軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

172:事後処理に紛れて逃亡した

朝露に濡れているかのような鈍色が揺れている。

己こそが大海原なのだと、数多の海を駆ける海竜の尾のように悠然と。強大ゆえに己を阻むものなど在りはしないと泰然に。彼の腰から伸びるそれは幾本もの刃が重なり合い、時折金属の擦れ合う微かな音を立てながらゆっくりとしなる。

そこから、打ち砕いた数多の敵の残滓がパラリ、パラリと地面へと落ちていた。

リゼルは目の前に立つ彼を瞳に映す。

身丈の倍もある刃の尾は、まさに竜の尾ならばそのように動くのだろうと思わせ美しい。剥き出しの刃物であるというのに、それに感じるような腹の底が冷やりとするような感覚を抱かないのは、それが自らを傷つける事が決してないと知っているからなのだろう。宙をなぞる鋭利な先端は、深海に揺蕩う水の流れにも似た静寂を感じさせる。

男の、ぶらりと下げられた両腕に在るのは一対の刃。

角度を変える毎に彼の硬質な鈍色の髪を、剥き出しの褐色の肌を、見慣れぬ民族衣装を地金に映し、あるいはリゼルの整然とした左右対称の相貌を映す。研ぎ澄まされた刃先には一筋の光を纏い、これまでに斬り裂いた光が宿ったのだと言われても信じてしまう程の鋭さに目が奪われそうだった。

ああ、一線を越えたのだと。

いや、在るべき姿を取り戻したのだろうと。

リゼルが柔らかに破顔すれば、見つめる先にある鈍色の瞳が揺らいだ。リゼルを囲うように鈍色の尾が宙を滑るのは男の無意識か、それとも。守らなければという意識の表れなのかもしれない。

周囲には残骸が散らばっている。現れた彼に一薙ぎで打ち払われたモノらの残骸。

再会がこれで驚かせはしなかっただろうかと、そう思う。少しの申し訳なさと、躊躇せず薙ぎ払った姿への喜び。どうすれば良い、などと彼は問いかけなかった。こちらの顔色を窺うような瞳も、意思表示を待つ静寂もなく、“邪魔だ”という唯それだけの自我ゆえにこの騒乱を一蹴してみせたのだ。

故にリゼルは祝福する。

ようやく伝説と邂逅できたのだという満足感と共に。

一瞬も外れる事なく己を映し続ける鈍色の瞳に、多大な期待と少しの不安に揺らぐそれに、緩めた目元でひたりと視線を合わせて唇を開く。過ぎ去った騒乱、風もなく静寂に包まれた空間で、決して大きくはない透き通った声色は呼吸さえも漏らす事なく男へと伝えた。

「有難うございます」

綻ぶリゼルの口元に、だらりと下げられていた男の指先が再び動く。

ひたすらに待ち望んでいたのだと、ようやく与えられるのだと、溢れ出そうになる何かを堪えるようにぎこちなく。何も行動には移せないまま、その指先だけが掌の中に握り込められた。

その背では絡み合う刃が解けるように尾が解け、腕を飾る鈍色も肌に沈み込むように消える。リゼルはそれを興味深そうに一瞥し、しかし今はただ再会を喜ぼうと立ちすくむ相手へと視線を戻した。

そして、しっかりと選んできたのを褒めるように彼の名を呼ぶ。

「 」

直後、男は、“ ”は――――――。

リゼルは一人、暖かな日差しを受けながらサルスの街並みを歩いていた。

ジルもイレヴンも起きた時には既におらず、朝から出かけたのか昨晩から帰っていないのか。各々魔法大国を楽しんでいるなら何よりだ、と水路の壁に跳ねる水音に耳を傾ける。

人というのは慣れるもので、サルスに来た当初は水音が立つごとに意識を向けていたが今はもう気にならない。すでに日常の一部になりつつあるのだろう、少しばかり嬉しいような寂しいような気もするが。

だが、太陽の光に煌めく水面に目を奪われる事がなくなって新たに気付いた事もある。

通りに向かって幾つも備えられた窓の木枠の色鮮やかさ。そこで育てられている花々の香りと、そよぐ蝶の羽。細い路地裏ですれ違えずに笑い合う恰幅の良い人々の陽気な声に、見上げた屋上でパイプを燻らせる翁が空に流す新しい雲。そこにせせらぎが加われば、酷くゆったりとした時間が流れているような心地になった。

「(賑やかな所は賑やかだけど)」

見つけた店で昼食をとり、今は腹ごなしの散策中。

今日はまだあまり見て回っていない南のほうに足を伸ばそうか。それとも北のほうに魔道具工房を覗きに行こうか。首都にあるという初代国王の彫像を見学に行くのも良いかもしれない。そんな事を考えながら何となしに歩いていた時だ。

ふいに足元の水路を流れていく小舟の住人と目があった。

「あ」

「おや」

小舟に寝そべり、穏やかな流れに身を任せる姿には見覚えがあった。

彼はリゼルを見るやいなや満面に喜色を浮かべ、小舟の両側に手をかけながら上体を起こす。その拍子に胸元に伏せていた本が膝へと落ちた。

もともと整えられていない羽交じりの白髪が、硬い座面に押しつぶされて更に奔放にあちらこちらへ跳ねている。それが不思議と似合って見えるのは彼の性分を知ったからか。

「こんにちは、教授さん」

「やあ。講演以来だね、冒険者先生」

本を畳みながらへらりと笑った彼にリゼルは目を瞬かせた。

講演のために学院を訪れた際に聞いた事だが、彼は自らの研究室を持つ研究者であるという。魔法学院には研究一筋の者もいるが、主に助手目当てに己の研究の傍ら後進を育てる者もいる。彼は後者であり、生徒たちに教授と呼ばれる立場であるらしい。

魔法大国サルス、その象徴である魔法学院。洒落交じりだろうが「先生」などと、そこで教鞭をとる相手に呼ばれるには過ぎた称号だと思わずにはいられない。

とはいえ他国では王族に呼ばれていた事を思えば、気が引けるにも今更かもしれないが。

「何だか畏れ多いですね」

「そんな事はない、新たな知見を得られた素晴らしい講演だった!」

苦笑を零せば、教授は声を上げて笑いながら両手を広げた。

そして緩やかな流れに流され続ける小舟に合わせ、ゆったりと歩を進めているリゼルに気付いたのだろう。彼は船底に丸めていたロープを手に取り、船から身を乗り出すと水路の端にある杭へと慣れたようにロープを通す。

サルスの水路にはこのように、船を留めておくような杭が幾つも存在していた。物売り船などはこれを利用して流れては留まり、留まってはまた流れを繰り返す。

出会った時からあまり運動が得意そうな印象はなかったが、流石はサルス国民だけあって小舟の上では少しもふらつく事がない。微かにロープの軋む音と共に小舟が小さく揺れて止まり、リゼルも感心しながら合わせて歩みを止めた。

