作品タイトル不明
141:一番正しい接し方はそれ
王都の路地裏を、一人の男が歩いていた。
世の全ての悲痛を背負っているような、自信の一切を喪失したような、酷く気が弱そうな男だった。俯きながら歩いている彼が足を踏み出す度に、サイドの中程で結ばれた癖のある髪が揺れる。
「大丈夫? 元気がないみたいだけれど」
ふいに、男へと優しく艶のある声がかけられた。男の足が止まる。
王都の路地裏の、深部。表を歩けない者達が暗躍するこの場所では、狭い通りを縄張りに花売りが客がかかるのを待っているのも珍しくない。
彼女は、その内の一人だった。
「嫌なことがあったの?」
立ち止まり、俯き続ける男へと女のたおやかな腕が伸びる。
そっと肩に触れた細い指に、しかし男はピクリとも動かない。触れた指が掌になり、そして女が寄り添うようにそっと体を触れさせる。
香り立つ程の色が、触れた女の肌から立ち上った。
「私もそうなの」
女は触れる男の腕のあまりの冷たさに驚いたが、しかし微笑んで恋人のように寄り添った。
薄い布に包まれた四肢が、冷え切った体を温める。男は何も言わない。ただ何かを耐え忍ぶ、変わらぬ悲痛な顔のまま俯いている。
「ねぇ、今夜だけで良いの。お金もいらないわ」
女の鮮やかな赤に飾られた唇が、男の耳元へと寄せられた。
幼子の内緒話のように幼気に、しかし抗いがたい毒を思わせるほど艶やかな声で囁く。
「嫌なこと、忘れてしまいましょう?」
男ならば無意識に吸い寄せられてしまいそうな、そんな声色を紡ぐ唇がそっと笑みを描いた。
女は、本来ならばこの場にいる人間では無かった。良家の子女として何不自由なく育ち、器量の良い娘だからと親から愛され可愛がられてきた彼女は、それら全てを裏切り時折裏通りに立つ。
得られるものは少しの刺激と快感のみ、それで充分だった。他に欲しいものなど、女は全て持っていた。時に他者へ犠牲を強いながら、彼女は人生を謳歌していた。
女は何も言わず、肩に置いた華奢な掌で男を促す。俯いたままの男は、意思のない人形のように足を動かした。
後ろ手に重厚な木の扉を開けば、揺れる明かりが灯された部屋が姿を現す。狭い部屋にはランプと最低限の荷物、そして整えられたベッドが一つあるのみだ。
部屋の真ん中で立ち止まる男を見ながら、女は扉の鍵を閉めた。ギ、と古びた鉄がこすれあう音が静寂の中で響く。
「怖がらないで良いの」
立ち止まる男の肩へとしな垂れかかり、腕へと手を絡めながら女は恋人のように告げる。
ゆっくりとベッドへ歩み寄り、体を寄せながら腰掛けた。男の結ばれた髪が肩を滑り、落ちる。
「あなたの顔、ちゃんと見たいわ」
女が手を伸ばし男の頬へ触れ、髪へと指を差し込み撫でるように除けていく。ようやく見えた男の顔は、雰囲気の通りに酷く気弱で悲痛な面持ちをしていた。
しかし顔の造形はそれほど悪くない。女は笑みを深め、俯いたままの男へと顔を寄せる。
「一つだけ、お願い」
そして自らの手で露わにした男の耳へと、その艶やかな赤の塗られた唇を落とす寸前。吐息の伝わる距離から囁いた。
「恋人みたいに、優しく抱いて」
女は蠱惑的な仕草で、重ねた男の手を撫でた。
誘うように、促すように。逸らされていた男の視線が、揺れながらも女を見る。
「恋、人……?」
「ええ、そう」
ようやく視線の合った男に、女は蕩けるような笑みを浮かべた。
間近にある男の瞳は、酷く淀んでいた。しかし此処はそういう人間が集まる場所、女にとっては刺激を増す要因の一つでしかない。
ぞくりぞくりと背筋を震わせる何かを、女は快楽の予兆だと受け取った。
「恋人、なんて……ぼ、僕に、そんな価値なんて」
「いいえ。あなた、素敵よ」
震える声で呟く男に、女がそっと囁く。
弱気な男も、たまには良いものだ。同意し好意を示してみせれば、簡単に流され優しく抱いてくれる。
「自信を持って」
「そ、そんな、そんなの」
うろうろと、男の瞳が泳ぐ。
「控えめなひと、私すきよ」
「ひ、控えめとか、い、い、いつも、鬱陶しいって」
女が体を寄せる。赤い唇が、男の色味のない唇へと寄せられた。
「慎重ってことじゃない。あなたの立派な長所だと思うわ」
