作品タイトル不明
おませさん
いよいよ夏の訪れを感じさせる初夏の早朝。まだ床についているものも少なくない時間帯に、セーブルの南門を出ようとする者たちの姿があった。
彼らの先頭を行く黒髪の男は馬の背に揺られながら、やや感慨深げにセーブルの街をゆっくりと見渡す。期間にしてほんの数十日間の滞在であったが、彼にとっては初めての他国で生活を過ごした場所であり、いくつかの思い出が彼の脳裏を埋め尽くした。
そんな心ここにあらずの男に向かって、現実に引き戻す声がかかったのは、南門を通り過ぎた直後のことである。
「黙ってこの国を出て行くつもりですか?」
その声がユイの鼓膜を打つと、彼は慌てて声の主に向けて視線を移す。
「おいおい、国王様が護衛も付けずにこんなところにいたらマズイんじゃないかい?」
ユイはセーブル側から死角になるよう、街道側の入口の脇に隠れていた青年に向かってそう口を開く。
「いや、まだ国王ではありませんから。それに貴方の前では、私はただの英雄に憧れるカイルでしかありませんよ」
「勘弁してくれないか」
カイルが微笑みながら、ユイに向かって告げた内容に、ユイはやれやれといった表情を浮かべ、馬の背から体を大地へと下ろす。
「本当ですよ。僕の貴方への憧れは、かつての大使館で貴方に告げたとおりです。むしろ実際にお会いすることができて、以前より貴方のような大人になりたいという気持ちが強くなりました」
そう口にしたカイルの眼差しは、始めて出会った時のままだとユイは感じる。その純粋さが溢れかえるような王子の視線に、恥ずかしさを感じてユイは視線を反らすと、後方から彼をからかう声が響いた。
「ダメですよ。旦那みたいになったら、この国の政治はあっという間に滞っちまいやすからね」
「そうそう、クレイリーの言うとおりだ。私の目指すものは、ただの隠居生活だけだよ。そんな私みたいになる必要はないさ。君は君の信じる王道を行けばそれでいい」
クレイリーの発言に苦笑いを浮かべながらも、ユイは照れているのを隠すようそう忠告する。そして気恥ずかしさのためか、カイルの視線と合わないように、彼の足元へと視線を動かすと、ユイはカイルの背後に小さな足が二つあることに気が付いた。
「あ、もしかしてバレちゃいましたか。実はこの子も貴方にお別れがしたいって聞かなくて……今日はこっそり連れて来ました」
そう言って、カイルが左方へ一歩移動すると、先程までカイルが立っていた場所のすぐ後ろには、白いワンピースを身にまとった少女の姿があった。
「……おじちゃん」
「リナ!」
この国の民のことは、自分が責任を持ちたいと言って、カイルが引き取ったリナの姿がそこにあった。
「おじちゃん、行っちゃうの?」
「ああ」
リナは目に涙を浮かべながら、ユイの足元に抱きつくと、上目遣いでユイに問いかけてきた。ユイは頭を掻きながら、できるだけ優しい声で、そっと返事を返す。
「もう……会えないのかな?」
「そんなことはないさ。カイルのところでいい子にしていたら、きっとまた会える日が来るから」
首を左右に振りながら、リナの不安を否定すると、彼女の髪をそっと撫でる。
「うん。わかった。わたし頑張るから、いい子にしているから」
「……そっか、私もリナに会えるのを楽しみに頑張るよ」
必死に涙を目に溜めながらも、出来る限りの笑顔を浮かべるリナに対し、ユイも思わず目頭を熱くしながらそう答えた。
「ねえ、おじちゃん。ちょっと屈んでくれる?」
「ああ、ごめんね。このままじゃ、首が疲れるよね」
大きな身長差の為、見上げる形になっていたリナを気遣うと、ユイは片膝を折って彼女と同じ目線まで顔の位置を下ろした。その瞬間、ユイの左頬にほんのりと温かい感覚が伝わる。
「えっ……」
突然のことに、ユイは目を瞬かせると、リナは恥ずかしそうにカイルの方へと駆けて行き、再び彼の背後に隠れる。
「お兄ちゃん、ありがとう! それと、また……また会おうね!」
リナはカイルの足元から少しだけ顔を覗かせて、ユイに別れを告げる。
「はは。今度会うときは、屈まずにほっぺに届くぐらい、おっきくなってるんだよ。このおませさんめ」
彼女の温度が伝わった頬をそっと右手で撫でると、ユイは弱ったように頭を掻く。
その場に溢れる温かい笑い声に包まれながら、ユイにとって初めての国外への旅は、そうして終わりを告げた。