「小生以外も勉強になったと喜んでいたよ」

「そうなんですか? 嬉しいですね」

「本当さ。特にほら、国防を担う研究者がいただろう?」

「ああ、ジル達が的になった」

「的、うん、まぁ、そうだね、うん、彼なんてあれから熱心でね。人を相手にあれじゃあ魔物には通用しないと、随分と張り切って魔道具開発に励んでいるよ」

「あの二人は例外として見てもらったほうが良いと思いますけど」

相手が悪い、とリゼルはあっさりと告げながら水路に腰かけた。

ジルとイレヴンに通用するような魔道具が量産されてしまえば、それはそれで新たな脅威が誕生しそうだ。軍事転用できそうな技術ならば特に、リゼルも元の世界ではそういった新技術には常に気を配るようにしていた。

優れた軍事技術は強力な抑止力にもなり得るが、余計な火種も生んでしまう。軍事力で注意すべきはとにかく他国とのバランス、何処かの国を征服したいのでなければ一国だけ優れていても仕方ないだろう。サルスにとっても良い結果とはならない筈だ。

とはいえ究めようとするのが研究者の常。以前に見た限りは対魔物に限定される魔道具であり、対人に転用されるようなものではなかった。一線は越えぬよう細心の注意が払われているのだと分かる。

特に、前例ができてしまった今となっては猶更だ。

「そういえば、貴方の専門は」

「小生かい?」

水路に腰かけたリゼルを見て、教授は一瞬だけ悩ましげな顔をしながら自らも腰かける。

小舟の座面と座面の間、水温が尻に直に伝わる船底へと胡坐をかいた。見上げた先にある穏やかな笑みに、諦めるように肩を竦めて元の調子を取り戻す。

「小生の専門は魔力中毒さ。原因解明と対策が主かな」

「なら先日は大変でしたね」

「ああ、レベルⅦは久々だったね!」

リゼルは「魔物関係ではないのか」と内心で呟きつつも、特に意外には思わなかった。

王都の魔物研究家と、もし血縁だとしても同じ分野を研究する義務はないだろう。本当に自身の興味があるものを追求している、それに出会う切っ掛けがそれぞれ別にあったというだけの事なのだから。

「教授も中毒に?」

「いや、残念ながら魔力がほとんどなくてね……おっと、“小生も”という事は君は症状が出たのか。あまり良くない言い方をしてしまったかな」

「気にしませんよ」

リゼルは可笑しそうに笑みを零した。

掌をついた石畳が太陽の熱を吸って温かい。ぺたりと掌をついて何となくそれを楽しみながら、好きなものに熱中していようが相手を気遣えるところも似ているなと目元を緩める。

種族が同じというだけで血縁だと決めつけるのは早計だが、これはもはや確信に近い。身内の女性が変な男に付きまとわれているのでは、などと心配をかけるのも本意ではないので尋ねはしないが。

「魔法学院は症状のある方が多そうなイメージがありますけど」

「うん、いや、比率としてはそう変わらないな。ただサンプルが多いのは確かでもある」

「それは、症状が出ても学院に顔を出す方が多い?」

「素晴らしい、大正解だ!」

生徒を褒めるように手を叩いて褒められ、リゼルは照れる事なく頬を緩めた。

褒められるのは素直に嬉しい。礼を告げれば、教授は目じりに浅い皺を刻みながら瞳を細めてみせる。それはアリムのように年長者として見守る柔らかな笑みとは違う、まるで自分の事のように誇らしいとでもいうような教育者らしい笑みだった。

彼はその笑みをカラリとしたものに変え、胡坐を組み直しながら身を乗り出す。

「魔力中毒というのは我々にとって未知の現象でね。いや、外部の魔力濃度の高まりに体内魔力のバランスが狂う所為なのは分かっているが、何故狂うのか、それが何故個人で異なる様々な症状を引き起こすのかはいまだに判明していない」

「せめて症状が統一されていれば分かりやすいんでしょうけど」

「そうなんだ! だから最近は症状の転換、つまり程度は変わらずとも比較的ラクな症状に変えられないかという事だね。結果から法則性を掴めないかとそういった研究にも着手しているんだ。酷い頭痛の症状から獣を愛でる症状に、とかだね」

なんだか聞き覚えのある症状だな、と思いつつリゼルは頷いた。

ならば学院での研究は都合が良いだろう。魔力中毒発症中の相手がいなければ研究も進まない、中毒になろうが研究優先の面々が集まる学院は絶好のサンプルに溢れている。

「成功しそうですか?」

「さて、どうだろう。“My best teacher is my last mistake.”、もしかしたら師には生涯出会えぬままかもしれないが、それが研究を止める理由にはならないからね。幸いにも、協力してくれる同志には恵まれている事だ」

「お互い様ですね」

「勿論だよ。小生も必要とあればこの身を顧みず協力するさ」

「それは、もしかして倫理に反するような実験をして」

「いないよ‼ 言い方が悪かったね‼」

笑顔で即座に否定された。

彼の髪に埋もれる羽毛が膨れ上がり、水路を通り抜ける風にそよそよと揺れる。しかしリゼルの言葉が冗談である事を分かっているのだろう、それもすぐに落ち着いていた。

だが研究トークは途切れない。早口だが滑舌の良い語り口が小気味よく耳に届く。

「そういえば今はまた別のアプローチも試しているんだ。例えばサルスには“人前で魔力中毒は見せないほうが良い”という……ああ、そうだ、冒険者だったね。外の国ではあまりないかもしれないが、そういう風習が何となくだけれどあってね」

「あ、知ってます。強制力のあるものじゃない、とだけですけど」

「そう、素晴らしい風習だ。症状によっては人前に出にくいものもあるし、辛い者ほど恩恵に与れる。つまり、そういった地域に根付いた風習や歴史から謎を解き明かせないかと考えていてね!」

「なら、その本も?」

リゼルはふと、小舟の座面に置かれている本へと視線を流した。

色褪せた革の表紙、変色した紙が段々に覗いているトビラ。元々しっかりと製本されたものではないのか、それとも幾人もの手を渡ってきたという証明か。

取り扱いを間違えれば今にもバラけてしまいそうだ。よく水上で読めるものだと感心するが、彼らにしてみれば地上も水上も大して違わないのだろうと納得もする。

「そう、これもだ。旅人の手記だけれど、その土地の風習なんかがよく書いてあってね」

「風習は日常に何気なく紛れるものですし、探すのが大変そうですね」

「本当にそうなんだ。その点、君たち冒険者は素晴らしい! 色々な土地に行って生活するからね、是非話を聞かせてもらいたいものだと依頼も検討しているところだよ」

「ならランクが高めの冒険者でしょうか。色々な国に行ってそうです」

「ふむ、そういうのもあるか。今の予算の余りは……」

教授は腕を組んで渋い顔をした。

目を瞑り、天を仰いでいる姿を見るに懐具合は芳しくないのだろう。魔法学院での研究なのだから国から予算が下りているとは思うが、それも十分とは言えないようだ。

研究者といってもピンキリだが、金がないというのは全員に共通する悩みらしい。なにせ元の世界では現国王の兄、つまり王族であり魔術研究の権威という地位にある彼も、常に予算がない予算がないと溜息をついていたのだから。

