作品タイトル不明
第5話 研究院の琥珀色
王立魔法研究院は、王都の東側にあった。
重い石造りの建物で、正面に六本の柱が並んでいる。柱の間に彫刻が施されていて、歴代の大魔法師たちの姿が石の中に刻まれていた。男性ばかりだ、とミーナはその前を通るたびに思っていた。今日も思った。
けれど建物の端、少し目立たない位置に、一体だけ女性の像があった。
長い髪を結い上げ、本を抱えた姿。台座には名前が刻まれていたが、石が古くなって読めなかった。
(いつの時代の人だろう)
ミーナは立ち止まって、少しその像を見た。
読めない名前。でも、ここに残っている。誰かが、残そうとしたのだろう。
琥珀のように、とミーナは思った。中に何かを封じ込めたまま、時間をかけて固まったもの。名前は読めない。でも像は残っている。消えなかった何かが、石になっている。
受付に入ると、若い男性の職員が顔を上げた。二十代前半だろうか、眼鏡をかけた、真面目そうな顔をしていた。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
「突然すみません。魔力計測をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか?」
職員は少し目を丸くした。
「計測……でございますか。通常、計測は十五歳から二十歳の間に行うものでして」
「それは、存じております」
「お歳は?」
「三十歳です」
職員はしばらく黙った。何か書類を見て、また顔を上げた。
「珍しいご依頼ではありますが、制度上は年齢の制限はございません。ただ、何かご事情がおありですか?」
「最近、指先に変化を感じるんです。それで、魔力に変化がないか調べてみたくなったのです」
簡潔に答えると、職員は少し考えてから、「少々お待ちください」と言って奥へ消えた。
待っている間、ミーナはロビーを見回した。壁に魔法の歴史が年表で掲示されている。古代から現代まで、発見と発展の記録。その年表の古い時代には、女性の名前がいくつかあった。でも、近代になるにつれて、男性の名前ばかりになっていった。
(いつ頃から、変わったのだろう)
答えはわからなかった。でも、男性の活躍が多くなっていったのだということは、わかった。つまり、最初からそうだったわけではないだろう。
◆
計測室に案内されたのは、それから少し後だった。
広い部屋だった。天井が高く、壁に複数の計測器が設置されている。数字盤や目盛りのついた器具が並んでいて、どれが何を測るのかミーナには判断できなかった。
中央に、大きな水晶球が台の上に置かれていた。
透明で、内側に光を溜めているような、不思議な球だった。人の頭よりひとまわり大きい。近づくと、かすかに冷たい空気を感じた。
白衣の研究員が三人いた。一人は若い女性、一人は中年の男性、そしてもう一人は白髪の老人だった。
老人が歩み寄ってきた。小柄で、丸い眼鏡をかけていた。背中が少し丸まっているが、目は鋭くて明るかった。
「ルーカス・ホルトです、この研究院で古代魔法を専門に研究しております」
「ヴェルダン公爵家のミーナと申します」
「存じております。ヴェルダン公爵家のミーナ様ですね。それで、指先に変化を感じておられるのですな?」
「はい。一週間ほど前から、内側から温められているような感覚があるんです」
「ふむ」
老人は顎に手を当てた。何かを考えているような、でも既に何かを知っているような、そういう顔だった。
「では、水晶球に手をかざしてみてください。力む必要はありません。ただ、かざすだけで」
ミーナは水晶球の前に立った。
右手を、ゆっくりと前に出した。
一呼吸。
二呼吸。
最初は何も起きなかった。
ミーナはそのまま待った。力まないように。ただ、かざすだけ。
三呼吸目。
水晶球が、光った。
その光は、前回10代の頃に測定した時と同じ、白色ではなかった。
金だった。
深みのある、温かみのある、琥珀に似た金色だった。内側から光が広がるように、ゆっくりと、でも確実に輝いた。白い光のように弾けるのではなく、じわりと染み込むように、球全体が金色になった。
ミーナは思わず息を呑んだ。
自分の手から出ているとは、思えなかった。でも、手をかざしているのは自分だ。
「…………」
部屋が静かになった。
三人の研究員が、誰も声を出さなかった。若い女性研究員がノートを持ったまま固まっていた。中年の男性研究員が計測器に駆け寄って、目盛りを確認し、また確認した。
老人だけが、静かにミーナを見ていた。
「よろしいでしょう。手を下ろしてください」
優しい声だった。
ミーナが手を引くと、光はゆっくりと消えた。でも名残のように、水晶球の中心に金色がしばらく残って、それからふっと消えた。
「何か……問題が、ありましたか?」
ミーナは聞いた。声が少し、掠れた。
「問題どころか」
老人は眼鏡を押し上げた。目が、はっきりと輝いていた。
「これは、素晴らしい。素晴らしい結果です」
◆
「これは、古代魔法ですね」
老人、ルーカスは言った。
隣の小部屋に移動して、椅子に向かい合って座っていた。若い女性研究員がお茶を運んできた。ミーナはそれをありがたく受け取った。手が、少し震えていた。驚きと、それから、何か別のもので。
「三十歳前後に覚醒する特異な魔力です。若い魔法師の持つ力とは、質が違う」
