作品タイトル不明
EP 4
小料理屋の刻と、引き 金(トリガー) となる涙
ポポロ村の昼下がり。
三大国の緩衝地帯であるこの村は、カイト農場という規格外の存在があるおかげで、比較的穏やかな時間が流れていた。
村のメインストリートから少し外れた路地裏。そこに、ひっそりと暖簾を掲げる店がある。
小料理屋『 鬼龍(きりゅう) 』。
チリリン、と心地よいドアベルの音が鳴る。
店内を静かに満たしているのは、蓄音機から流れるJ.S.バッハの『無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV 1007』。優雅で、どこか哀愁を帯びた旋律だ。
「マスター。今日もカウンター、いいかしら?」
「……あぁ。いらっしゃい」
白木の美しいカウンターの奥で、一人の男が静かに微笑んだ。
店主である 鬼神(きしん) 龍魔呂(たつまろ) 。身長190cmの恵まれた体躯に、ワインレッドのタートルネックを着こなす25歳の青年だ。
彼は最高級の『シャプトン 刃の 黒幕(オレンジ) 』で極限まで研ぎ澄まされた330mmの本焼き柳刃包丁を手に、まな板の上の白身魚を、まるで水面を滑るかのような滑らかさで造りに引いていく。
その無駄のない洗練された所作と、どこか影のある端正な顔立ちに、カウンターに座る女性客たちはうっとりと熱い視線を送っていた。
「マスターの包丁さばき、いつ見ても芸術的ね……」
「お世辞はいい。……ほら、今日のサービスだ」
龍魔呂がスッ、と差し出した小鉢には、美しい花のように盛り付けられた刺身。
その無自覚な天然ジゴロの振る舞いに、女性客たちは頬を赤らめ、店内には和やかで平和な空気が満ちていた。
——だが、その「平和」は、突如として破られた。
『キャアアアアッ!』
『誰か! 助けて! うちの子が!!』
店の外、メインストリートの方角から、悲痛な女性の叫び声が響いた。
龍魔呂の柳刃包丁が、ピタリと止まる。
「な、何事かしら?」
女性客たちが不安そうに窓の外を覗き込む。
そこには、武装した数人のゴロツキたちが、泣き叫ぶ小さな男の子の腕を強引に引っ張っている姿があった。
「へっへっへ! この村はカイトって化け物農民がいるって聞いてたが、今日は畑に出払ってやがる! このガキは、帝国の奴隷商に高く売れそうだぜ!」
「やめろぉ! ママぁぁぁっ! 助けてぇぇぇぇ!!」
子供の、恐怖に引き攣った絶望の泣き声。
「うわぁぁぁん!!」という悲鳴が、路地裏の『鬼龍』の店内まで響き渡った。
その瞬間。
ギギッ……!
蓄音機の針が飛び、流れていたバッハの優雅なチェロの旋律が、不快なノイズと共に完全に沈黙した。
「……マスター?」
客の女性が、不思議そうに龍魔呂に声をかける。
だが、カウンターの奥に立つ男は、つい数秒前まで優しく微笑んでいた「天然ジゴロのマスター」ではなかった。
龍魔呂の顔から、一切の感情が消え去っていた。
光を失った漆黒の瞳。その奥底で、ドス黒い何かがドロドロと渦を巻いている。
(——ユウを殺したら カナラズオマエヲ コロス——)
(——ヒィー! 助け、ギャッ——)
(——たつまろ……たつまろ……——)
龍魔呂の脳内で、フラッシュバックが暴走を始める。
燃え盛る炎。血の海に沈んだ闘技場。
理不尽に奪われた 弟(ユウ) の泣き声と、炎に消えた初恋の 少女(ユイ) の記憶。
子供の悲鳴は、彼の中に厳重に封印されていた【死を呼ぶ四番(DEATH4)】の鎖を、粉々に引きちぎる最悪のトリガー(引き金)だったのだ。
「マスター……? 顔色が悪いわよ……?」
「……すまない。今日の営業は、ここまでだ」
龍魔呂の声は、まるで地獄の底から響くように低く、そして絶対零度よりも冷たかった。
彼は柳刃包丁を静かに布巾で拭い、カスタム・レザーナイフロールへと収める。
そして、エプロンを外し、壁に掛けてあった赤と黒のレザージャケットを羽織った。
カツッ、カツッ。
エンジニアブーツの重い足音が、静まり返った店内を歩く。
その背中から立ち上る異常なまでの【殺気(赤黒い闘気)】に当てられ、客の女性たちは声を発することすらできず、ただガタガタと震えることしかできなかった。
ギィ……。
店の扉を開け、龍魔呂は陽の当たる路地裏へと足を踏み出す。
遠くで、ゴロツキたちが子供を馬車に押し込もうと笑っている声が聞こえる。
龍魔呂は懐から『マルボロ赤』を一本取り出し、咥えた。
そして、真鍮製のオイルライターを取り出す。
——カチッ。
小気味良い、硬質な金属音。
火が点き、紫煙が細く天へと昇っていく。
それは、ただの喫煙の合図ではない。
裏社会の人間たちが最も恐れ、そして決して聞いてはならない【処刑の合図】。
「……殺す」
一切の感情を排した声と共に、死神が解き放たれた。