軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 また値段をつけられる

春の気配は、音よりも先に色で来る。

窓の外、ヴェルダン家の庭を見ていると、枯れ枝の先がほんの少しだけ柔らかくなっているのがわかった。緑、というにはまだ早い。でも茶色でも、灰色でもない。何かが来ようとしている、その手前の色だった。名前のない色だった。

ミーナは書斎の窓辺に座って、その枝を見ていた。

手元には、ルーカスから借りた古い文献がある。古代魔法に関する記録で、筆写が何度も重ねられた写本だ。インクの濃さが箇所によってまちまちで、何人もの手を経てきたことがわかる。

指先が、温かかった。

この二週間で、それがいつもの感覚になっていた。研究院への通所を始めてから、魔力は少しずつ、でも確実に変化していた。ルーカスが「 熾火(おきび) に近い」と言った言葉を、ミーナは最近、体で理解し始めている。燃えているとは思えないのに、内側がずっと温かい。消えないものが、そこにある。

婚約解消から、一月が経っていた。

縁談の最初の一通が届いたのは、ある霜の朝だった。

封筒の上に差出人の名がある。ミーナは見知らぬ家名を確かめて、母のエリザに持っていった。

「ローゼンベルク侯爵家からよ」

エリザは封を開けながら、声が明るかった。「由緒のある家柄だわ。先代の侯爵様は王宮の要職に」

「何と書いてありますか」

「縁談のご打診で……魔力の噂をお聞きして、と」

ミーナは少し黙った。

魔力の噂のせいだった。

計測の日から、二週間しか経っていない。なのに、もう縁談が届いている。

社交界に情報が流れる速さは、いつも冬の川を渡る風に似ていると、ミーナは思う。見えないのに、確実にそこを通り抜けていく。

「ミーナは新しく縁談が来たことが、嬉しくないの?」

エリザが不思議そうに見た。

「嬉しくない、ことはないですが……」

ミーナは言葉を選んだ。「少し、驚いています。研究院での計測が、もう知られているとは思わなかったので」

「驚くことはないわ。王立研究院と関わりのある家は多いもの。そういう情報は、すぐに広まるものよ」

「そうですね。気にしてはいけないですよね」

ミーナは封書を母に戻した。

二週間前まで、ミーナのことを話題にする声は「枯れ花の令嬢」という文脈の中にあった。それが今は、違う。

値札が、貼り替えられた。

ただそれだけのことだ、とミーナは自分を納得させようとした。

自分の中身は二週間前と今とで、何も変わっていない。

中身の変わらぬ器に、世間は勝手に高価な飾りを付け足していく。

しかし、貴族として生きるなら、受け入れないといけないことだった。

その週のうちに、さらに二通届いた。

翌週には五通になった。

文机の上に積まれる封書の束を、ミーナは毎朝見た。白い封筒が光を反射して、眺めていると目の奥が痛くなるような気がした。

母はそのたびに嬉しそうに封を開け、内容を確かめ、「この家は」「この方は」と説明してくれた。その声に含まれているのは、娘への愛情だ。ミーナはそれを知っている。エリザは良い母だった。言われた通りに育ててきたことを後悔していると、先日打ち明けてくれた人だ。だから今、娘に良い選択肢が増えることを、本当に喜んでいる。

でも、ミーナの胸の中では、何かが静かに引っかかっていた。

(一月前と、何が違うのだろう。そして、若さについては、特別な魔力があれば気にしないということなのだろうか?)

婚約解消の夜、アルベルトは言った。「三十歳の女性に価値はない」と。

今、縁談を寄越してくる家々は言っている。「古代魔法の魔力を持つ女性に価値がある」と。

評価の 理屈(ロジック) だけが、都合よく塗り替えられた。

でも構造は同じだ。

ミーナという人間ではなく、ミーナの持つ何かを見ている。あの夜は価値がないとされたもので、今は価値があるとされているだけで、見られているものは変わっていない。

書斎の窓から、庭の枝を見た。

芽は、まだ名前のない色をしていた。

あの夜会のことは、誰も話題にしないようにしていた。

でも、ミーナは知っていた。

婚約解消から一週間も経たないうちに、アルベルトの新しい婚約者が発表されたことを。

名前は、フィル・オルトン子爵令嬢。

年齢は、十八歳。

噂は丁寧に届いた。「金の巻き毛の、薔薇色の頬をした令嬢だそうよ」「舞踏会ではいつも男性に囲まれているとか」「アルベルト様が選ばれるのもわかるわ、あの可愛らしさでは」。

