作品タイトル不明
4.イザベルお母様
控えめにノックすると、扉の向こうからか細い声が返ってきた。
「……はい」
「イザベルお母様、ルイだよ」
そう声をかけてから、そっと扉を開けた。
部屋の中は、静かで穏やかだった。大きな窓からは柔らかな陽光が差し込み、白いカーテンが微かに揺れている。天気のいい日の、気持ちのいい光だ。
けれど――。空気を吸った瞬間、胸の奥に引っかかる。部屋いっぱいに漂う、濃い薬草の匂い。乾燥させた葉と根、煎じ薬の名残が混じった、いかにも病室らしい匂いだった。
視線を奥へ向ける。ベッドの上で、イザベルお母様が身体を横たえていた。けれど、私に気づいたのか、ゆっくりと身を起こそうとしている。
「お母様、無理しないで!」
反射的に声が出て、私は駆け寄った。
近くで見るお母様は、やっぱり……痛々しい。頬はこけて、顔色も薄い。以前はしなやかだった手首は、今では驚くほど細く、シーツの上に置かれた指先が心もとなく見えた。
「大丈夫よ……少し、起きようと思っただけ……」
そう言って微笑もうとするけれど、その動きひとつひとつが辛そうだった。
「だめ。今は横になってて」
私はベッドのそばに膝をつき、そっとイザベルお母様の背に腕を回す。ゆっくり、慎重に力をかけて、その身体を支えた。
軽い。思っていたよりも、ずっと。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
「ありがとう、ルイ……」
お母様は小さく息を整えながら、私に身を預けた。そっと、イザベルお母様の体を横たえた。
「こんないい天気に、ルイが家にいるなんて珍しいわね。いつもなら外で走り回っているのに……」
「今日はやることがあったんだよ」
「そう……。職業選定で錬金術師に選ばれたのよね。その関係かしら? ルイ、おめでとう」
そう言って、イザベルお母様は私の頭に手を伸ばした。
本当は、動いてほしくなかった。少し腕を上げるだけでも、きっと負担になるはずなのに。
それでも、その手つきはとても温かくて。胸の奥が、じんと痛くなる。
「これでルイも、大人の仲間入りね。もう子供みたいなことはしちゃだめよ。もっと、おしとやかにならないと……」
くすっと、楽しそうに笑う。
「あっ、でも……お転婆なルイには、まだ無理かもしれないわね」
分かってる。こうして話してくれるのは、私が喜ぶって知っているからだ。本当は、喋るのだって辛いはずなのに……。
「……そんなに話したらだめだよ。体に障るよ?」
「今日は、調子がいいの。大丈夫よ」
「また、そんなこと言って……」
私は思わず、少し強い口調になる。
「イザベルお母様は、ちょっと黙ってて。今から……能力を使って、体のことを調べるから」
「体を……? そんなことが、出来るようになったの?」
イザベルお母様は、驚いたように目を瞬かせた。
「うん。これで、お母様の体の状態をちゃんと調べるの。それで私の錬金術で、救えるかどうか確かめたいんだ」
はっきりと告げると、イザベルお母様は一瞬、言葉を失ったように目を伏せる。
「……ルイ」
その声は、どこか切なそうで、優しかった。でも、立ち止まれない。
イザベルお母様を救うには、まず知ること。何が壊れていて、何が足りなくて、何が邪魔をしているのか。
それを知らなきゃ、何も始まらない。私は静かに深呼吸をして、心を落ち着かせる。
そして、覚悟を決めた。
お願い。希望を、示して。そう祈りながら、私は鑑定を発動させた。
【対象:イザベル・グレンジャー】
【状態:慢性複合機能不全】
【進行度:中度〜重度(部位ごとに差異あり)】
慢性複合機能不全。それが、イザベルお母様の病気の名前だった。
名前の通り、慢性的で、そして複合的。ひとつの器官だけが悪いのではない。身体のあちこちが、少しずつ、別々の形で機能不全を起こしている。
【骨格・関節】
・慢性的な炎症反応
【内臓】
・全体的な機能低下
【神経系】
・痛覚信号の異常増幅
【細胞】
・細胞機能の不全
・修復・再生能力の著しい低下
……ばらばらだ。まるで、身体全体が少しずつ、違う方向へ壊れていっているみたい。原因も、症状も、影響範囲も一様じゃない。
これじゃあ、単一の薬でどうにか出来る状態じゃない。私は無意識に唇を噛みしめた。
治せない、とは思わない。でも、今すぐに、簡単に治せる病気じゃないことだけは、はっきり分かってしまった。
それでも。視線は、自然と【細胞】の項目に戻る。
希望は、ここにある。原因が細胞レベルにあるなら――逆に言えば、細胞を正せば、身体全体を立て直せる可能性があるということだ。
そのための薬。そのための成分。錬金術なら、もしかしたら――。
