軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

EP 6

【密談】BAR『鬼龍』、硝煙とジャズの香り

扉を閉めた瞬間、外の喧騒は完全に分厚い防音壁に遮断された。

ポポロ村の裏路地にひっそりと佇むBAR『鬼龍』。

薄暗い店内には、フレデリック・ショパンの『 夜想曲(ノクターン) 第20番 嬰ハ短調 遺作』のピアノの旋律が、静かに、そして重々しく流れていた。

カウンターの奥。

黒をベースにした赤のレザージャケットを羽織った男――鬼神・ 龍魔呂(たつまろ) が、無言でグラスを磨いている。

彼が醸し出す冷たく研ぎ澄まされた空気は、ここが戦場の中立地帯であることを嫌でも意識させた。

カラン、と入り口のベルが鳴った。

現れたのは、ルナミス帝国軍近衛騎士団長・キュロスと、レオンハート獣人王国軍近衛騎士団長・ハガル。

数時間前まで泥沼で這いずり回っていた二人だが、今は軍服の汚れを拭い去り、指揮官としての重圧と疲労だけをその背に負っていた。

二人は無言のまま、カウンターの端と端、互いに最も距離を取れるスツールに腰を下ろした。

「……マスター。強いのを頼む」

キュロスが、ひび割れた声でオーダーした。

「俺にもだ。血の味が消えるような、キツいやつを」

ハガルが低く唸るように言った。

龍魔呂は何も言わず、氷を砕き、シェイカーを振った。

無駄のない、洗練された所作。冷たい氷が弾ける音だけが、店内に響く。

やがて、二人の前に淡い緑色のカクテルが静かに置かれた。

「ギムレットには、早すぎるか」

龍魔呂の低く落ち着いた声が、静寂に波紋を落とした。

『長いお別れ』を意味するそのカクテル言葉。これから二人が交わそうとしている冷酷な取引に対する、マスターなりの皮肉だった。

「……フッ。別れを告げるのは、我々の誇りか、それとも兵士たちの命か」

キュロスがグラスを傾け、喉の奥に冷たいアルコールを流し込んだ。

「どっちもだ。この狂った戦場(村)では、誇りも命も『 金(ゴールド) 』で買われ、消費されていく。……俺たちは、戦士としての死に場所すら与えられていない」

ハガルがグラスを乱暴に置き、血走った目でキュロスを睨んだ。

「単刀直入に言う。キュロス、事態は膠着状態だ。弾を撃てば罰金が科され、食料や武器の補給線は『あの人魚』と『猫耳の商人』に完全に掌握されている」

「ああ。我が帝国の資金も、すでに 限界(デッドライン) を超えている」

「だからこそ、新たな資金源が必要だ。本国からの支援がない以上、俺たちは『敵(お互い)』の肉を喰らって生き延びるしかない」

ハガルは懐から、一枚の羊皮紙を取り出し、カウンターの中央に滑らせた。

キュロスは目を細め、その文面に視線を落とす。

「……【捕虜の労働力及び賃金の譲渡契約】、か」

「そうだ。今後、互いの兵士を捕虜にした場合、殺さずに拘束する。そして、捕虜となった兵は『カイト農場』での 強制労働(アルバイト) に従事させ、そこで発生した『日給』は、すべて捕らえた側の陣営に譲渡されるものとする」

人間の尊厳を完全に無視した、現代の奴隷契約。

自国の兵士が敵の資金源となり、泥にまみれて農作業を強いられる。騎士の誇りなど微塵もない、まさに 外道(ブラック) の契約書であった。

「……悪魔の所業だな、ハガル。獣の誇りはどうした」

「誇りで腹は膨れねえ。それに、クラウゼヴィッツの信奉者であるお前ならわかるはずだ。これは『合理的な判断』だということがな」

キュロスは沈黙した。

脳裏に浮かぶのは、飲む二郎を啜りながら「ダイズラ豆を採る方がマシです」と泣いていた部下たちの顔。

彼らをこれ以上、無為な飢えと死の恐怖に晒すわけにはいかなかった。

「……マスター。ペンを貸してくれ」

キュロスは、万年筆を受け取ると、一切の躊躇なく羊皮紙のサイン欄に『ルナミス帝国軍近衛騎士団長 キュロス』と署名した。

続いてハガルがペンを取り、獣の爪痕のような荒々しい筆致で名を刻む。

「契約は成立だ。……この誓約の『証人(立会人)』を、マスターに依頼したい」

ハガルの言葉に、龍魔呂は静かに頷いた。

彼は懐から真鍮製のオイルライターを取り出し、親指でフタを跳ね上げた。

カチッ。

冷たく重い金属音が、BARの中に響き渡る。

龍魔呂が口にくわえたマルボロ赤に火が灯り、紫煙がゆっくりと立ち上った。

この店において、その音は「絶対的な掟」の証明であり、契約を破る者には処刑(死)が待っていることを意味していた。

「……引き受けた。だが、裏切りは許さねえ」

「承知している」

「当然だ」

キュロスとハガルは、グラスに残った酒を一気に煽り、無言で席を立った。

扉が開き、一瞬だけ外の空気が流れ込む。

そこには、血と硝煙の匂いではなく、カイト農場から漂う『月見大根』の甘い香りと、遠くで「バンプ!バンプ!」と叫ぶリーザの狂った声が微かに混ざっていた。

扉が閉まり、再び店内はショパンの旋律と静寂に包まれる。

龍魔呂は二人の空になったグラスを静かに片付けながら、紫煙の向こう側で短く呟いた。

「……地獄へようこそ」