「…………」
触れかけた唇が、止まった。
男の両手が、女の細い手首を握っている。女は蕩けそうな笑みを浮かべ、かけられる力のままにベッドへと慣れ切った仕草で背を倒した。
マニキュアの塗られた爪を泳がせながら、女が靴を脱いだ。揺れるランプの灯りの中、ベッドから投げ出された足がゆるりと折り曲げられる。
「意外と強引なのね。そういうところも、魅力的」
ベッドに押さえつけられた両手に、女の笑みが深まった。
男の髪が、女の頬をくすぐった。
「――――……て」
「え?」
男が何かを呟いた。
見上げた顔は、逆光となり暗い。淀んだ瞳がより暗く見えた。
「なぁに? あなたの事、聞かせて」
女が促す。男は何かを呟き続けていた。
「ど、どうして、そんな、ひ、酷いよ、酷い、酷い、酷い、僕を、酷い」
どうしたのだろうか、と女は男を見上げた。
男の目は何も見ていない。ベッドへと押さえつけた女を見下ろしてはいるが、その瞳には何も映ってはいない。
何かがおかしい。女は両手を自由にしようと動かしたが、手首を捕まえる力は一切緩まない。
「無理矢理、じ、自信とか、無理なこと言って、ぼ、ぼ、僕をいじめて、こんなの、嫌なのに、な、何で、そんな、長所とか、無理矢理、酷い、意外って、酷い、な、何でそんなこと言うの、わ、わ、分からない、怖い」
「ちょっと、や、痛いってば……!」
握られた女の手が軋む。
しかしどれほど女がもがこうと、微動だにしない。頼りない外見からは想像できない力の強さに女は恐怖を感じた。
得体の知れないものへの、恐怖。先程背筋を震わせたものは快楽ではなく悪寒だったのだと、彼女はようやく気付いた。
「ぼ、僕のこと馬鹿に、あは、馬鹿にするんだ、し、知ってる、そうだよね、僕なんかがそ、そんな、あはは、どうでも良くて」
「ひ、やだ、やだ……!!」
悲痛を極めた男の顔が、歪な笑みを浮かべる。
何処までも壊れ切った、ぐちゃぐちゃな笑みだった。浮かぶ涙すら淀んで見えるその笑みに、女は力の限り暴れた。
「あは、そんな、価値、僕にはな、な、無いのに」
ふと、女の片手が解放された。
女は力の限り男の身体を押しのける。ぐらりと体勢を崩した男の横を、女は必死ですり抜けようと起き上がった。
床についた裸足の足が小石を踏む。しかし女はその痛みに気付かなかった。彼女の目は扉しか見ていない。掴まれたままの片手をちぎれそうな力で振りながら、立ち上がろうと小石の刺さる足へと力を込める。
「どこにいくの」
女の顔が絶望に染まった。
みしみしと掴まれた手首が悲鳴を上げる。女も赤い唇を開き甲高い悲鳴を上げた。
「ほ、ほら、嫌なこと忘れさせてくれるって、い、言ったのに、嘘つき、酷い、僕のこと、き、酷い、聞いてくれるって、い、い、言って、言ってたのに、あは、やっぱり、嘘で、捨てて、何処に、酷い、酷い、あは、し、知ってる、僕が、駄目だから、あはは、あは……ぁああああああああ!!!!!」
肩が外れるような勢いで腕が引かれ、ベッドへと引き戻される。女が夜な夜な男を引き込み、快楽に興じ、自堕落に陥った聖域へと叩きつけられた。
悲鳴のような慟哭に、女の身体が震えた。赤い唇からは意味のない声しか零れない。
「酷い酷い酷い忘れさせてくれるって言ったのに酷いことばっかり言って僕に僕が僕を馬鹿にして馬鹿にした僕のことが嫌いだから!!!」
肺ごと吐き出さんとばかりに叫ぶ男に、女は必死に否定の言葉を紡ぐ。
そんなつもりは無かった。ごめんなさい。馬鹿にしてなんかないわ。ごめんなさい。愛しているわ。ねぇ、愛しているの。好きに抱いていいわ。助けてパパ。だから許して。
「ひっ」
そしてピタリと男の悲鳴が止む。女は目を見開いた。
瞬きも出来ず見開いた瞳が、ランプの灯りを反射する鈍い銀を映した。酷く厳めしいナイフ。悲鳴が喉で潰れ、歪な音を漏らす。
「ね、ねぇ、大好きよ、私、あなたが好き、嫌ってなんか無いわ、だから」
「嘘つき」
男の手が女の口を塞いだ。顎を砕こうとするかのような力だ。
その掌に、ぽとりと水滴が落ちる。悲痛のあまりぐちゃぐちゃに壊れた男の瞳からこぼれたそれが、男の手を伝い指の間を通り女の赤い唇へと触れた。