目の前に立ちはだかる壁は、とてつもなく高い。けれど、それは絶望じゃない。
私は、拳をそっと握りしめた。希望は、確かにある。
「……ルイ、大丈夫?」
その時、イザベルお母様がそっと私の手を握ってくれた。
細く、けれど温かい。その感触に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「辛そうな顔をしていたから……。何か、良くないことが分かったの?」
「……大丈夫だよ。イザベルお母様の病気、治せる可能性があるって分かったの。だから……希望は捨てないで」
一瞬だけ、言葉を選んでから、はっきり伝える。
「……ありがとう。その言葉、とても心強いわ」
イザベルお母様は、ほっとしたように微笑んだ。私は、その弱々しい手を、ぎゅっと握り返す。
大丈夫。イザベルお母様の病気は、絶対に治る。
――そう、思った、その時だった。
「……っ」
短く息を詰める音。イザベルお母様の顔が、苦痛に歪んだ。
「お母様!?」
「い、痛みが……」
胸の奥が、ひやりと冷える。
「ま、待って! 今、常備薬を……!」
私は慌ててサイドテーブルの引き出しを開けた。中に入っているのは、紙に包まれた粉末状の薬草。
それを急いでお母様の口に含ませ、用意してあった水を飲ませる。
「……ゆっくり、飲んで」
薬を飲み込んだ後も、イザベルお母様はしばらく苦しそうに呻き続けた。私はそばに寄り添い、その手を離さず、ただ薬が効くのを待つ。
――お願い。早く、効いて。
やがて。張りつめていた表情が、少しずつ緩んでいった。
「……ありがとう。どうやら、薬が効いたみたい」
「よかった……。もう、痛くない?」
そう聞くと、イザベルお母様は一瞬だけ視線を泳がせた。
「……えぇ。今は、大丈夫よ」
その言葉に、ほんのわずかな躊躇が混じっていることに気づいてしまう。
「……本当に?」
確かめるように、もう一度問いかける。すると、イザベルお母様は顔を歪め、そっと視線を逸らした。
「……少しずつ、なの」
「え……?」
絞り出すような声。
「……この薬、少しずつ効かなくなってきているの」
布団の端を、ぎゅっと握る細い指。その仕草が、何よりも雄弁だった。
「……じゃあ、痛みが……完全には、消えない?」
「……」
返事はなかった。それが、答えだった。胸の奥に、重たいものが落ちた気がした。
効かなくなってきている。それはつまり――今ある薬では、もう限界が近いということだ。
私は、そっとサイドテーブルの上に残された薬包紙を見つめた。
これまで、お母様の痛みを抑えてきた薬。でも、その役目は、少しずつ終わりに近づいている。
「……ねえ、ルイ。無理、しなくていいのよ」
イザベルお母様が、弱々しく微笑んだ。
「お医者様も、薬師様も、みんな精一杯やってくれたわ。これ以上を望むのは、贅沢なのかもしれない……」
その言葉が、胸に刺さる。
――違う。そんなこと、あっていいはずがない。
「……違うよ。イザベルお母様が、痛みに耐えながら生きるのが当たり前なんて……そんなの、絶対におかしい」
お母様は、驚いたように目を瞬かせる。
「ルイ……?」
私は、薬包紙を手に取った。
「この薬は、確かにすごいよ。今まで、お母様を支えてきた」
「……えぇ」
「でも、もう追いついてない」
私は、ぎゅっと拳を握りしめる。
「だったら……足りないなら、変えればいい」
「変える……?」
「この薬を、私が改良する」
一瞬、部屋の空気が止まった。
「ルイ、それは……」
「錬金術なら、出来るかもしれない。効き続ける薬を作ればいい」
それは、簡単なことじゃない。今すぐ治せる病気じゃないことも、分かってる。
でも。
「少なくとも……今より、楽に出来る」
「ルイ……。そんなことまで、背負わなくていいのよ」
イザベルお母様の目に、涙が滲んだ。
「違うの」
だけど私は、はっきりと首を振った。
「背負うんじゃない。私が、やりたいの」
大切な家族だから。心から助けたい人だから。
そして――。
「私、錬金術師だもん」
その言葉に、お母様は小さく息を呑んだ。 そして、ゆっくりと微笑む。
「……そうね。じゃあ、お願いしようかしら。あなたの錬金術に」
その微笑みは、弱々しいけれど、確かに希望を宿していた。
私は、強く頷く。
「任せて」
必ず、今よりも良いものを作る。今よりももっと痛みを和らげる薬を。
そのための最初の一歩は、もう決まっている。私は、薬包紙を胸に抱きしめた。
「まずは……この痛み止めを、徹底的に調べるところからだね」
イザベルお母様の痛みを終わらせるための、錬金術師としての本当の挑戦が始まった。