ミーナはそれらを、表情を変えずに聞いた。

十八歳。

その数字が、胸の中でしばらく転がった。硬くて、角のある数字だった。

十二年、アルベルトを待った。

三十歳になるまで待った。

そして彼が選んだのは、十八歳の女性だった。

それは、つまり、そういうことだ。

ミーナは引き出しの中にしまった便箋のことを思った。

『私の価値は、まだわからない。でも、今日私はここにいた。それだけは、確かだ』

その文字が、今は少し違う意味に見えた。

わからないのは、価値のことだけではない。

待ち続けた十二年間、その期間が意味のあるものだったのか、ということも、わからなかった。

その週の夜会に、ミーナは出席した。

行かなければよかった、と思ったのは、会場に入ってすぐのことだった。

入口近くで、ふと目が合ってしまった。

アルベルトが立っていた。

いつもの黒い礼服。金の勲章。でもその隣に、見たことのない可愛らしい令嬢が立っていた。

金の巻き毛。薔薇色の頬。花のような笑顔。

男性たちが、その周りに集まっていた。花の蜜に集まる蝶のように。

十二年前、そこに立っていたのは自分だった。

12年待たせた女を捨てる時はあんなに無機質だった男が、一ヶ月後の今、これ以上なく誇らしげに胸を張っている。その見覚えのない輝かしい表情が、かつての私に向けられたことは一度もない。その事実が、波紋のように心を乱していった。

ミーナは視線を外した。

熱を帯びた視線の渦をすり抜け、ただ一人の静寂を求めて歩いた。

白磁のカップを受け取って、茶を飲んで落ち着こうとしたが、味はしなかった。

「ミーナ様、初めまして」

声をかけてきたのは、フィルだった。

天真爛漫な笑顔だった。悪意は何もない。ただ、若くて美しくて、自分が愛されていることが疑いなく自明だという顔だった。ミーナはかつて、ああいう顔をしていたのかもしれない。

「初めまして、オルトン令嬢」

「フィルと呼んでくださいな。私たち、せっかくなので仲良くしましょうね」

ミーナは微笑んだ。

努力して作った微笑みだった。

「おめでとうございます、フィル様」

そう言ったのが精一杯だった。

フィルは喜んで「ありがとうございます。また、ゆっくりお話ししましょうね」と言い、また別の人のところへ飛んでいった。花が風に運ばれるように、軽やかに。

アルベルトが近づいてきた。

「お変わりないですか、ミーナ」

「ええ、おかげさまで」

そこで会話は終わった。

それ以上、何も言うことがなかった。

でも彼の目が、ミーナを追っていた。

何かを言いたそうな、しかし言えない目で。諦めているような、後悔しているような、複雑な目で。

ミーナはそれを無視した。

関係のないことだ、と思った。

思おうとした。

少し後のこと、共通の知人の伯爵夫人から、さりげなく聞こえてきた話がある。

アルベルトの領地で、補給の手配が滞り始めているという。フィルが婚約者として各方面への挨拶回りに精力的に動いているが、顔合わせの際に社交的に振る舞うことと、物資の帳簿を読み解くことは、全く別の話だったらしい。

ミーナが十二年かけて築いた、負傷兵支援の物資ルート。補給管理の知人ネットワーク。孤児院を通じた王都北側の情報網。さらには、中立派貴族を繋ぎ止めていた茶会の名簿や、領地経営の根幹たる徴税の細かな機微。それらは一夜で霧散した。アルベルトは今、それら貴族としての足場を、全て一から組み直そうとしているようだった。

(そうなのね。でも、私が何かしてあげることはないわ、と思った)

同情ではなかった。怒りでもなかった。

自分が積み上げてきたものが何だったか、今更のように少しだけわかった。それは若さでも美しさでもなく、十二年間、地道に作ってきた繋がりと信頼だった。それが今、誰の手にもなく、ただ消えているというだけのことだった。

