作品タイトル不明
177:鍛冶師にめちゃくちゃ怒られた
ジルがイレヴンにそれを話したのには何の他意もなかった。
三人部屋、もとい絨毯の上で安眠する一人を入れて四人部屋。夜もすっかりと更け、ジルはランプだけが光源の部屋で一人、寝酒とばかりに晩酌中だった。
珍しく早めに読書にきりがついたのか、リゼルは三つ並んだベッドの真ん中で熟睡している。小さく上下する毛布を何となく眺めながらグラスを呷り、視線を床にずらしてみれば、リゼルのベッドの足元で丸まっているクァトの姿。
それを珍しいことでもない、とあっさり許容した宿屋の夫婦の冒険者時代が多少気になる。
そうしている内に出かけていたイレヴンが帰ってきた。
イレヴンは部屋に入ってきたその脚でジルの正面に座ると、空間魔法から取り出したグラスに勝手にジルの酒を注いで飲み始めた。当然のようにそうする姿は慣れきっていて、外でも似たようなことをしているのだろうと思わせる。
そして新しい剣の良し悪しだの、良い鍛冶屋が見つからないだの、リゼルの噂だの、特別な盛り上がりもなく話していた時だった。ジルはふと、日中にあった出来事を思い出した。
リゼルに起こされて連れていかれた魔法学院。そこで顔を合わせたいつかの大侵攻の元凶。接触させることに不快感がないと言えば嘘になるが、それを突き付けて反対することにも大した意味はなかった。リゼルがジル自身が不快に思うことを知っていて、それでも実行するのなら何かしらの理由があるのだろうと分かっていたからだ。
実際、何かしらどころか洒落にならない理由があったのだが。
まさか知らない内に命の危機に瀕していたとは。本気で洒落にならない。
最悪の状況を考えればサルス全国民の命を救ったことになる。いや、そうならなかった可能性もあるので断言してしまうと恩着せがましいか。
とはいえリゼルにとっては国規模の問題など然して特別視することでもなく、本人はすでに終わったことだと考えているらしい。これほど分かりやすい危機はなかっただろうが、自身の意見一つが常にその規模で反映される立場だったのだ。今更何に気を張ることもない。
「そういやあいつと会ってきたぞ」
「誰と?」
「大侵攻の奴」
「何、暗いほうの美中年? 来てんだ」
だから、ではないが。ジルは納得していたので。
話の流れで何となくそれを口にした。まぁ多少はリゼルへの意趣返しはあったかもしれない。寝ているところを起こされて嫌な奴と対面させられた、そんな突拍子もない行動への意趣返し。
せいぜい機嫌を損ねたイレヴンの機嫌とりに奔走すれば良いと、その程度の軽い話題のつもりだったのだが。
「何とかの支配者」
「は……?」
思いのほかイレヴンがキレた。
彼は瞳孔を引き絞り、口角を無理に持ち上げたような歪な笑みを浮かべる。そのまま暫く無言でいたかと思えば、音もなく立ち上がった。抑えきれぬ怒気にクァトが飛び起きる。
ジルはそれらを眺め、他人事のようにグラスを傾けながら気付く。リゼルがわざわざ自分を起こしたのはこうなるからだったのだと。ギャンギャン文句を言う程度の余裕は残るかと思ったが、全くそんなことはなかった。
読み損ねたなと思うが、だからどうという訳でもない。これほど癖の強い相手を完全に読みきるリゼルがおかしいのだ。それでも、まぁ寝ているしと一応は止めようとするが。
「おい」
「リーダー」
ジルの声ももはや届かず、イレヴンは熟睡しているリゼルのベッドへと歩み寄る。寝ていようが関係ないという姿は珍しい。見るからに譲歩してやる気がなかった。
ふいに、そんなイレヴンに立ち塞がる存在がある。
クァトがベッドへ飛び乗り、リゼルを覆い隠すように獣の体勢をとった。威嚇するように喉の奥で唸る彼の背中から、ずるりと刃の尾が伸びていく。リゼルを守るように弧を描く尾に、イレヴンが威圧するように口を開いた。
「どけ」
「……寝てる、から」
クァトもまさかイレヴンがリゼルを傷つけるとは思っていない。
攻勢一辺倒の彼が防御体勢に回っているのがその証拠だ。戸惑い交じりの警戒を、だがイレヴンが意に介することはない。
「どけ」
「どか、ない! 寝てる!」
イレヴンの眉が不快気に顰められ、その手がクァトへと伸びた。
そろそろやばいかとジルが口を開く。王都の女将でさえ、宿を傷つけるような真似をすると物凄い剣幕で叱りつけてくるのだ。その母親である老婦人がどう出るのかなど想像もつかないが、それ以上に面倒なことになるに違いない。