「それだけの価値があるとはいえ、本も安くはないですしね」

「そうなんだ、特に研究書の類はポケットマネーではなかなか……」

「その本はご自身で買ったものですか?」

「これはそうだね。学院で探して見つかるような本でもないし」

リゼルは嬉しそうに頬を緩ませる。

まるでプレゼントを前にした子供のような笑みに、きつく目を瞑って予算勘定に集中している教授は気付かなかった。後ろを通りがかった通行人が水路に座るリゼルを見つけ、二度見しながら歩き去っていく。

「学院には本がたくさんあるんですね」

「個人が持ち込んだものばかりだけどね。誰も持ち帰らないから溜まる一方さ」

教授はぱちりと目を開き、肩を竦めながらカラカラと笑った。

どうやら予算問題は持ち帰る事にしたらしい。彼の生徒、もとい助手に反対されないと良いのだが。

「書庫とかあるんですか?」

「ないよ、余った部屋を勝手に本置き場にしてる奴はいるけれどね。なにせ借りた本を返すようなマメな奴なんてほとんどいない、書庫の棚が歯抜けになる未来が目に見えるようだ。勿論、小生もそのマメならざる者の一人だが。わははははは!」

くたびれた白衣を肩ごと揺らし、何故か誇らしげに笑う彼にリゼルも苦笑した。

リゼルとて片づけを苦手とする身、教授が言っている事も分からないでもない。根本的に片づけの経験が足りないのも、圧倒的に素養がないのも確かだが、とにかく何かに集中すると後回しにしたものを忘れてしまいがちなのだ。

年に一回しか会わない他国の重鎮の顔は忘れないのに何故、と元教え子には奇妙な顔をされるもそれはそれ。後回しにしても良い、というだけで優先順位は低いのだから許してもらいたい。

「冒険者先生は本が好きかい?」

「はい。なので部外者が使える書庫があれば、と思ったんですけど」

「ふむ」

彼は顎の先を指で摘まんでは離し、流れる雲を目で追いながら何かを考える。

「小生の研究室にあるもので良ければ、好きに見てもらって構わないんだが」

「本当ですか?」

「勿論さ。小生も冒険者の魔法についてもっと詳しく聞きたいしね」

茶目っ気を滲ませた教授が、ふいに「後は……」と口の中で呟いて思案を続ける。

これは、と申し出に喜んでいたリゼルもその姿を眺めた。もう一押ししてみても良いかもしれない、そう考えて穏やかな笑みをそのままに唇を開く。

「俺達のパーティが知り得る他国の魔力中毒の情報、お話ししますね」

「うん⁈ 是非頼むよ!」

「サルスの冒険者の魔力中毒の症状、可能な限り纏めてお渡しします」

「素晴らしい‼」

「多くの国を渡り歩いているパーティに、貴方の依頼を受けてもらえるよう交渉しておきましょう」

「最ッッッ高だ‼ わはははははは‼」

彼は勢いよく立ち上がって両手を広げ、高々と笑い声をあげる。

水路に反響した声量が大変優れているのは、彼が鳥の獣人だからなのか個人の特性なのか。好奇心旺盛な奥さんが近くの窓から顔を出し、小舟の上で高笑いする彼を見つけて楽しそうだなぁと目元を緩ませ、そして水路に座るリゼルの姿を見つけて二度見する。本日二度目の二度見だった。

それに気付くことなく、まるで教えを乞う生徒のようにリゼルは上機嫌な彼へとお伺いを立ててみる。

「是非、他の方の研究室の書架も見せていただきたくて」

「宜しい、小生に任せておきなさい‼」

交渉成立だ。

リゼルは「今からでも構わない」という教授の言葉に甘え、小舟に乗って学院へと向かった。

正直歩いたほうが早いのだが、彼曰く小舟に揺られているほうが考えが纏まるらしい。息抜きにもなるし一石二鳥だ、と笑う彼に「分からないでもない」とリゼルは頷いてみせた。

「それで、これをカヴァーナで作ってもらって」

「素晴らしい! 素材の質にモノを言わせたこれでもかというほど力押しの一品だね!」

道すがら、魔鉱国で作った魔力中毒対策マスクも見てもらったりもした。

流石に対策も専門だけあって、構想自体は彼もすでに持っていたものらしい。そのレベルの素材が存在するかも定かではない、という理由で早々に放棄された構想だったらしいが、それが実現されているという事実は彼を非常に喜ばせた。対策案として、というよりはモノ自体が存在する事についてだったが。

子供が考えたハチャメチャ性能の“ぼくのさいきょうのぶき”が実在したような感覚だったのだろう。もういっそ感動の域に達していた彼に、喜んでもらえたなら良かったとリゼルは何も気にしない。

「さぁ、着いたよ」

「此処ですか?」

水路は学院の裏に伸びていた。

周囲に人気はない。中央に水を吐き出さなくなった噴水のある貯水池、そこで水路は行き止まりとなっていた。船着き場らしいものはないが、噴水の周りには使い古された小舟が二艘ぽつんと浮いている。

リゼル達の乗る小舟もそこへと入り、外周に沿うように停まった。誰かが勝手に打ち付けたのだろう木の杭があり、教授はささくれ立ったロープの端を手にひょいと小舟から降りる。

リゼルも彼の手を借りて船を降りて、彼が杭にロープを縛る手元を興味深そうに見下ろした。駒結びとは違うんだなと感心し、白衣が思い切り地面を擦っているが良いのだろうかと眺める。