「 Please call me “ Trash ”(僕を肯定しないで) 」
酷く苦い。呆然とそう考える女へと、ナイフが振り下ろされる。
「っあー……」
長い前髪で両目を隠した青年は、扉を開いた先に見た光景に溜息交じりにそう零した。
血だまりの中にしゃがみ込む男は、握ったナイフを引き寄せてビクリと体を震わせた。男の下には赤に染まり切ったシーツへと、多数のナイフによって縫い止められた遺体が横たわっている。
その、顔以外は原型を留めない遺体を一瞥し、扉に寄りかかる青年はもう一度深く溜息をついた。
「な、何、何で、ここ……」
「取り敢えず消えろ」
何か悪い事をしてしまったかと、男は怯えながら青年へと問いかけた。
しかし返された返答に、もう一度ビクリと肩を揺らす。
「あ、あ、僕、な、何も」
「貴族さん、来んぞ」
男の目が見開き、ひゅっとその喉が鳴った。
引き寄せたナイフを、すがる様に両手で握り締める。血の匂いが充満した狭い部屋で、青年は匂いを散らすように鬱陶しそうに手を振った。
「依頼受けて」
そして、その手でピッと遺体を指す。
「探し人」
ぶるりと男の身体が震えた。
何処を見て良いのか分からなくなったように瞳を泳がせながら、縺れながらもベッドから立ち上がる。よろけるように二歩、三歩と後退すれば、手に持つナイフからポタリポタリと血が落ちて床に斑点を描いた。
「ぼ、僕、そんな、そんなつもりじゃ」
「だから、さっさとどっか消えろ」
青年としても、とある清廉な男の探し人がこうなっているのは予想外だ。
八人の中では最も早く王都へと到着し、挨拶をしようとタイミングを窺っていた時に血の匂いを感じ、嫌な予感がしてみれば同じく到着していた目の前の男を発見した。それが今。
「貴族さんがお前の顔見るのが一番面倒になる」
「……ッ」
男は顔色を無くし、そしてだらりと両手を下げた。
俯き、サイドに結んだ髪で顔を隠しながら重い足取りで青年の横を通り抜けていく。そして扉を潜った所で足を止めた。
「あ、あの人も、こ、怖い…………」
呟き、男は重い足取りなど無かったかのように姿を掻き消した。
青年はそれをどうでも良さそうに見て、そして室内を一瞥する。内臓まで掻き混ぜられた人間の生臭さと空気の変な蒸し暑さは、彼にとって慣れ親しんだものだ。
特に何も思わず、しかし微かに扉は開いたまま、青年もその場から姿を消した。聞き覚えのある声が、徐々に此方へと近付いてきていた。
とある貴族の依頼により探していた人間が、見つけた時には惨殺されていた。
「ミステリーですよね」
「つっても裏じゃん? んな珍しくもねッスよ」
「だから貴族の依頼なんざ面倒事だっつったじゃねぇか」
「裏通り、しっかり見た事なくて」
探し人の遺体を見つけ、ギルドに報告したのが昨日のこと。
リゼル達は再びギルドに集合していた。机を一つ三人で独占し、朝の混み合うギルドをのんびりと眺めている。
何故かと言われれば、朝一で呼び出されたからだ。まだ空も薄暗い内に、冒険者ギルドの伝令係が力の限り走って来た。
「見りゃ良いだろ」
「用もなくウロつくのは、ちょっと違うんですよね」
ならば、捜索依頼をうけて裏通りを満喫してしまえという事だ。
表では容易な散策が、路地裏の深部では酷く難しい。見覚えのない通りに潜んでいるものは何か、余所の縄張りに足を踏み入れるのが何を意味するのか、慣れた者でも見知った道以外は使わない。
しかし、その為だけにジル達を連れ回しては変な連中に目を付けられるだろう、リゼルは 裏商店(うらみせ) にまだまだ用がある。結果、昨日はギルドの依頼を大義名分に目一杯探索を楽しんだ。
「で、満足したのか」
「しました。刺激的な場所ですよね」
「昼間は全ッ然人いねぇんスけど」
「夜だけ賑わうっていうのも味があります」
先日の探索では、絡まれたり抗争に遭遇したりと色々あったがリゼルは満足そうだ。
事前にイレヴンから、探し人の情報を聞いていたのも大きい。望んで裏通りに居るのなら、速やかに探す必要も無かった。
「なら、難癖つけられる甲斐もあるってもんだな」
揶揄うように唇を歪めたジルに、リゼルも微笑む。
