論を、体の中で展開した。力で押さえるのではなく、方向を与える。感情の形に沿って力を流す。損傷した部分の「乱れ」に方向を与えて、自然な回復の流れへ導く。

指先から、琥珀色の温かさが流れ出した。

若い魔法師が、小さく息を呑んだ。

「……熱くない。でも、温かい」

しばらくして、男性が右手の指を動かした。

「不思議な感覚です。痛みが……引いています」

団長が息を呑む音がした。

ミーナは手を離した。立ち上がった。

「これが、古代魔法です」と言った。静かな声だった。「強さで押さえるのではありません。流れに方向を与えるものです。乱れたものを、乱れる前の形に近づける。それだけのことです」

団長はしばらく、ミーナを見ていた。

「すごいな。こんなことが可能なのか」

夜の平原に出た。

風が強かった。雲が厚くなっていて、月が見えたり隠れたりした。草が波のように揺れた。

遠くに、暗い塊が動いているのが見えた。

魔物の群れだった。

数が多かった。想像していたよりも、ずっと多かった。

野営地から見えていた時とは、全く違う圧があった。地面が、低く振動していた。群れが動くたびに、足の裏から伝わってくる、重たい揺れだった。

隣にいた若い魔法師が、短く息を呑んだ。

「……数が増えています。昼間より」

「そうですか。早く対処しないといけませんね」

「昼間、押し返そうとした時には、半分ほどでした。夜になって、川沿いから更に集まってきたようで」

団長が低い声で言った。「昼間の戦闘で、団員の三分の一が動けなくなった。残りも半分は消耗しきっている。もう一度あの数を相手にすれば、もう魔物の群れを止めることはできません」

ミーナは平原を見た。

月が雲から出た瞬間、群れの全貌が見えた。

黒い塊が、地平線まで続いていた。

川沿いの低地から湧くように出てきた群れが、今や平原の三分の一を埋めていた。その端が揺れるたびに、草が薙ぎ倒される音がした。木が一本、遠くで折れた。

若い魔法師が、ミーナの隣で魔力を練ろうとして、止まった。

「……もう動けないです。もう限界で」

別の声が続いた。「私もです。昼間で体力も魔力も使い果たしました」

団長が振り返った。

「ヴェルダン令嬢」

声に、諦めに近いものが混じっていた。

「頼める、だろうか」

ミーナは前を見た。

怖かった。本当に怖かった。足の裏から伝わる振動が、膝を通って、腰のあたりまで来ていた。

(失敗したら、どうしよう。)

でも手のひらは、温かかった。

「やってみます」

ミーナは答えた。

平原の中央まで、一人で歩いた。

護衛が後ろについてきたが、ミーナは手で制した。

「ここで止まってください」

「しかし——」

「近くにいると、巻き込む可能性があります」

それだけ言って、前に出た。

群れまで、百歩ほどの距離まで来た。

月がまた雲に隠れた。暗くなった。

群れの低いうなり声が、空気を震わせていた。先頭の大きな影が、ミーナの気配を感じ取ったように、動きを変えた。

向かってくる。

ミーナは立ち止まった。

両手を前に出した。

目を閉じた。

自分の中にある、熾火のような力に、意識を向けた。

今夜の自分の中には何があるか。

怖さが、確かにある。

でも怖さの下に、もっと静かな何かがある。

三日間の夜に書いたノートのこと。文献の欠落を埋めた時の、あの確かさ。ルーカスが「正しいものは時間がかかっても残る」と言った言葉。レオナルドが「北の空の色はあなたと一緒に見たい」と書いてくれた一行。

それらが今、熾火の燃料になっていた。

ノートに書いた通りにやる。

力を呼ぶのではなく、流れに場所を与える。感情の形に沿って、出口を作る。

川に堰を作るように。

熱さが指先から広がり始めた。

ミーナは目を開けた。

自分の手から、琥珀色の光が溢れていた。

白ではなかった。金だった。深みのある、重みのある、琥珀の金色だった。研究院の水晶球で見た色と、同じ色だった。

夜の平原に広がっていった。草の一本一本が、その光を受けて、細い金色の筋になった。地面が、琥珀色に染まっていった。まるで大地そのものが、深い場所から輝き始めたように。