「意外と揺れるんですね」

「サルスに来たばかりの相手はよく分かる。乗り慣れてないからね」

にやりと笑う教授に、リゼルは成程その通りだと頷いた。

「サルスの方もあまり移動手段にはしませんよね」

「けれど身近だ。幼い頃の遊びの、半分くらいは船が付き物だったかな」

「釣りとかですか?」

「ああ。あとは今みたいに昼寝場所だとか、それこそ秘密基地とかもね」

白衣の土を払いもせずに立ち上がり、彼は苔むした石畳を歩き出した。

リゼルもそれに続く。木々に埋もれた裏庭を抜け、裏門を通って学院の敷地内へ。

「海でもこれくらいの船に乗ったんですけど」

「おや、羨ましい。海なんて見た事がないよ」

「アスタルニアに足を伸ばしてみたんです。やっぱり同じ船でも違いますね」

「ああ、そうか、波というやつだね。こちらの小舟は浮かびさえすれば良いが、あちらは揺れに対して強くなければいけないのかな。こっちの船のほうが揺れるかい?」

「揺れ自体はそれほど。けど、こちらのほうが自分でバランスをとる必要があるかもしれません」

「ふむ、面白いものだ」

何気ない雑談を楽しみながら、施設と施設をつなぐ回廊に足を踏み入れた。

サルスの建国時から変わらないという古風な学院は、小さな城塞にも似た造りをしている。石造りの外観は静寂が似合いそうだが、実際はそこかしこから人々の騒めきが、更にはボンッと時に魔法が出損ねたような音が聞こえてきた。

勉強熱心で物静かな人々が集まるイメージに反して随分と賑やかな場所だ。騎士学校の厳粛な雰囲気を知るからこそ、余計にそう思うのかもしれない。

「先生、こんにちは」

「こんにちはぁ」

「ああ、こんにちは」

「あ、新しい先生?……視察?」

すれ違おうとした少女二人が、見慣れぬリゼルを見つけてふいに足を止める。

物珍しげな瞳をした彼女らの腕には魔石の詰まった箱。教材を運んでいるのか、それとも助手としての手伝いか。リゼルも挨拶を返して微笑めば、大人と子供の狭間にいる二人ははにかむように顎を引いて「こんにちは」と控えめな声で零した。

そんな少女らは緩む口元をそのままに揶揄うように互いを肘でつつき合っていたが、ふと何かに気付いたように口を噤む。そしてチラリと胡乱な眼差しでリゼルの隣を見た。

「先生、今度はだいぶ上の方が来たみたいですけど……」

「ついに公序良俗に反したの?」

「魔法事故の件数サバ読みました?」

「人聞きの悪い。小生がサバを読んだのは準一級指定魔道具の……おっと失礼、忘れてくれよ」

長身痩躯をぴんと伸ばし、わざとらしい咳ばらいを零した男に少女らも訳知り顔で頷く。

運んでいた箱を抱え直し、共犯者のように笑う姿は既に慣れきっていて。リゼルも元の世界では視察で様々な研究機関を訪れていたが、その時には見られなかった部分を今になって見れてしまったのかもと可笑しくなる。

まぁ、気付いてもこの程度は見ないフリをしただろうが。サルスでもきっと似たようなものなのだろう。そう苦笑していれば「視察じゃないなら何者なんだろう」という視線が向けられる。

教授がちらりとリゼルを窺い、そして悪戯っぽく告げた。

「彼は学院の客人だよ。冒険者先生の噂は聞いた事があるだろう?」

「えっ」

「えー……?」

「噂になってるんですか?」

「なっているとも。大丈夫、悪い噂ではないからね」

ぽかんと口を開け、半信半疑に目を瞬かせている少女二人。

それに笑いながら一度だけ手を上げて歩き出した教授に続き、リゼルも彼女らへと別れを告げて歩を進めた。今日は装備でもないし、学院所属の研究者と一緒に歩いている相手が冒険者だとは信じがたいのだろう。

そう微笑ましげなリゼルだったが、以前には装備だし講演という場を整えられたうえで冒険者だとなかなか信じられていなかった事実を知らない。

「講演の内容、貴方達にとっては特に未知のものでもなかったと思いますけど」

「そんな事はない、未知も同然だよ。何せ極めて 実(・) 戦(・) 的(・) な魔力運用だ」

「初めてそう言ってもらえました」

「“冒険者先生”が何人もいないようで安心したよ」

彼は朗らかに笑う。

魔法大国として名高いサルス、その代名詞である魔法学院に所属しているのだ。冒険者という身近な存在、しかも何度も講演に足を運んでもらっている相手の特異性に気付けなかったなどと、彼らにとっては己の無知を突き付けられるようなものなのだろう。

無知に罪はないが、無知である己を彼らは許せない。だからこそ此処にいるのだから。

「冒険者は互いの魔法に興味がないんだね」

「そうですね。敢えて聞いたりは、あまり」

「何故だい? まぁ小生らも全てを共有はしないが」

「メリットがないので。報酬の都合で技術は独占されがちです」

「成程、活躍の場を増やして報酬分配で有利をとりたいんだね」

「パーティで活動できているとその辺りも緩くなるみたいなんですけど」

「ああ、分配の必要がないからか。ふむ、興味深い」

中庭を通り抜けながら歩く。

敷き詰められた煉瓦の隙間、あるいはひび割れから根付いた植物が伸びている。サルスでは土の地面というのをあまり見ないのだが、たくましいものだ。

すぐ横の窓からは白い煙がもくもくと立ち上っていた。一瞥すら向けず会話に花を咲かせる教授を見る限り、特に何らかの事故が起こっているという訳ではないらしい。すれ違い様にさり気なさを装って覗き込めば、大きな釜の前でぶっ倒れている初老の男性を引っ叩いて起こしている助手の姿がある。やはり事故かもしれない。

事故でもこの程度は日常茶飯事なのかと、リゼルが感心しながら教授の言葉に頷いていた時だ。

「あっ、冒険者先生!」

「冒険者先生だ!」

「この呼び方、そんなに有名なんですか?」

「わははははっ」

ふいに走り寄ってきたのは見覚えのある子供が数人。

冒険者の魔法講演【冒険者の魔法使いってなぁに?~戦術運用される魔法技術を学ぶ~】に参加していた子供達だ。彼らはワラワラと集まってきて、リゼルを囲んでは魔法を使って使ってとねだり始める。

ただの好奇心というよりは溢れんばかりの探求心を滲ませる瞳にリゼルは可笑しそうに笑い、ついっと一本指を立てて見せた。

「はい、どうぞ」

「わ」

「おーっ」

子供達の頭の上でくるくると円を描けば、指先から細かな光が降り注いだ。

コンペイトウのような小さな光の粒を子供達が掌で受け止めようとするも、成長途中の華奢な手に触れた光は音もなく優しく弾けて消える。熱も痛みもないそれに歓声が上がった。

ちなみにこれもアスタルニアでリクエストされて実践したものだ。前の魔法は男子に喜ばれたが、こちらは女子受けが非常に良かった。今も大はしゃぎする少年を尻目に、少女はうっとりと光に魅入っている。

「分割と……これ何で落ちるの? 落としてるの?」

「停止なら分かるけど。弾けるのはー……魔力感知?」

「手元から離れた魔力ってどうやって操作するの?」

それでもすぐに質問攻めになる辺りが流石の魔法学院生だろう。

ちなみに以前のロマンを詰め込んだ魔法でも、ひと通り大はしゃぎした後でリゼルは彼らに詰め寄られている。とはいえ勢いだけで言えば隣にいる教授だったり、大人の研究者のほうが凄かったのだが。