だがジルが止めようとする寸前、クァトの下でもぞりとリゼルが動いた。
「ん……」
まだ目は開かないらしい。
リゼルの手が毛布から出て、うろうろと彷徨った。その手が自身の頭の上で揺れる刃の尾に触れて、ぐずる子供を寝かしつけるようによしよしと撫でる。刃の一枚一枚がバターナイフのような形をとっていた尾が、その手を傷つけることはない。
無機質な尾に感覚があるのかは謎だ。だが撫でられた尾から力が抜け、鈍色がぺたりと毛布の上に寝そべっていく。振り返ってそれを見ていたクァトも心なしか嬉しそうだ。
直後、彼はイレヴンの蹴りをまともに食らってベッドから落ちていった。
「……クァト?」
転がり落ちた音と情けない声に、リゼルの意識もやっと浮上してきたのだろう。
うとうととしながら上体を起こして毛布をめくる。寝ぼけて落ちたと思ったのか、戻ってこいとばかりにシーツを優しく叩いた。そこに、寝る前は床で寝ていたのにという疑問はない。
それどころじゃないだろうに、とジルは思ったが口には出さなかった。我関せずと傍観に徹する。
「リーダー」
「?」
ふいに優しく奪われていった毛布に、ようやくリゼルは目を開いた。
寝ぼけたように薄っすらと開いた瞳が、床の上で肩を落としているクァトを捉え、消えた毛布を探すように彷徨い、そして振り返ってイレヴンの姿を見上げる。その瞬間、リゼルは全てを悟った。
「何で俺がヤなことすんの?」
縦に裂けた瞳孔。毒々しくも嗜虐的な笑みと、声。
リゼルが平静のままベッドに腰かけて背筋を伸ばす。もはや堂々としてさえ見えた。
その目がジルを一瞥もしないのは、全力でイレヴンの機嫌をとってみせるという意思の表れなのだろう。そんなところで本気を見せるなとジルは言いたい。
「………」
ジルは多少はやってしまったかと思いつつ珍しい光景を眺めていたが、まぁ大体は自業自得だろうと悪びれずに晩酌へと戻るのだった。
イレヴンは今、非常に機嫌が良かった。
昨晩もキレはしたが、知らない内に“運が悪ければ爆死”などというタチの悪いギャンブルに巻き込まれていたと聞けば納得できた。だが納得できたとして、許せるかというと別問題で。
そもそもジルが世間話にできる程度なのだから、やむを得ない事情があったことなど最初から分かっている。それでもキレた。心底気に入らなかったからキレた。支配者云々というよりは、いやそちらも大概だが、何よりリゼルが自分の不快に思う手段を選んだことに苛立った。
事情とか知らん。自分が嫌がることしたのは事実。
けれど裏を返せば、滅多に落ち度を作らないリゼルにつけ込める貴重なチャンスなので。
「てことあってさァ」
『あー、そういうとこあるよな』
めちゃくちゃ陛下に言いつけた。
結局、夜遅くに起こしたリゼルは不貞腐れたイレヴンの機嫌をせっせと取ってくれて。
寝たのも随分と遅くなってしまったものだから、今日はギルドに行くのを止めておこうという話になった。いつもどおり早朝から迷宮に向かったジルだけが不在の宿で、他の三人は太陽がだいぶ昇るまで惰眠をむさぼっていた。
最初にリゼルが目を覚まし、身支度を整えて朝食へ。そんなリゼルに気付いたイレヴンやクァトも、前者はすかさず二度寝に入り、後者は変な時間に起きていた弊害か床の上でどうにも起きれずにいた。
何せクァトは、何故か詰問されるリゼルに付き合ってずっと起きていたのだ。切っ掛けとなったジルなど、そこそこで寝酒を切り上げて我関せずと一人寝たというのに。
「(朝飯のにおい……)」
顔を枕に押し付けていても、仄かに届く香りはほんのり香ばしい。
何の匂いだろうか、とイレヴンが思った時だ。
『お、繋がった』
突如、隣から聞こえた見知らぬ声に目を見開く。
流れるような仕草で攻撃態勢へ。ベッド脇に立てていた剣を手に取り、ワンアクションで鞘を抜きながら斬りかかる。ここまで接近されるまで気付かなかった。
そのあまりの異常な状況で、相手を確認するより早く斬りかかったイレヴンが見たものとは。空中に浮かぶ変な四角と、床で寝ていたはずのクァトが脱兎のごとく窓から飛び出していく後ろ姿。
剣は変な四角に弾かれて、咄嗟に距離をとってみれば、変な四角の裏側には見たことのある顔があった。