「どう違うのですか?」
「若い魔力は明るく、強く、でも安定しにくい。燃え盛る炎に近い。一方、古代魔法は安定していて、持続力があり、そして深い。 熾火(おきび) に近い、と私は思っています」
熾火。
表面は燃えていないように見えて、中に火種を抱えているもの。
「……長く燃え続ける、ということですか」
「そうです。そして表面よりも、芯が熱い」
ルーカスは少し前のめりになった。
「実を言うと、私はずっとこの魔法を研究してきました。文献を漁り、古い記録を集め、でも実際に使い手を見たのは、これで三人目です」
「三人目なんですね?後二人は、どのような方でしたか?」
「最初は四十年前。私がまだ若かった頃、辺境の女性が計測に来ました。その方の魔力が、今日のあなたと同じ色をしていた。二人目は二十年前、同じく辺境の出身の方で」
「なぜ、辺境の方が多いのでしょうか?」
「王都では、三十歳以降の女性の魔力の変化など、誰も気に留めないからでしょうな」
ルーカスはため息をついた。穏やかなため息だったが、その中にかすかな怒りがあった。
「女性の魔力は若いほど強い、という常識が広まってから、それ以降の変化は記録されなくなった。若くなければ意味がない、という思想が、研究の目を曇らせたと思っております」
「常識が、真実を隠した、ということでしょうか?」
「正確に言えば、常識が人々の目を逸らせた。真実はずっとそこにあったのに」
ミーナは窓の外を見た。秋の光が研究院の中庭に落ちていた。木の葉が一枚、風に舞い上がって、空へ吸い込まれていった。
「私の魔力は、これからどうなるとお考えでしょうか?」
「どんどん伸びるでしょう」とルーカスは即答した。「今はまだ覚醒したばかり。制御もこれからです。でも、土台は確かにある。この先、何年もかけて深まっていくと考えられます」
「何年もかかるんですね」
「急ぐ必要はありません。古代魔法は、時間と共に育つものなんです」
時間と共に育つもの。
ミーナはその言葉を、胸の中でゆっくりと転がした。
(三十年かけて、ここまで育ってきた)
そう思うと、少し不思議な気持ちになった。
十八歳の時には、こんなものは何もなかった。若さと美しさだけを見られていた頃には。
でも今、三十歳になって、ようやく見えてきたものがある。
それは、失ったのではなかった。熟していたのかもしれない。
琥珀のように。時間をかけて、固まっていくもの。
◆
「一つ、ミーナ嬢にお願いがあります」
帰り際、ルーカスに言われた。
「何でしょう?私にできることであれば、なんでもお手伝いいたします」
「共同研究をしていただけないでしょうか。あなたの魔力の変化を、定期的に計測させてほしい。古代魔法について、わかっていないことがまだ多くあります。実際の使い手に協力していただけると、研究が大きく前進します」
ミーナは少し考えた。
「私はまだ不完全な状態ですが、大丈夫でしょうか」
「もちろん。大丈夫です」ルーカスは眼鏡の奥で目を輝かせた。「あなたには、私が四十年かけて集めた文献を全てお見せします。引き換えに、あなたの経験と感覚を聞かせてほしい。文字にならない知識を、あなたが持っているはずだから」
文字にならない知識。
レオナルドが言っていた言葉と、重なった。
辺境の老人が焚き火の傍で語った話。北方の民が川の流れで季節を読む話。どれも文字にはなっていなかった。でも確かに、知識だった。
そしてミーナの指先の温かさも、今まで誰も記録しなかった。でも確かに、そこにあった。
「では……よろしくお願いします」
ミーナは頭を下げた。
ルーカスは嬉しそうに笑った。七十を超えているだろう老人の笑顔は、少年のようだった。
◆
研究院の前に出ると、秋の夕方の空気が全身を包んだ。
来た時よりも、空が広く見えた。
同じ空なのに、なぜだろう、とミーナは思った。
自分の中に何かがあることを、今日初めてちゃんと見た。誰かに言われたからではなく、計測器が示したからでもなく、自分の手から溢れた光を、自分の目で見た。
琥珀色の光。
若い時にはなかった色。三十年かけて育ってきた色。
白い薔薇は十八歳のミーナに贈られた。あの頃が一番美しいと、誰もが言っていた。でも薔薇は散る。花びらは落ちて、風に運ばれて、消えていく。
琥珀は違う。固まるほどに深くなる。時間が経つほどに、透き通っていく。
ミーナは右手を見た。
指先が、また温かかった。
今日は特別に温かかった。まるで光の残り香が、まだそこにあるかのように。
(これが、私の中にあったもの)
静かに、でも確かに、そう思った。
誰かに値段をつけられるものではない。若さで測られるものでもない。三十年間、自分の中で育ってきた、自分のもの。
帰り道、ミーナは少し遠回りをした。
王都の夕暮れを、もう少し歩きたかった。
石畳が夕日を受けて、柔らかく光っていた。その光の色が、今日見た水晶球の色に少し似ていた。
深くて、温かくて、長く続く色。
ミーナは歩きながら、ふと思った。
アルベルトが選んだのは、白い光だった。弾けて、輝いて、でも消える光。
自分の中にあるのは、そうではなかった。
じわりと広がって、染み込んで、残っていくもの。
それが劣っているとは、もう思わなかった。
ただ、違う。それだけだった。
足取りが、来た時より少し軽かった。
気のせいではない、とミーナは思えた。