「ほら、客人に無理強いするものじゃないよ」

「お客さん? 先生じゃなくて?」

「視察とかじゃないの?」

「教授、何かしたの?」

「倫理から外れた実験でもした?」

「君たちは本当に可愛くないな……」

やれやれとばかりに溜息をついた教授に、子供達は我が物顔で絡んでいく。

教授、先生、あと道すがら聞いたのは師匠など。様々な呼び名は、直接師事する相手と他を呼び分けているというのもあるし、ただ個人で愛用する敬称が違うというのもあるのだろう。

目の前の白衣の獣人は随分と気安い相手のようで、度々声をかけられているのを見た。子供達にも随分と慕われているようだ。

「おい、次の……、あ」

その時だ。友人を探してか、駆け寄ってきた一人の少年がリゼルを目にして足を止める。

それは以前の講演の時、上手くできなくなっていた魔力操作を克服し、結果として全員の目を暫く潰した少年だった。彼は数歩離れた場所で歩調を緩め、何処か気まずそうな、少しばかり気恥ずかしそうな顔でそっぽを向く。

冒険者に魔法の指導をされ、しかも無邪気に喜ぶ姿を見せたというのが幼い矜持を揺さぶったのだろう。素直な子だな、とリゼルは頬を緩めて声をかけた。

「こんにちは」

「……こんにちは」

声変わりを迎えたばかりのような掠れた声、少年はもごもごと口の中で挨拶を返す。

その声に教授に絡んでいた子供達も気付いたのだろう。少年の元へと歩み寄ってきた。

「お、何?」

「魔道具運んどけって、ヒゲ先生が」

「げ、今日そうだっけ」

「あの先生、魔道具について話すと止まんないよね」

「オレ歴史とかキョーミねぇんだけどなー」

「仕組みとかは質問しまくる癖に」

友人に混じり、少しばかり斜に構えたような笑みを浮かべる少年は年相応だ。

嫌われてはないと思うけど、とほのほのとその光景を眺めるリゼルの隣に、散々子供達にじゃれられていた教授が白衣の襟を直しながら並ぶ。くたびれた白衣は丁寧に直されたが、襟の先がよれてあらぬ方向を向いていた。

「君が魔力の使い方を教えてくれた彼は小生の助手でね」

「なら、魔力中毒の?」

「そう。亡くなった両親が生前苦労していたから、と」

リゼルはぱちりと目を瞬いた。

そして思案するように口元に指で触れる。あまり他人が聞くべき事ではないだろうがと思いつつも、本人には聞こえないよう声を潜めて問いかけた。

「今は親戚と暮らしてるんですか?」

「うん? そうだね、彼の為に王都からサルスに越してきてくれた優しい人達だ」

「そうですか」

それがどうかしたのかと、不思議そうな彼へと微笑んで首を振る。

そのまま少年を見れば、何故か友人らに背を押されて此方へと近付いてきたところだった。嫌そうな顔をしているが、僅かばかり染まった頬を見ればそれが嫌悪でない事など一目瞭然で。

己を見下ろす大人二人に彼はぐっと唇を噤み、ズボンで手汗を拭きながら視線をうろつかせる。

「ほら、言えって」

「お礼したいんでしょ?」

「うるさいな、黙ってろってば!」

こそこそと後ろから応援する友人らを振り返って少年が声を張り上げる。

とはいえそんな内緒話はリゼルにも筒抜けであり、そういう事かと茶化すことなく時折呻き声を上げる少年を見守った。難しい年頃だからなぁと、いつかの元教え子の姿を思い出して微笑ましい気持ちになる。

「その、講習で魔法、教えてくれたから」

「はい」

「お礼、言ってなかったし」

そこで言葉を切り、顔を逸らしたまま視線だけリゼルを窺う少年に「言えよ!」と後ろからヤジが飛ぶ。本人としては十分に勇気を振り絞ったのだろう、羞恥半分・憤り半分のような顔で歯を食いしばっている姿にリゼルは微笑んだ。気持ちはきちんと伝わっている。

そして片膝をついて俯いた顔を見上げ、その体を気遣うように少年の手に優しく触れる。

「魔法、練習してますか?」

「……してる」

「魔力不足で気分が悪くなったりしてませんか?」

「してないよ」

「魔力の扱いは慣れですからね。体に気を付けながらたくさん練習してください」

「してるってば」

むっとしたように少年の顔がようやくリゼルを真正面から見た。

疑っているのかと、そう露骨に伝えてくる瞳に苦笑する。疑ってなどいない、いないが、まだ余裕がありそうだしもう少し頑張ってもらおうかと敢えてそれを口にした。

「魔力の補充なんかも練習になるので」

「ッうるさいな!」

手が振り払われる。

悔しげな顔が一歩下がり、立ち上がったリゼルを睨みつけるように見上げた。慌てた友人らが走り寄ってくるなか、彼は踵を返しながら苛立ちの籠った口調で叫ぶ。

「してるって言ってるだろ! この清廉系エアクラッシャー!」

そして駆けだした少年を追いかけ、子供達は一人残らず走り去っていく。

何て失礼な事をいうのかと片手で顔を覆った教授が、「生徒が申し訳ないね」と声に出しながらリゼルを見る。まぁこの程度で怒りはしないだろうがと、そう予想をしながら言葉を重ねようとした時だ。

「あだな、付けてもらえました」

「君が良いなら良いけれどね」

思ったより嬉しそうだったリゼルに、教授は不可解そうな顔をしながらも力強く頷いた。

そして二人が歩みを再開させようとした直後の事だ。ふいに校舎内から緊迫感のある騒めきが近づいてきているのに気付く。パニックになった群衆が押し寄せてくるような、そんな喧噪だった。

リゼルがどうしたのだろうかと教授を見れば、彼は微かに眉を寄せ、騒ぎの方向を見据えていた。羽毛交じりの髪が空気を孕んだように膨らんでいる。

「どうしました?」

「いや、これは……」

途端、誰かが中庭へと駆けだしてきた。

「コードD‼ コードDーーーー‼」

「何だって⁉ 今月二度目だぞ、監査に入られてしまう‼」

駆け出してきた研究員は叫びながら駆け抜けていった。

穏やかにそれを見送ったリゼルだったが、何やら多少ズレた理由で取り乱している教授によって腕を掴まれる。痩躯からは想像ができない力で腕を引かれ、駆け出した彼に抵抗する事なくリゼルも足を動かした。

周囲では「コードD」の声を聞いて、慌てたようにそこかしこの部屋から人が飛び出してくる。緊急事態の合図なのだろうか、と方向的に正門に向かっているだろう進路を駆けた。