群れが、止まった。

先頭の大きな影が、立ち止まった。

低いうなり声が変わった。脅しの声ではなく、戸惑いの声に。

ミーナは力を解き放った。

押し返すのではなかった。方向を与えた。

川の乱れに呼応して乱れていた、この平原の地脈に。この大地を流れる何かに、別の方向を与えた。

その瞬間だった。

平原の北側、暗闇の中にあった川が、音を変えた。

ざあっ、という荒れた音をしていた水流が、ゆっくりと、低くなった。

氾濫していた川岸の水が、引き始めた。

月が雲から出た。

光の中で、荒れていた川面が、鏡のように静かになっていくのが見えた。

乱れていた流れが、本来の道へ戻っていった。

琥珀の光が、川面に映った。

川が、光った。

群れが、動きを変えた。

先頭の影が、向きを変えた。

一頭、また一頭。

群れ全体が、ゆっくりと、北へ向かって動き始めた。

追われているのではなかった。

戻っていた。

乱れが整ったから、戻る場所が戻ったから、そこへ戻っていった。

最後の影が暗闇に消えるまで、ミーナは立っていた。

琥珀の光は、しばらく平原に残っていた。

草が、金色に光っていた。

川が、静かに流れていた。

それから、ゆっくりと、光が消えた。

夜が戻ってきた。

でも、川の音が変わっていた。

荒れた音ではなく、低く、静かな、本来の音になっていた。

後ろから、声がした。

団長の声だった。

「……川が穏やかになっている」

「はい」

「氾濫が、収まっている。どうして……」

「流れを整えました。しばらくは落ち着くと思います」

長い沈黙があった。

それから、若い魔法師の誰かが言った。

「……見ました。今、見ました」

「私も、見ました。すごいです」別の魔法師も言った。

ミーナはただ、夜の平原を見ていた。

静かになった川を。

戻っていった群れの跡を。

指先が、まだ温かかった。

使い果たした感覚はなかった。熾火は、燃やし尽くすものではなかった。方向を与えるだけでよかった。それが古代魔法というものだった。

力が抜けたのは、それから少し後だった。

急に足元がふらついた。

消耗ではなく、緊張が解けたせいだった。

誰かが肩を支えてくれた。

顔を上げると、レオナルドがいた。

ミーナは少し、目を見開いた。

「なぜ、レオナルド様がいらっしゃるのですか?」

「王都に用があって移動中でした。報告を聞いて、こちらへ来たんです」

レオナルドの声は、いつもと変わらなかった。落ち着いていた。でも、肩を支える手は、確かな力があった。

「大丈夫ですか?」

「……はい」

「顔色が優れないように見えますが」

「そうですね。少し、疲れました」

「座りましょう。お手をどうぞ」

近くの岩に、二人で腰を下ろした。

夜の平原は、静かになっていた。風が止んでいた。雲が少し切れて、月が出ていた。

ミーナは月を見た。

満月に近い月だった。婚約解消された日の夜にも、こんな月が出ていた、とふと思った。あの夜、廊下の壁に手をついた。月明かりが白い道のように伸びていた。

今夜の月は、同じ月だが、違う場所で見ている。

同じ月を、違う場所で、違う自分が見ている。

しばらく黙っていてから、レオナルドが言った。

「川の乱れを古代魔法で整えた、と団長から聞きました」

「はい。試してみました」

「辺境でも、同じ効果があるのでしょうか?」

ミーナはレオナルドを見た。

灰色の目が、平原の月明かりの中で静かにミーナを見ていた。

「やっていないと分かりません。でも、理屈は同じはずです」

「辺境では、春になるたびに上流が氾濫して、魔物が出る。十年かけても解決できなかったんです」

「知っています。レオナルド様が手紙に書いてくれていたから」

「それを、今夜あなたの古代魔法で、解決できるかもしれない」

「かもしれない、ではなく」

ミーナは少し間を置いた。

「そのために、辺境に行きたいと思っています」

レオナルドはしばらく、ミーナを見ていた。

「……研究として、ですか」

第三話でミーナが聞いたのと同じ問いを、今度はレオナルドが聞いた。

「研究として」

ミーナは少し間を置いた。「それだけではない、ということは、あなたにもわかると思いますが」

レオナルドは黙った。

それから、静かに言った。

「手紙を読みましたか?」

「読みました。今日の昼に届いたので。王女の縁談を、断ったんですね」

「はい。そうです」

「なぜですか?隣国の王女は若くて美人らしいですよ?」

レオナルドは少し間を置いた。

「それは、手紙に書いた通りです」

「あの、自分が選びたい人がいる、というのは私のことでしょうか?」

ミーナは膝の上で拳を握りしめ、震える声で問いかけた。

レオナルドは、ミーナを見た。

夜の月明かりの中で、灰色の目が静かに光っていた。

「はい。そうです。分かりにくくて、すみません」

ミーナは目を伏せた。

目頭が熱くなった。

一年近く、泣かなかった。泣きたくなったことはあった。でも泣かなかった。

今夜は、少し泣いてもいいかもしれない、と思った。

悲しみではなかった。

怒りでも、痛みでも、なかった。

ただ、長い間、堪えてきた何かが、ようやく緩み始めた感覚だった。

「泣いてもいいですよ」

レオナルドが茶化すように言った。

ミーナは少し笑った。笑いながら、目頭が熱かった。

「見ていないふりをしてください。女性にそんなこと言っちゃダメですよ」

「あなたの目が赤かったので。つい」

「正直すぎます」

「そう言われます」

二人で、少しの間、黙っていた。

月が、平原を照らしていた。

遠くで、野営地の松明が揺れていた。

若い魔法師たちが、傷の手当てをし合っている声が、風に乗って聞こえてきた。

ミーナは空を見上げた。

まだ、伝えなければならないことがある。

王女の噂への答えは、もらった。

でも、自分がどう答えるか。それはまだ、言っていない。

「返事は」とミーナは言った。「今夜でなくていいですか?」

「もちろんです」

「ちゃんと言葉を選んで、伝えたいんです。今夜の私は少し、疲れていて」

レオナルドは少し間を置いた。

「急ぎません」

その言葉が、また温かかった。

ミーナは鞄のことを思った。

引き出しの奥から持ってきた、アルベルトの白い薔薇の押し花。乾いて、薄紙のようになったもの。

今夜、ここへ持ってきたことに、意味があった気がした。

でも今夜は、まだそれだけにしておく。

ミーナは目を閉じた。

平原の静けさの中で、体が少しずつ、落ち着いていった。

指先が、また温かかった。

今夜も、私は私としてここに存在している。

そして今夜初めて、誰かの役に立てた。

それは、若さでも、美しさでも、家柄でもなかった。

三十年かけて育ち、半年かけて気づき、三日間の夜に解いた、自分だけの答えで。

それだけは、確かだった。