作品タイトル不明
EP 14
優しい 夜想曲(ノクターン)
カラン、コロン……。
夜の静寂に、アンティーク調のドアベルが優しく鳴り響いた。
龍魔呂が震える手で『BAR 鬼龍』の重い木製の扉を開けると、ふわりと、珈琲と微かなキャラメルの甘い香りが鼻腔をくすぐった。
店内を満たしていたのは、かつてのような冷え切った孤独の空気ではない。
レコードプレーヤーから静かに流れる、ショパンの『 夜想曲(ノクターン) 第2番』。その旋律は、まるで凍りついた心を溶かすように、ただただ優しく空間を包み込んでいた。
「——あ、おかえり! 兄ちゃん!」
カウンターの奥から、元気な声が響いた。
龍魔呂の足が、その場でピタリと縫い止められる。
そこにいたのは、自分とお揃いのワインレッドの小さなエプロンを身につけ、背伸びをしながらカウンターをピカピカに磨き上げている少年の姿だった。
年齢は、10歳ほど。
地獄の賽の河原で泥だらけになっていた5歳の姿ではない。あの日から順調に成長し、愛情を一身に受けて育った、健康で、太陽のように無邪気な笑顔を持つ少年。
「……ユウ」
龍魔呂の口から、掠れた声が漏れる。
「遅かったね、兄ちゃん。もうお店の開店準備、僕ひとりで終わらせちゃったよ? カイトさんたちの農場、そんなに忙しかったの?」
ユウがふくれっ面をしながら、カウンター越しにトテトテと歩み寄ってくる。
その肌には、もちろん鞭で打たれた痕などない。絶望の影すらない。
「ユウが死んだ事実」が消滅し、ポポロ村で龍魔呂と共に生きてきたという『新しい5年間の記憶と時間』が、そこには確かに実在していた。
「……あぁ。……そう、だな」
龍魔呂は、ゆっくりと歩み寄り、カウンターの前に膝をついた。
神界の雷帝に愛され、地獄の閻魔を一刀両断した無敵の男が、今、10歳の子供と同じ目線になるために、床に膝を折り曲げたのだ。
「兄ちゃん? どうしたの、眼が真っ赤だよ?」
不思議そうに首を傾げるユウ。
龍魔呂は、堪えきれずにその小さな体を、両腕で力強く、しかし壊れないように優しく抱きしめた。
伝わってくる、確かな体温。トクトクと脈打つ、力強い命の鼓動。
「ユウ……。ユウ……ッ!」
「わわっ、兄ちゃん、苦しいよぉ。……えへへ、でもあったかい」
ユウが、龍魔呂の広い背中に小さな手を回し、ポンポンと優しく叩く。
その瞬間、龍魔呂の心にまとわりついていた【死を呼ぶ四番(DEATH4)】としての漆黒の鎧が、音を立てて完全に崩れ去った。
「あぁぁ……っ、うぉぉぉぉぉぉぉん……ッ!!」
龍魔呂は、ユウの小さな肩に顔を埋め、子供のように声を上げて泣き崩れた。
世界を呪い、一人で泥水をすすってきた孤独な復讐鬼は、もうどこにもいない。そこにいるのは、たった一人の弟を愛してやまない、不器用で優しい「ただの兄」だった。
店の入り口では、その光景を仲間たちが静かに見守っていた。
「……よかったですね、本当に」
キャルルが目元を拭い、リーザが「鼻水が出ますの……」とすすり泣く。
ポチは何も言わず、ただ誇らしげに目を細めていた。
「フッ……。最高の種が、見事に芽吹いたじゃねぇか」
カイトは麦わら帽子のツバを深く下げ、月明かりの下でニカッと笑う。
「俺たちの【大豊作】だ」
カウンターの隅。
綺麗に磨き上げられたグラスの横には、かつて炎に焼かれ、煤だらけだったはずの『兎の人形』が飾られていた。
汚れ一つない真っ白なその人形の首元には、誰かが結んであげたらしい、可愛らしい赤いリボンが結ばれている。
ショパンの夜想曲が流れる中、龍魔呂のむせび泣く声と、ユウの優しい笑い声が、ポポロ村の夜にいつまでも溶けていった。