「なんかヘーカの絵画浮いてんだけど」
『誰が平面だよ』
「は? マジのヘーカじゃん」
四角の中で不服そうな顔をしていたのは、親愛なるパーティリーダーの国王で。
イレヴンは怪訝な顔をしながら、とりあえず抜き身の剣を鞘にしまう。そして訳が分からないながらも、ちょうど良いとばかりに四角の真ん前にあるリゼルのベッドに寝転んだ。頬杖をつく。
こんな態度でもリゼルは怒らないだろう確信がある。
昨晩のこととは関係なく、本心を伴わない敬意など不要だと目の前の国王が考えるからだ。少なくともイレヴンが今まで聞いてきた話ではそうだし、リゼルも国王が望まないものを強制しようとはしない。
違う世界にいる男は、イレヴンにとって“リゼルの知り合い”程度の認識だった。
「リーダーがサプライズっつってたのこれかァ」
いつか上機嫌になっていた姿を思い出しながら、イレヴンは「ワームベッドより全然マシ」などと内心で呟いた。あれは少しばかりトラウマになって、暫くは寝る前に必ず毛布を捲って確認したものだ。
そして、リゼルがのんびりと朝食をとっている間にイレヴンは愚痴りに愚痴った。
一体リゼルにどんな教育をしてるのかと、いきなり文句をつけたイレヴンにも国王はやや呆れたように、そして酷く楽しそうに話を聞いていて。そういうところはリゼルと似ているな、と何となく思う。どんな立場の人間に何を言われようと、とりあえず話は聞くところなど特に。
切り替えが上手いというべきか。自国の民じゃないし、というのもあるだろう。
「別にさァ、リーダーだしベストな手段とってんだろうなっつうのは分かんじゃん」
『まぁな』
「でも納得できるかっつうと違ぇじゃん。なんで俺を優先しねぇのっつう」
『凄ぇこと言ってんぞお前』
「いつでも最優先されるヘーカとは違うんでー」
『あんま苛めてやんなよ』
空中から寄こされるあっさりとした物言いに、イレヴンは片頬を笑みに歪める。
これくらいは可愛いものだろう。リゼルが可愛がっている年下二人など、自分たちが優先されると信じて疑わないのだから。
各々リゼルに好まれている在り方を変えずに磨き、そのうえで当たり前のようにリゼルからの親愛を享受する。向けられる信頼と親愛に毎度喜ぶのだから、好意に胡坐をかいている訳でもないのだろうが。
どこぞの椅子に腰かけて頬杖をついている国王を見上げながら話を続ける。
「苛めてねぇし。ちょい効率的すぎんじゃねぇのってだけ」
『俺がそう躾けた訳じゃねぇよ。ありゃ生粋だぞ』
「やっぱ?」
『自分のアレコレ無視して効率で決めたりすっから、手ぇ付け始めてから時々“この方法は自分にはあんまり合わないのかも”っつう微妙そぉーな顔してんぞ』
「あー、ぽいぽい。リーダーっぽい」
効率は良いし誰が見ても最善手、ゆえに評価は高いがそれはそれ。
国王のためになるという大前提を除けば、リゼルにも好む手段やその逆があるはずだ。それでも最もスムーズに物事が進むよう取り計らうことに慣れてしまっているものだから、手を打った後から感情が追いつくという奇妙な現象が起きる。
それでも基本的には関わった者にメリットを用意し、周囲からの反感を最小限に抑えられるのがリゼルだ。そこから除外されたということは、敵対されようが些事であると見なされているか、もしくは完全に身内判定されているかなので。
『割とアホなとこあるよな』
「俺はリーダーのそういうとこ好き」
『は、良い趣味してんじゃねぇか』
「隙がなさすぎても飽きんじゃん」
四角い枠の中で不敵に笑う国王は、見るからにプライベートな対応だ。
白を基調とした部屋。豪華さのない、機能性重視の椅子に腰かけている。肘置きに肘をついて、ついでに国王にはあるまじきことに片足を椅子に持ち上げて、時折枠の外に手を伸ばしては菓子を摘まんで口に運んでいる。
取り繕ってようやく伝わる威厳になど縁がないのだろう、と何となく思った。
『そういう意味じゃ黒いのはつまんねぇの頂点だろ』
「は?」
いかにも軽食、といったサンドイッチを頬張る国王に、イレヴンは頬杖から頭を上げた。
「ニィサンとも会ってんの?」
『似てねぇ兄弟だな』
「違ぇし。え、で、何? いつ?」
『前にリズと一緒にいた時に見たぞ』
「へー」
『リズの顔面鷲掴んでた』
「は??」
話を聞いてみると、国王は時々リゼルに窓を繋げているという。