帰りの馬車の中で、ミーナは一人だった。

革張りの座席に背を預けて、窓の外を見た。夜の王都が流れていく。石畳、ランプの光、行き交う人影。全部を見ているようで、何も見ていなかった。

十八歳。

もう一度、その数字が来た。

自分が十八歳の時、アルベルトは何歳だったか。二十二歳だ。四つ上で、優しくて、いつも面白い本を探してくれた。

あの時のアルベルトが好きだったものは、本当はミーナではなく、十八歳のミーナだったのかもしれない。

そしてミーナが三十歳になったとき、彼は十八歳の別の誰かを選んだ。

それはつまり、そういうことだ。

馬車が段差を越えた。体が揺れた。

ミーナは手の平を見た。夜の馬車の中で、指先がほんのりと温かかった。火の気もないのに、手のひらが温かかった。

これは自分の力だ。

でも、今夜この温かさは、慰めにならなかった。

(古代魔法の魔力があっても)

ミーナは思った。

(若い頃の貴重な十二年は、返ってこない)

それは怒りではなかった。

ただ、重たい、認識だった。

翌朝、孤児院へ行った。

ルカが駆けてきた。茶色い巻き毛、少し大きすぎる上着。走りながら「ミーナ様!」と声を上げた。

「走らないと言ってるでしょう」

「でも来てくれたから」

ルカはミーナの手を両手で掴んだ。小さくて、温かい手だった。

「顔、昨日と違う」

「昨日は来ていないでしょう」

「でも違う顔してる。悲しい顔」

七歳の子どもの観察眼は、鋭い。

「少し、疲れただけです」

「ここにいたら、元気になるよ。僕がいるから」

ルカは真面目な顔で言った。

ミーナはその言葉を、胸の中でゆっくりと受け取った。

この子は、ミーナの年齢を見ていない。魔力も見ていない。縁談が増えたことも、アルベルトが十八歳の令嬢を選んだことも、何も知らない。

ただ、ミーナが来た、と、それだけの理由で走ってくる。

今日は字の練習の日だった。ルカが最近覚えた文字を、一生懸命紙の上に書いていく。形が歪んでいる。でも力強かった。

「うまくなりましたね」

「毎日練習してるから。ミーナ様が来ない日も、一人でやってる。来た時に見せたくて」

その言葉が、胸に残った。

見てもらいたいから、続ける。それは、縁談のためでも、評価のためでもない。ただ、好きな人に見せたいから続ける、というとても単純な理由だった。

(私はずっと、何のために続けていたのだろう)

孤児院を出る頃には、空が夕方の色になっていた。昨日より少しだけ長く、光が残っていた。春が近づいている。

その帰り道、ミーナはふと、孤児院の入り口脇に咲いた小さな花に気づいた。

誰も植えた覚えのない、石畳の隙間から顔を出した黄色い花だった。院長も、子どもたちも、気づいていないようだった。

でも、咲いていた。

確かに、そこにあった。

翌週、茶会があった。

ルウェラン侯爵夫人の主催で、十二人ほどの令嬢と夫人が集まる会だ。ミーナは招待を受けていたので出席した。

白磁のカップから、茶の香りが立ち上る。薔薇の飾りが花瓶に刺されていて、まだ蕾の、固い薔薇だった。

「ミーナ様、今日はお顔色がよろしいですね」

隣に座った子爵夫人が言った。扇を口元に寄せて、声を少し落として。

「ありがとうございます」

「古代魔法の魔力のご計測の件、もう皆さんご存じですよ。大変な話題で」

「そうなんですね」

「縁談もずいぶんいらっしゃるとか。ガルシア様との件があった後で、本当によかったですわ」

ミーナは微笑んだ。

ガルシア様との件。

その言葉が、空気をどんな色に染めているか、ミーナにはわかった。同情と、好奇と、それから——どこかで聞き耳を立てている誰かへの声の色。

会場の向こうで、また別の話し声がした。

「ヴェルダン令嬢は、ガルシア様の新しいご婚約者とも話されたそうよ」

「あら、それは……つらかったでしょうに」

「でも、見事にお顔を保っていらしたそうで。さすがですわね」

「魔力があればこそ、ですよ。力があると、強くなれるものね」

ミーナは窓の外を見た。

曇り空の下、石畳が光を吸って、鈍く光っている。人々が行き交い、馬車が通り、街は動いている。

魔力があれば強くなれる。

その言葉の構造を、ミーナはまた感じた。

婚約解消された日の夜も、今日も、見られているのは同じ場所だ。ミーナという人間ではなく、ミーナに付随する何か。あの夜はそれが「ない」と言われ、今日は「ある」と言われている。