ちなみに教授は走り出しこそ力強かったがすでに息が尽きかけている。

「コードDってどういう意味なんですか?」

「ゼェ、学院の、エマージェンシーでね、“あらゆる手を止めDASHで逃げろ”という意味だ、ゼェ」

「成程」

「学院には、ゼェ、魔力防壁があって、ゼェ、内部での問題は外に出ないように、なっている、ゴホッ」

「大丈夫ですか?」

死にそうな教授の腕を逆に引いてやり、リゼルはなりふり構わず逃亡している周囲を見回した。

支配者のように気難しそうな研究者も、人付き合いになど縁がなさそうな研究者も皆一様に全力疾走している光景はなかなかに壮観だ。清掃員らしき者も箒を手に全力疾走している。

そして普段は体力自慢の冒険者に囲まれ、更に最も身近な二人の運動能力が並外れているので忘れがちだが、リゼルも成人男性の平均程度は動ける。つまり、研究一辺倒で寝食も忘れがちな研究者に囲まれると運動ができるように見える。

不謹慎だけどちょっと嬉しいなと、身軽な子供達に抜かされていく研究者達を眺めながら少しだけ感動した。

「今度は誰やらかした?」

「ガイコツ先生んトコだって」

「あの先生、前もなんかやってなかったっけ」

隣を走る男女の青年など、全力疾走のまま雑談に興じている。

今月二度目、という教授の言葉もあった。避難に手を抜く事はないが落ち着いた様子からは、すっかりと慣れているのが伝わってくる。魔法事故の件数をサバ読み、にわかに信憑性を帯びてきた。

「ガイコツ先生は何をされてる方なんですか?」

「えっ、誰、視察の人? え、どうしよ」

「えーとこれマラソンです! 走るの楽しいなぁ! なので問題はないです! Q.E.D!」

「大丈夫、視察じゃないですよ」

あまり良くない学園の影響が垣間見えた。

ただ本を借りにきただけだと告げれば、二人は安堵したようにリゼルに腕を引かれている教授を見た。もはや足を引きずりながら辛うじて前に進んでいる姿に、呆れたように引っ張る役目を代わってくれる。

「巻き込んですみませんね……」

「ガイコツ先生は魔物使いなんです。魔物の商業利用について研究していて」

「魔物の骨をコレクションしてるので、ガイコツ先生です」

成程、とリゼルは頷いた。

魔物使いというのは実は戦闘に携わる者が少ない。いつかのスライムのように大道芸で見世物に利用したり、四つ足の魔物や頑強な魔物を荷運びに利用したりが主流だろう。

言い方は悪いが、あれだけ愛情を注がれている魔鳥騎兵団の魔鳥も軍事利用と言えてしまう。それと同じだ。それぞれに彼らなりの愛情があり、仕事を共にしている。

そのガイコツ先生も恐らくその辺りを研究しているのだろう。とある支配者とは全く分野が違うので、今回リゼルが騒動に居合わせたのは偶然としか言いようがない。

「あっ、ガイコツ先生!」

「だ~~~~れがガイコツじゃ」

ふいにガラン、ガランと何かを床に叩きつける音がした。

振り返れば特大の骨格標本を抱えて素晴らしいフォームで疾走している老人が一人。両手に抱えきれない魔物の骨格標本の尻尾が床で跳ねまわり、この何とも言えない騒音を奏でている。

落ち窪んだ両目、欠けた頬。本人も骸骨と見紛うばかりの老人は、青年顔負けの脚力でリゼル達に並んだ。皺だらけの瞼の裏で少年のように輝いている瞳が、もはや男女の青年に両腕を抱えられて引きずられている教授を見て馬鹿にしたように笑う。

「はん、まだまだ若い癖に情けない」

「それよりガイコツ先生、何したんですか!」

「儂ゃ何もしとらん! 使役魔法を発動しようとしたらネズミが引っ掻き回しおって」

「で、何したんですか!」

「何もしとらんっちゅうに!」

リゼルは老人に抱えられている骨格標本を走りながらもまじまじと観察した。

口吻の長い頭蓋骨、湾曲した背骨、そこから伸びる両翼は畳まれているも立派で、尾は体長の倍ほどもある。更には薄っすらと感じる魔力の残滓に、本物の影竜のものかと当たりをつけた。

特出するほど巨大ではないが、迷宮内で見る竜種ではトップクラスの実力を持つ魔物。冒険者が理由もなく全身の骨を持ち帰るとは考えられないので、恐らく標本を抱える老人本人が冒険者ギルドを通して調達を依頼したのだろう。

莫大な依頼料が必要なうえ、受けられる冒険者も限られるだろうによく叶ったものだ。感心していれば、老人はまさに生徒たちへ授業を始めるような顔をして口を開く。

「ええか、使役対象を見失った魔法が儂のコレクションにまで影響を及ぼしてだな」

「先生自慢のレプリカなし天然の魔物骨格標本にですか」

「え、まさか」

「まさか動き出すとは思わなんだ」

「このクソ爺‼」

「骨に言うこと聞かせられないんですか‼」

「使役魔法は繊細だと常々教えとろうが‼ よく分からん暴走しとるしどうにもならん‼」

「その癖自分の大事な標本は持って避難して‼」

「最善の行動だろうに‼ こいつが動き出したら洒落にならんぞ‼」

全力疾走しながら怒鳴り合う師弟に、仲が良いなぁとリゼルは目を瞬かせる。

なにせリゼルの教育係はそれはそれは厳しい人で、面と向かって逆らえた事など一度もない。それでも極々まれに頭に乗せられていた掌の感覚はいまだにはっきりと覚えているし、厳しくとも理不尽ではなかったので嫌いだと思った事も一度もないが。

「良いか、これは儂が若い頃に冒険者ギルドの女狐にぼったくられながら手に入れた……」

ふいに老人の目がリゼルを捉える。

「……除籍だけは何卒ご勘弁をぉ‼」

「大丈夫です、監査でも視察でもないですよ」

美しいフォームで走りながら決死の表情で叫んだ老人をリゼルは穏やかに宥めた。

年も年だ。激しい運動に加え、心臓に負担をかけるような真似はできるだけ避けてほしい。

「客人か、そりゃあ巻き込んで申し訳ない。お抱え研究者でも探しにいらしたか」

「いえ、貴族でもなくて」

じゃあ何なんだろう、という視線が老人のみならず青年達からも向けられる。

そうこうしている内に無事に学院の正門が見えてきた。中庭という裏門や正門から最も遠い場所にいた事もあり、門の向こうには既に何人もの研究者や生徒たちが集まっている。

改めて門を観察すれば、幾重にも魔法的措置を重ねられているのが分かった。

どうやら既に魔力防壁は発動しているらしい。内部の騒動が外に漏れないようになっているというのなら、何らかの条件付けにより学院に通う者しか出入りできないようになっているのだろう。