大抵は宿にいる時を狙っているらしいが、どうしたって毎回成功とはいかない。その時も、ジルと共に外出していたリゼルへと繋がったようだ。
つまり普通に歩いていたリゼルの目前に窓が出現し、顔面から突っ込もうとしたリゼルの額をジルが咄嗟に押さえた。国王も「あ、外か。またな」と言ってすぐに窓を閉じたので話はしなかったらしいが。
「ヘーカ的にはそういうの良いわけ?」
『何がだよ』
「自慢のサイショーじゃん。平民に雑に扱われんのとかヤじゃねぇの」
『良いんだよ、本人が楽しけりゃな』
国王は唇に残るソースを舐めながら、何でもないかのように告げる。
リゼルは元の世界では地位に相応しい振る舞いを心がけていた。自らについてきてくれる者たちのため、そして何より自身の王のために。己を安く見せれば、そんな彼らも安く見られてしまうから。
けれど、今は対等な者たちに囲まれているので。
『折角全力で遊べんだから遊ばねぇと損だろ』
「そういうとこリーダーに似てる」
『時々言われんだよな』
少しばかり意外そうな国王に、イレヴンは力を抜くように頬杖に頭を預けた。
リゼルが教育係だったというし、多少似てくるのは仕方ない。けれど、そもそも根本が似ているのだろう。リゼルの年下二人への接し方を見ていれば分かる。
リゼルは何かを育てはしても、相手の在り方を変えるのは好まない。
「ニィサンもだけど、ヘーカも結構放任すんね」
『こっちじゃ放っておいても俺中心で動いてんだろ』
「でも結婚相手はストップかけてんだ?」
『そりゃあな』
一体何を話しているのかと、呆れたような国王にイレヴンはへらへらと笑う。
度々行われるリゼルによる陛下トークは、とにかく一つ一つのエピソードが強くて面白い。面白いというより色々な意味でインパクトが強い。予想外の展開が続くので酒の肴にはもってこいだ。
もしイレヴンが国王の立場だったら、余所で自身の話題が出されるなど死ぬほど嫌だがそれはそれ。娯楽が多いに越したことはない。いやリゼルに自慢してもらう分には大歓迎だが。
『あいつが嫁選ぶ基準っつうとアレだぞ、国益』
「うーわ」
『実際くっつきゃ大事にすんだろうが、元敵国の令嬢とか候補に聞かされる身にもなれよ』
「ぜってぇ腹に一物抱えてる奴じゃん」
政略結婚などありふれた世界だ。
リゼルの考えも間違ってはいないのだろうが、とイレヴンは口元を引きつらせる。
だからといって「あそこの国との国交上、私があそこのご令嬢を迎えれば」だの「こちらの領地との結びつきを強化できれば交易路の開拓ができて」だのと具体的なプレゼンをされては堪らないだろう。
「まぁそんなの俺が許さねぇけど」
『俺も許さねぇけどお前の許可がいんのかよ』
「いる」
『俺相手に言い張れんの凄ぇわ』
ケラケラと笑う国王にイレヴンは真顔だ。絶対にいる。
『まぁ昔はいたらしいけどな、婚約者』
「は???」
『キレんな』
ちなみに国王もそれを聞いた時にはキレている。
だが原因は婚約者どうこうではなく、それを知らされていなかったことに対してなので、イレヴンに対しては堂々と突っ込んだ。何せ国王が聞いた時にはすでに、リゼルの婚約は過去のものとなっていた。
「は? 誰?」
『キレんなっつうの。むかーしの敵国だよ、今は和平条約結んでる。ただ条約も俺の代になってからだし、父親の代で休戦状態になった時に“友好の証として”っつって嫁出し合おうっつう話になったんだと』
「あー……で、リーダーがちょうど良かったって?」
『地位も年齢もな』
ただ、まだリゼルも相手も幼かったので名ばかりの婚約状態が続いたようだ。
何年も続く婚約だ、何度か顔も合わせたらしい。だが幼いリゼルに恋心が芽生えることはなく、その内に両国の情勢は悪化し、最終的に相手国が色々とやらかして話は流れたのだとか。
そうして中途半端な年齢まで仮の婚約者がいたのも、今もリゼルに決まった相手がいない理由の一つだろう。
「ヘーカどんな奴だったか調べた?」
『調べた』
「どんなだった?」
『性格ブス』
「ウケんだけど」
イレヴンはシーツを叩きながら爆笑した。
いや、もし今もその婚約が続いていたのなら笑いごとではなかったが。
その時だ。ふいに部屋の扉が開き、リゼルが姿を現した。のんびりとした朝食を終え、ほのほのとした雰囲気を纏って現れたリゼルは、自身のベッドに寝転ぶイレヴンと空中に浮かんだ窓を見て足を止める。