秤の形は変わっていない。

ただ、載せるものが変わっただけだ。

茶会の帰り、馬車の中でミーナはまた一人になった。

今日だけで、三件の縁談の打診があった。

断ろう。そのことは決めていた。

でも問題は、断ることの疲弊ではなかった。

値踏みされることの疲弊だった。

婚約解消の夜、ミーナは初めて、自分に値段がついていたことを知った。

それから一月。

新しい値段がついた。

でも、秤の上にいることは、変わっていない。

フィルのことが、ひどく癪しゃくに障った

十八歳の、花のような笑顔。アルベルトが誇らしそうに隣に立っていた、その場面。

あの十八歳のフィルにも、いつか三十歳が来る。

その時、アルベルトはどうするんだろう。

馬車が止まった。屋敷の前だった。

ミーナは深く息を吸ってから、扉を開けた。

冷たい夕風が頬を撫でた。光の色が、また少し変わった。

屋敷に戻ってから、書斎に入った。

文机の上に、文献が広げてある。羊皮紙が、ランプの光を受けて橙色に滲んでいた。文字の一つひとつが、何百年も前の誰かの筆跡で、乾いた土の匂いがした。

ミーナはそこに座って、ペンを取った。

でもペンは、すぐには動かなかった。

窓の外に目をやる。中庭の枝に、今日もあの芽がついている。名前のない色をした、小さな芽。昨日より、ほんのわずか、膨らんでいるような気がした。

(あの芽は、誰かに見てもらえなくても芽吹く)

そう思った。

春が来たから。光が届いたから。ただそれだけの理由で、黙って変わっていく。

でも。

ミーナは目を閉じた。

フィルの笑顔が、まだどこかに残っていた。天真爛漫で、悪意のない、まぶしい笑顔。彼女は何も悪くない。ただ若い。ただそれだけで、アルベルトに選ばれた。

怒りでも嫉妬でも悲しみでもなかった。

ただ、冷たい確認だった。

自分がどんなに続けてきても、何を積み重ねても、その構造の外側では、年齢という一点だけで判断されることがある。

それが世界の、一部の現実だ。

変えられない部分がある。

ミーナは目を開けた。

変えられる部分と、変えられない部分がある。

変えられないものの前で怒り続けることも、変えられるものを見なくなることも、どちらも違う気がした。

ミーナは文献のページをめくった。

古代魔法の記録は、ほとんどが辺境の出身者に関するものだった。ルーカスが四十年かけて集めた証言と記録。どれも、人に言わずに力を持ち続けた人たちの話だった。言わなかったのは、言う必要がなかったからだろう。評価を求めていなかったから。ただ、自分の中にあるものと共に生きていたから。

その人たちのことを思うと、今夜のざわざわが少し遠くなる。

手元のランプがわずかに揺れた。風ではない。窓は閉まっている。

それでも炎は揺れた。

まるで、何かに呼応するように。

指先が、温かかった。

その夜遅く、ミーナは引き出しから一枚の便箋を取り出した。

婚約解消から数日後に書いた紙だ。

『私の価値は、まだわからない。でも、今日私はここにいた。それだけは、確かだ』

それに、続きを書いた。先週書き足したものがある。

『明日、魔法研究院へ行ってみる。なぜなら、行ってみたいから』

その下に、今夜、もう一行を加えた。

『また値段をつけられた。アルベルト様は十八歳を選んだ。それは変えられない。でも、秤から降りる方法を、私はこれから探す』

書いてから、少しの間、その文字を見た。

秤から降りる。

それは今夜、思いついた言葉だった。でも、ずっと探していたものかもしれない、と思った。

婚約解消の夜から、ミーナは秤の上にいることを知った。その上で値が上がることを、解放だと思いかけていた。でも値が上がっても、秤の上にいることは変わらない。

秤の上にいる限り、また値段がつく。また動く。

降りなければ、何も変わらない。

どうすれば降りられるのかは、まだわからなかった。

でも、探す方向がわかった気がした。

ミーナは便箋を折って、引き出しにしまった。

ランプを落とした。

暗くなった部屋で、しばらく目を閉じた。

窓の外で、風が吹いている。あの芽が、冷たい夜気の中でじっとしているかもしれない。

それでも、春が来れば咲く。

誰かの秤の上でなく、ただ春が来たという理由だけで。

ミーナは布団に入った。

今夜は、眠れる気がした。

昨夜より少しだけ、深く。