当然だが、しっかり調べなければ条件は分からない。果たして自分は通れるのかと不思議に思っていれば、ふいに手首を掴まれる感覚があった。

「掴まって、ゼェ、いなさい、そうすれば、ゼェ、出られる」

「分かりました」

見れば、引きずられながらも何とか体力を回復したのか自力で走る教授の姿。

リゼルは頷き、ふと後ろを振り返ってみる。迅速な避難が功を奏したのか、暴走しているという魔物の骸骨の姿は何処にもない。

骨だけあって視覚、聴覚、嗅覚のすべてが失われているのかもしれない。更には隣を走る老人も実績のある魔法学院の研究者、それらを封じ込める手の一つや二つは施してきただろう。

だから、その可能性に気付いたのはリゼルだけだった。

『足音が響くと魔物が寄ってきやすいのかい?』

それはリゼルの手首を掴む男によく似た魔物研究家の依頼を受けた時のこと。

『寄ってくるのもいますね』

『音拾うのと振動拾うのいるよなァ』

『その区別っていうのは?』

『耳ついてんのと床にいんの』

思い出したのはその時の会話。

また幾つかの国で目を通してきた魔物図鑑の数々も記憶に蘇る。視覚、聴覚、嗅覚。冒険者の微細な挙動を捉えて襲いかかってくる魔物の中には、それらに依存しない種も数多く存在していた。

普段と変わりない風景、あと少しの距離まで来た門。

その向こうには慣れきったように避難している顔見知り達が、緊張感もなく今後どのように国を誤魔化すかについて話していた。誰かの手違いによるイレギュラーなど彼らにとっては日常茶飯事、それより早く己の知的欲求を満たしたいと管をまくのみ。

「また貴方の所か……」

「研究費減らされたら翁のところから頂きますわね」

「やかましい。お前らも先月やらかしとるだろうに」

すぐ目の前の門からかけられた声に、走りを緩めた彼らを責められる者はいないだろう。

青年らが門の外へ。そして同僚に嫌味を投げられながら老人もそれに続こうとした時だ。

地下から何かがせり上がるように彼の足元の地面が盛り上がる。泥に汚れた乳白色、砂を噛んだ扁平の関節が蠢いた。それに気付いたリゼルが「あ」と声を漏らすのと、骨だけになろうと鋭いかぎ爪が老人へと伸ばされるは同時。

そしてリゼルが魔力防壁で老人を囲うのと、それが地面に垂れた影竜の尾を捉えたのもまた同時であった。

「何っっっでそうなる‼」

探求心ゆえに少しばかりの歓喜が滲む怒号。

それは抱えていた標本を手放した老人だけでなく、門の外で見ていた全ての研究者の叫びだった。

固定されていた関節が軋む音、結び付けられた糸がちぎれる音。影竜の骨格標本が皮膜のない翼を広げ、空気が抜けるような鳴き声を上げながら門とリゼル達の間に立ち塞がっている。

元は一つの使役魔法で何体もの魔物の骨が動き出したという。ならば何らかの要因で魔法の影響範囲に入ったのだとすれば影竜の標本が動き出したのも不思議ではない。はずだ。その要因が不明なうえに、そもそも使役魔法自体が全く理解できない規格外の働きをしているのだが。

「どうしましょう。あれ、壊しても良いですか?」

「壊……⁉」

「ゼェ、ふぅ……客人にそんな事をさせるつもりは、ないのだけどね。このまますり抜けられないかい?」

「そうですね」

リゼルは焦燥感を抱く事なく、いたって平静のままに影竜を眺める。

噛み合わされた頭蓋の中で、鋭い牙が鈍い音を立てている。眼窩の隙間からチラチラと炎が散って見えるのはブレスの前兆か。

骨格内に保有されていた魔力を使っているのか、空気中の魔力を使っているのかは分からないが、影竜を強敵たらしめている自在な魔法は健在だと思ったほうが良いだろう。

「待て、壊すっちゅうのは」

「これでも魔物の専門家なので」

「ふむ、魔物の生態調査専門のパトロンか」

なかなか正解にたどり着いてもらえない。

リゼルは自身らの周りに張った魔力防壁を強化しながら、思案するように何となく門の外を見る。魔力防壁が作動している間は外にいる者が締め出されるらしく、影竜の出現になかなかに阿鼻叫喚の様相を見せていた。

恐らく影竜も生身より弱体化はしている筈だ。とはいえリゼルも今は他に二人を抱える身、流石に見捨てる気はないので戦闘は避けたほうが無難だろう。何より学院の敷地内、ここは規則に則り“DASHで逃げる”べきだ。

ならば、早いほうが良い。

「せーの、で走りましょうか」

「儂の健脚を見せてやろう」

「小生も正直限界だが頑張ろう」

「あ、なら防壁を丸型にして俺が転がし」

「頑張れるとも!」

教授は顔だけは長距離を平気で走破する郵便ギルド職員のように言い切った。

良い案だと思ったんだけど、とリゼルは不思議に思いながらも一つ頷く。

「じゃあ、せぇ」

の、と言い切る直前。

一匹の魔物の標本によって開けられた地面の穴が盛り上がる。

可能性としてはリゼルも考えていたのだ。それらは一つの使役魔法を共有している。ならば一匹が敵対者を定めれば、攻撃態勢をとれば、他もそれに倣うのではないかと。

「壁はクソほど強化・封印してきたが床は盲点じゃったな」

「来期の予算が……」

「ええい責任はとる! 儂が囮になろう!」

「そんな食いでの欠片もなさそうななりで囮になれる筈がないだろうに!」

「せめて心配せんか馬鹿モン‼」

十を越える骨格標本に囲まれ、教授と老人はぎゃいぎゃい言いながらも打開策を話し合う。

こういう時にパニックにならず、答えを導き出そうと議論を交わせるあたりが流石だ。リゼルは自身に張った防壁の中から、さりげなく周囲の標本らを魔法で牽制しながらほのほのと微笑んだ。門の外からは「何故防壁と攻撃を両立できる!」という叫び声が聞こえてくる。

そちらを見れば、防壁に張り付くように此方を凝視している数人の研究者の姿。とりあえず手を振っておいた。

「もうこのまま防壁を維持して冒険者を待ちましょうか。お菓子、食べますか?」

「この落ち着き様よ。流石は魔物研究の専門家じゃな」

「いえ、そういう研究者を抱えてるパトロンとかじゃなくて」

「魔力は平気かい? すまないね、誘った日取りが悪かった」

「大丈夫ですよ。その分、たくさんの本を読ませてくださいね」

学院全体を防壁で仕切って隔離するというなら、不測の事態にはそれに合わせて外部から応援を呼んでいるのだろう。今回の場合は既に冒険者ギルドに魔物退治の依頼が飛んでいる筈だ。