珍しく本心から驚いたのか、ぱちりと一度目を瞬かせる姿にイレヴンはにんまりと笑ってみせた。
リゼルが部屋に戻ったら、元教え子とパーティメンバーが仲良さそうに話していた。
とはいえ、特別気が合ったという訳でもなさそうだが。初対面の相手でもラフに話せてしまう二人なので、共通の話題さえあれば話も弾むのだろう。社交的で大変素晴らしい。
その共通の話題にされたことはひとまず置いておいて、リゼルはイレヴンの下へと向かった。向かい合うように窓の前に立つ。
「おはようございます、陛下」
『おう』
「寝起きは避けてくださいって伝えたのに」
『もう朝は過ぎてんだよ。ここぞとばかりにのんびりしやがって』
片目を眇める元教え子に、リゼルは可笑しそうに笑った。
同時に後ろから服の裾を引っ張られる感覚に、逆らわずベッドへと腰かける。優しく、そして少しだけ窘めるように赤い髪を梳けば、満足げに唇を歪めたイレヴンが心地好さそうに目を細めた。
「特定の座標に窓を出す実験ですか?」
『らしいぞ。一回出したとこに限るらしいけどな』
ふむ、とリゼルは頷く。
今まではピアス、つまり元教え子の魔力を目印にしていた。だが今回は、それとはまったく別のアプローチ。今までの方法とは全く別の困難を伴っただろうに、これほど短時間で実現させたあたりが流石の王兄だろう。
とはいえ、元教え子の魔術を基盤にしているなら納得か。一度訪れたことのある場所ならば転移できるという転移魔術、王族の血筋に連綿と受け継がれている神秘の性質を思えば。
「なら実験成功ですね」
『らしいな』
「出力節約のためでしょうか」
『そうなりゃ良いなって試してんだと』
手を尽くさせて申し訳ない、と思いはするも気は楽だ。
こうして安定して窓が繋がるようになってから一度、元教え子を押しのけた王兄からひたすら質問攻めにされたことがある。魔力の違いはあるか、濃度の違いは、異なる世界の魔道具技術、手紙にあった魔鳥騎兵団とは、そもそも魔術を魔法と称する理由とは、等々。
もはや後半についてはリゼルの帰還に関係がなかったし、何なら枠外からも大興奮で質問を重ねる他の研究員の声がした。そう、未知の魔術技術の探求というのはいっそ彼らの本懐でもあるので。
『あいつら予算回した途端にやりたい放題しやがる』
つまりリゼルは半分ダシにされていた。
「リーダーの国ーって感じする」
「陛下の国と陛下の部下なので俺は関係ないです」
『その筆頭が何言ってんだか……、お』
ふいに元教え子が枠外へと手を伸ばす。
何かを弄り、遠くに向かって声をかけ、何やら会話を交わしていた。どうやらそろそろ窓が閉じるらしい。背景が魔術研究所なので、声をかけた相手は元教え子の実の兄だろうか。
そんなことを考えながら、リゼルはぽんぽんとイレヴンの髪を叩いた。腹筋で上体を起こし、大きな欠伸を零す彼を振り返り、そういえばとばかりに口を開く。
「クァト、出かけたんですか?」
「ヘーカ来た瞬間マドから飛び出してった」
トラウマでもあるのだろうか。いや、心当たりはあるが。
そうこうしている内にあちらの会話もひと段落ついたのだろう。そろそろ窓を閉じる、と告げた元教え子に、リゼルは然して緩めてもいない背筋を気持ちだけで伸ばす。
『じゃあな。次はリズんとこに繋げる予定だと』
「はい、お待ちしてます」
『赤いのもあんまこいつ困らせんなよ』
「えー」
『俺相手に愚痴零すっつう最高の贅沢味わわせてやっただろうが』
不満も露わなイレヴンに元教え子は不敵に笑い、そのまま空気に溶けていくように消えていく。
この瞬間はまだ、少しばかり慣れないまま。リゼルは窓の一片まで目を離さずに見送って、後ろで適当に髪を括っているイレヴンをおもむろに振り返った。
「言いつけたんですか?」
「言いつけた」
ニヤニヤと結んだ髪を指先で弾く姿に、リゼルは眉尻を落としながら苦笑する。
流石は元盗賊団の頭、と言って正しいかは分からないが、何とも的確すぎる意趣返しだった。
その後、ひょこりと戻ってきたクァトに見送られてリゼルたちは宿を出た。
依頼を受ける時間ではなくなってしまったが、近場の迷宮を楽しむには十分な時間。ちょうど馬車を使わずとも行ける距離に“辛党嫌いのお菓子の屋敷”という迷宮があるので、そこに行ってみようかと大橋の伸びる正門へ向かう。
名前でお察しだが、近い順に次々と攻略を進めるジルが未攻略という稀有な迷宮だ。二人で行く機会があれば、と以前から話していたこともあり、リゼルの提案にイレヴンも上機嫌で頷いていた。
「街道沿いでしたよね」
「そ。どんなんだろ、食える迷宮?」
「踏んで歩くのが申し訳なくなりそうです」
そんなことを和気藹々と話しながら、門の手前の馬車の待合所を通りすぎる。
屋根があるだけの吹きさらしの待合所には、幾つもの木製ベンチが整然と並べられていた。早朝の馬車ラッシュも過ぎれば、手の空いた御者が整頓するのだろう。いつもの雑然とした様子はない。
今は一組だけの冒険者パーティが、ベンチに座ったり寝転んだりしてダラけている。なんとなしにリゼルが眺めれば、ふとその中の一人と目が合った。相手の顔に嘲るような笑みが浮かぶ。
「よう、一刀の腰巾着」
「ごきげんよう」
「ご、えっ」
光の速さで絡まれたが水路の流れの如く流した。
そのまま足も止めずに歩き去るリゼルたちの背に、呆気にとられた視線が刺さるも二人が気にすることはない。何事もなく会話を再開させて門をくぐり抜ける。
だが、橋の半ばまでのんびりと歩いたころ。ふいにイレヴンの肩が震えた。
「ふ、ははっ、リーダーの流し方……ッ」
「これ、良いですよね。波風立たなくて」
今更ツボに嵌ったらしいイレヴンとリゼルの笑い声が湖の上に響く。
「喧嘩買うブームは終わったんスか」
「ああいう喧嘩の売り方はもうありきたりで」
「気分乗らねぇんだ? すっげぇ冒険者っぽいじゃん」
「でしょう?」
誇らしげなリゼルにイレヴンも笑う。
本来は宰相という雲の上の地位を持ちながら、何故それほどまでに冒険者で誇れるのかとは思うもののリゼルが楽しいならばそれで良い。このあたりが周囲の冒険者から“頼むからツッコミどころを流すな”と言われる由縁だが、そんなものイレヴンには何の関係もなかった。
よってリゼルは、今後も誇るところを間違えたまま冒険者を続けるだろう。
「それにしても、ああいう方ってジルと一緒の時には来てくれないんですよね」
「実力も根性も雑魚とか救いようねぇなァ」
絡んでくる理由からしてジルも当事者だろうに仲間外れにするなんて、とそんなことを話しながら二人は馬車も余裕ですれ違える大橋を渡りきった。
目的の迷宮はここからすぐの街道にある。南西へと伸びる街道、その始まりに堂々と姿を見せている扉。その街道を使う者たちにとってはもはや見慣れたものであり、何より「前を通ると腹が減る」と一部の甘党には非常に有名な迷宮でもあった。
「あー、あっまい匂いする」
「楽しみですね」
上機嫌に匂いを拾っているイレヴンに、リゼルもそれを喜ぶように目元を緩めた。
迷宮から漏れ出たかのように、その扉の周囲は甘い香りに包まれている。ジルを代表する一部の者たちには大層不評なのだが、それでもそれを楽しみに街道を通る者は多い。
そして、リゼルにも甘い香りが届くようになったころ。見えてきた扉には、本来ならば荘厳なステンドグラスに用いられるだろう技術で様々なスイーツが描かれていた。豪奢な造りに紛れ込むポップな雰囲気、冒険者の中には何ともいえない居た堪れなさを感じる者もいるという。
「え、これで何も食わずに攻略とかだったら詐欺なんだけど」
「分かりませんよ。俺も書庫の迷宮では一冊も読めませんでしたし」
「リーダー根に持ってんの?」
「ちょっと持ってます」
アスタルニアの迷宮、“人ならざる者達の書庫”。
あれだけ作りこまれた迷宮で一冊も本を読ませてもらえなかったリゼルの切なさは根深い。迷宮だから仕方ない、そう諦めてはいるものの、それはそれとして「逆に迷宮なら全て読める本でも行けたのでは」と今でも思い出すたびに考えずにはいられなかった。
「お菓子の魔物とか出たらどうしましょう」
「それはなァ、流石に食う気しねぇかも」
「美味しいもの、食べられると良いですね」
「リーダーにも分けたげる」
微笑んだリゼルに、イレヴンも得意げに目を細めて扉を潜った。
単刀直入に言えばパラダイスだった。
「イレヴン、これも食べれますか?」
「何でも食える!」
イレヴンは手掴みのケーキに齧りつきながら、反対の手に持ったフォークを器用に回す。追加で寄越された皿に唇の端を吊り上げ、あっという間に平らげると新たなケーキにフォークを突き刺した。