幸いな事に深層級の魔物は影竜のみ。その攻撃さえ牽制できれば冒険者が到着するまで防壁を維持できるだろう。リゼルに危機感はない。

だが乳白色の骨を露わに尾がしなる、がらんどうの眼窩が三人を見据える、まるで笑うかのように牙と牙がかち合う音が聞こえる。教授と老人は、流石に平常心ではいられないなと内心で零していた。

検体を前に取り乱すような真似はなくとも、笑みを描く唇とは裏腹にひそめられた眉が彼らの心情を表すようで。それに気付いて安心させるように柔らかく微笑んだリゼルが、二人には自身らとは全く別次元の存在に思えてならなかった。

教授は、久しく覚えていなかった心からの畏敬が沸き起こる感覚がした。

「君は、本当に」

白衣のポケットに両手を突っ込んだ彼が口を開きかけた時だ。

門前が騒めいた。横目でそちらを見た彼は直後、信じられないものを目にして顔ごと向き直る。その面には驚愕がありありと浮かんでいた。

一人の男がいた。

露わになった褐色の肌には紋様。見慣れない民族的な衣服。鈍色の瞳は真っすぐに三人を映す。

彼は、誰も越えられない筈の防壁をあっさりと越えていた。

乱れぬ歩調には何の気負いもない。食後の散歩と言われても信じただろう。あり得ない事を成したというのに、それにすら気付いていないのだと思わせるように平然と。

「っいけない、すぐに」

引き返せ、とそう口にするつもりだった。

だが遅い。三人を囲む魔物の亡骸たちはすでに彼を新たな目標として定めてしまった。

骨が軋む。幾重にも繋がったそれが撓る。硬質な指骨が地面を引っ掻き、間合いを図るかのように鈍色の男を囲んでいく。だが男はそれらが見えていないかのように歩みを止めず、三人の元を目指して歩いていた。

「大丈夫ですよ」

あまりにも奇妙だった。

けれど教授も老人も、ふいに零されたリゼルの一言に出かけた疑問を呑み込んだ。

二人はリゼルを見る。そして気付いた。現れた男の視線は真っすぐにリゼルを向いている。

「…………」

男は何も言わず、リゼルの前で立ち止まった。

褐色の手が差し出される。何かを言おうとした唇が薄っすらと開き、指先がリゼルの防壁を通り抜けた。組み上げた魔力をモノともせずに侵入したそれに、緻密に構築された防壁が消失する。

そして、その指が求め続けた相手を捉える間際。

周囲を囲んでいた魔物らが一斉に彼へと襲いかかった。剥き出しの牙が迫る。肉を引き裂く角が迫る。影竜が大きく顎を開き、蓄えた炎を吐き出してようやく、男の視線がリゼルから逸れる。

それはまるで、子供が積み木を崩すのにも似て呆気なく。

男の一瞥の後、遺骸は再び死に絶えた。散らばった白色の破片に、魔法学院の関係者らは一様に呆然とそれを眺める事しかできない。凶悪とも見える重なり合った刃の尾が揺れる光景も、全て。

この瞬間、誰もが現状を理解できず静寂が支配する空間で、リゼルだけが全てを把握して男と向き合っていた。

朝露に濡れているかのような鈍色が揺れている。

己こそが大海原なのだというように、数多の海を駆ける海竜の尾のように悠然と。強大ゆえに己を阻むものなど在りはしないと泰然に。彼の腰から伸びるそれは幾本もの刃が重なり合い、時折金属の擦れ合う微かな音を立てながらゆっくりとしなる。

そこから、今まさに打ち砕いた数多の敵の残滓がパラリ、パラリと地面へと落ちていた。

リゼルは目の前に立つ男を瞳に映す。

彼の身丈の倍もある刃の尾は、まさに竜の尾ならばそのように動くのだろうと思わせ美しい。剥き出しの刃物であるというのに、それに感じるような腹の底が冷やりとするような感覚を抱かないのは、それが自らを傷つける事など決してないと知っているからなのだろう。宙をなぞる先端は、深海に揺蕩う水の流れにも似た静寂を感じさせる。

男の、ぶらりと下げられた両腕に在るのは一対の刃。

角度を変える毎に彼の硬質な鈍色の髪を、剥き出しの褐色の肌を、見慣れぬ民族衣装を地金に映し、あるいはリゼルの整然とした左右対称の顔を映す。研ぎ澄まされた刃先には一筋の光を纏い、これまでに斬り裂いた光が宿ったのだと言われても信じてしまう程の鋭さに目を奪われそうになる。

ああ、一線を越えたのだと。

いや、在るべき姿を取り戻したのだろうと。

リゼルが柔らかに破顔すれば、見つめる先にある鈍色の瞳が揺らいだ。己を囲うように鈍色の尾が宙を滑るのは男の無意識か、それとも。守らなければという意識の表れなのかもしれない。

周囲には残骸が散らばっている。現れた彼に一薙ぎで打ち払われたモノらの残骸。

再会がこれで驚かせはしなかっただろうかと、そう思う。少しの申し訳なさと、躊躇せず薙ぎ払った姿への喜び。どうすれば良い、などと彼は問いかけなかった。こちらの顔色を窺うような瞳も、意思表示を待つ静寂もなく、“邪魔だ”という唯それだけの自我ゆえにこの騒乱を一蹴してみせたのだ。

故にリゼルは祝福する。

ようやく伝説と邂逅できたのだという満足感と共に。

一瞬も外れる事なく己を映し続ける鈍色の瞳に、多大な期待と少しの不安に揺らぐそれに、緩めた目元でひたりと視線を合わせて唇を開く。過ぎ去った騒乱、風もなく静寂に包まれた空間で、決して大きくはない透き通った声色は呼吸さえも漏らす事なく男へと届いた。

「有難うございます」

綻ぶリゼルの口元に、だらりと下げられていた男の指先が再び動く。

ひたすらに待ち望んでいたのだと、ようやく与えられるのだと、溢れ出そうになる何かを堪えるようにぎこちなく。何も行動には移せないまま、その指先だけが掌の中に握り込められた。

その背では絡み合う刃が解けるように尾が解け、腕を飾る鈍色も入れ墨に沈み込むように消える。リゼルはそれを興味深そうに一瞥し、しかし今はただ再会を喜ぼうと立ちすくむ相手へと視線を戻した。

そして、しっかりと選んできたのを褒めるように彼の名を呼ぶ。

「クァト」

直後、男は、クァトは――――――。

「何だ今のはどうやったんだ魔法ではないんだろう⁉」

「⁉」

防壁が消え去った事で押し寄せた研究者らに囲まれて大混乱に陥っていた。