生クリームたっぷりのそれを口へと放り込む。
迷宮はまさにお菓子の屋敷。あらゆるものが菓子でできている。
――ように見えるだけだが。迷宮を構築するそれらは、流石に本物の菓子ではなく作り物。とはいえ本物でないほうが攻略はしやすいので、リゼルたちも思う存分感心はしても気にはしない。
迷宮内には仄かに甘い香りが漂っている。甘いものが苦手でなければ、胸やけするほどではない。歩いていたら何処からか焼き菓子の香りが、とその程度の淡い甘さだった。
「もうサルスに菓子屋いらねぇじゃん」
「そこはほら、冒険者以外は来れませんし」
「まぁ俺も食うモン決められんのはイヤだけど。おかわりー」
部屋の中央にある一つのテーブル、二つの椅子。
そこに腰かけ、背凭れに体重をかけ、当たり前のように次を催促するイレヴンにリゼルは微笑んだ。向き直るのは四方の壁、壁一面のショーケースが四面。
そこに所狭しと並べられた白い皿は全てが同一規格、けれど飾られているケーキは一つとして同じものがない。それらにつぶさに目を通し、少しばかり自信がなさげに一つの皿へと手をかける。
「多分これ、だと思います」
「迷宮の謎でリーダーが自信なさげなの珍しー」
「ケーキの名前、詳しくないんですよね」
リゼルは苦笑しながら、皿を置いたテーブルの一角に視線を落とす。
そこには“十つなげ、十一で終わらせれば、扉はひらく”という一文が刻まれたプレート。どうとも解釈できるが、リゼルはこれをしりとりだと見なした。
ちなみに最初はイレヴンが「ロールケーキ十一個繋げりゃいけそう」と試したが、テーブルに載りきらなかったために断念。もしテーブルの長さが足りれば行けそうな気がする。正解が一つでないのが迷宮なので、ケーキの名前などよく知らない冒険者だろうが突破する者は突破する。
そのロールケーキをしっかり完食し、今はリゼルのしりとり説を試しているところだった。
「本当に飲み物なしで大丈夫ですか?」
「だいじょぶだいじょぶ」
「紅茶なら準備できますよ」
「ほんとだいじょぶ」
イレヴンは笑顔で躱した。
たしかにリゼルのポーチには何故かティーセットが揃っている。何故か良い茶葉もある。だが流石に、イレヴンとて一冒険者として迷宮内で優雅なティータイムを過ごそうとは思わない。
ケーキは食べるが。これは攻略に必要なのでノーカンとする。
「どうせお湯沸かしてる間に食べ終わるし」
「俺がぱっと沸かせると良いんですけど」
「そういやできる魔法使い見たことねぇかも。そんな難しい?」
「できたら、すぐに魔法学院からスカウトが来るくらいの大発見ですよ」
そう告げながら、リゼルは十一皿目のケーキをイレヴンの前に差し出した。
最後の一皿はモンブラン。これだけは最初から決めていたので、何とかここまで繋げることができて一安心だ。名称を知っているケーキだけで十一個繋げるのはとても難しかった。
「はい、お願いします」
「いただきまーす」
完食後、二人は開いた扉を和気藹々と潜り抜けた。
迷宮なので勿論魔物も出る。
浮かぶカップケーキに乗ったツギハギのぬいぐるみ、仕込み武器のキャンディスティック、歪な形をしたジンジャーブレッドマンや、飴細工の凶暴な植物たち。そんな可愛らしくも悍ましい魔物たちが、風景に擬態して突如襲いかかってくるのだから地味に攻略難度は高い。
「もうギットギトなんだけど!」
そんな魔物たちを相手にしながら、イレヴンは双剣にこびりついた菓子の残骸を見て悲鳴を上げていた。
「これどうやって手入れ……うわ、とれねぇー!」
「だから任せてくださいって言ってるのに」
「それは俺がヤじゃん!」
ギャンギャン言いながらもキャンディスティックを真っ二つにするイレヴンに、リゼルも苦笑しながらなるべく生クリーム系や飴系を撃っていく。
イレヴンの剣の性能ならば、幾ら斬っても買い替えが必要になるまで傷みはしないだろう。だがやはり切れ味は落ちていっているようで、早々に双剣を振るうのを諦めてストックのナイフを使い捨てている。
「ニィサンに手入れ道具借りよ」
「普通の手入れで何とかなりそうですか?」
「微妙かも。無理だったら鍛冶屋持ってく」
その場合、鍛冶師にどちゃくそに怒られる未来が待っているが。
剣に飴やら生クリームやら付けて持ち込まれた鍛冶師は間違いなくキレる。
「ボス行く前にちょい手入れして良い?」
「あ、もうすぐボスなんですか?」
「多分だけど」
最後の魔物を撃ち抜き、リゼルはイレヴンと並んで先へと進んだ。
深層になるにつれ手強くなる魔物、経験を積んだ冒険者はそのあたりの変化で迷宮の全体の階層を予想できる。リゼルはまだまだ経験不足だが、ジルやイレヴンは何となく分かるらしい。
頼もしいことだと頷き、チョコレートで作られたように見える扉の前を通り過ぎる。
「今が九階なので、全十階でしょうか。意外と短い迷宮ですね」
「まぁ毎回毎回食ってるし」
「イレヴンがいてくれて助かりました」
リゼルが微笑めば、イレヴンも得意げに目を細めた。
考えてみれば確かに、一階層に一回は菓子関係の仕掛けがあった。しりとりで突破した扉は勿論、飴を舐めている間だけ床が現れたり、シンプルに用意された菓子を食べ尽くさないと開かない扉であったり。イレヴンでなければ、どれほどの甘党でも一日一階層進むのが限界だろう。
リゼルも頑張ったが、ケーキ二皿で限界を迎えた。
「ジルが踏破できない迷宮があるのか、なんて昨日までは思ってましたけど」
「今日できるようになったッスね」
「もしボスを倒せたら、ボスだけ連れてけって言われそうです」
「やー、ボスにもよんじゃねぇかな」
巨大チョコレートファウンテンみたいなボスだったら無理そう、いや生クリーム山盛りのほうが、そもそも迷宮の扉に近付けるのかが謎。そんなことを話しながら二人は迷宮の奥深くへと歩みを進めていくのだった。
その日の夜、宿にて。
四人の内、一番最後に帰ってきたジルは扉を開けた途端に顔を顰めた。
部屋の中には椅子に腰かけながらイレヴンの髪を乾かすリゼル、床に座って乾かされているイレヴン、そしてリゼルの後ろでしきりにふんふんと匂いを嗅いでいるクァトの姿。
何より、ほんのりと香る甘い香りが気になって仕方ない。
「……シャワー浴びてこい」
「ニィサン目ぇ見えてる?」
「そんなに匂いますか? 俺とイレヴンはもう分からなくて」
匂いの元はシャワーを浴びたての二人だろう。
ジルは嫌そうながらも諦めて部屋に入り、窓を全開にする。わざわざ別の部屋をとるのも面倒なので我慢するしかない。
「どうすりゃそうなる」
「迷宮だって、ニィサンも多分知ってるトコ。あっまい匂いする迷宮」
「あそこか……」
ジルにも覚えがあった。
なにせサルスから近い迷宮だ。真っ先に向かい、そして真っ先に踵を返した。
一歩も入らなかったが嫌な予感しかしなかったからだ。明らかに相性最悪の迷宮だった。
「ボスは」
「倒せましたよ。大きいマシュマロの魔物でした」
「あいつマジで斬っても斬っても意味ねぇしどうしようかと思った」
ちなみにボスを切ったら中身のイチゴジャムが凄い勢いで噴き出る。
ポップとホラーが共存する不思議空間は、絵面だけ見れば大惨事でしかなかった。
そこまで聞いたジルは挑むのを諦めた。もういっそ負ける自信があった。
甘い匂いから逃げるように窓の隣のベッドへ腰かける。今ほど窓際のベッドを勝ち取って良かったと思ったことはない。
気を逸らすように大剣を抜いて、手入れに集中しようと手入れ道具を取り出そうとした時だ。
「あ、ニィサンそれ貸して」
「何でだよ」
「これこれ、見てこれ、やばくね?」
気持ち良さそうに髪を拭かれているイレヴンが、身を乗り出して双剣を手に取った。
ジルがそちらを見れば、ちょうど刀身が露わになったところだった。眉を寄せる。
よく鞘に収まったなと思わせるほどに絡まった飴らしき筋やら油やら、ジルにしても許せないものがあるほどの状態。なにせジルは、リゼル曰くの剣コレクターなので。
「やべぇどころじゃねぇだろ」
「どうにかなんねぇかな」
「ならねぇ」
「手入れ道具とか一発でダメになんじゃん。自分の使いたくねぇし貸して」
「何で借りれると思った」
貸して、貸さない、そんな言い合いをしているジルとイレヴンを、特に気にせずリゼルは赤い髪を乾かした。タオルで拭い、優しい風を起こして、満足行くまで整えると良しとばかりに頷く。
そのまま少しだけ身をかがめ、赤い髪に鼻を近付けてすんと匂いを嗅いでみた。やはり甘い匂いは分からなくて、後ろでテーブルに腰かけているクァトを振り返る。
「甘い匂い、しますか?」
「する」
はっきりと頷かれ、リゼルは困ったように微笑むのだった。