今日呼び出されたのは、まさにジルの言った通りだ。探し出した子女が遺体であった事を、依頼主が事もあろうに冒険者の所為だと言い張ったのだ。
「探してやったのにうっぜぇよなァ」
「御息女を亡くしてショックなんでしょう」
「八つ当たりで済みゃ良いけどな」
「そーれ」
嫌そうなジルとイレヴンだが、それには理由がある。
そもそも最初は匿名で出されていた人探し、受けてみればスタッドにより別室で依頼主が貴族であると告げられた。
『本来ならこの時点で冒険者に拒否権を与えるなと言われていますが、どうしますか』
夜遊びを繰り返す娘の保護、など広まれば家の名に傷がつく。
当然とはいえ、体面を酷く気にする相手なのだろう。その上で娘の死を此方の所為だと言って来たならば、その思惑が図れないでもない。
「夜遊びは俺らが呼び出しててぇ? ついに犯して嬲り殺しぃ?」
通りがかりの冒険者が二度見しながら通り過ぎて行った。
「んーなの信じる奴いる訳ねぇじゃん」
「信じて貰う必要ねぇんだろ」
「それ意味あんスか」
「有りますよ。そういう言い分が有るのと無いのじゃ大違いです」
知っているのに知らない振りをするのも、真意に気付きながらも表向きの言葉を受け入れて見せるのも、リゼルにとっては日常だった。敬愛する王に害さえなければ良いし、いちいち暴いているほど暇でもない。
「もし本当に八つ当たりじゃなかったら、どうしましょう」
「どうって?」
「買収か、口封じとかもあるんですよね」
イレヴンが椅子を傾け、キィキィと揺らしているのを眺めながら問いかける。
「買収はあるかもな。応える奴なんざほとんどいねぇけど」
「まぁリスクでかすぎるし」
確かに、とリゼルは頷いた。
大金と引き換えに貴族殺しの汚名を背負わされるなど、全く割に合わないだろう。冒険者は金に固執すると思われがちだし、それも決して間違いでは無いのだが、常日頃から命を賭けているだけあって危機管理能力は高い。
それなりに冒険者をしていれば、こういった貴族との駆け引きで危ない橋を決して渡らなくなる。冒険中は割と平気で渡るが。
「口封じはねぇッスね」
「相手がよっぽど馬鹿じゃなけりゃな」
「ギルド関係ですか?」
「まぁな。冒険者が濡れ衣着せられて殺された、なんてギルドが黙ってねぇだろ」
ギルドは基本的に冒険者の味方だ。
それに、そんな暴挙を見逃したとなれば冒険者達の不信を買う。信頼を失って王都ギルドから冒険者が居なくなる、なんて事になれば目も当てられない。
「特に 王都(ここ) は憲兵とも連携がとれてる」
「あ、成程。トップが子爵ですしね」
レイが率いる憲兵達が、今回の相手の爵位は知らないが全く手出し出来ないという事は無いだろう。聞く限り、それほど地位の高い相手では無さそうだ。
ならば、強硬手段には出ないか。下手をすればそれこそ家が取り潰されてしまう。
「お待たせして申し訳ございません」
和気藹々と物騒なことを話していると、受付業務が一段落しただろうスタッドから声がかかった。
「お疲れ様です、スタッド君」
「いえ。朝からご足労頂き申し訳ございません。こちらへ」
そのまま、依頼を受けた際にも案内された個室へと誘導される。
冒険者で賑わう場で堂々と話せる内容でも無いだろうし、リゼル達は素直に場所を移った。向かい合わせに置かれたソファ、応接間と呼ばれる部屋で三人はそれぞれ腰掛ける。
「で?」
リゼルの隣に座ったイレヴンが、膝に頬杖をつきながら煽るように言った。
凛と背筋を伸ばし一人立ったままのスタッドが、温度を感じさせない視線でそれを一瞥する。しかし直ぐ、リゼルの穏やかな瞳へと視線を移した。
「これは、あくまでただの報告として聞いて頂きたいのですが」
淡々とした目を逸らすことなく告げたスタッドに、リゼルはゆるりと目元を緩める。それを許可と受け取ったのだろう、彼は一旦閉じた唇を再び開いた。
「探し人の依頼主が、今日中にでも貴方達を引き渡すようギルドに申し入れて来ました」
「引き渡す、ね」
リゼル達の向かいに一人座るジルが腕を組み、気だるげにソファの背へ体重を預けた。キシ、とソファの軋む音がする。
やはり買収の方だった、などと何故か和気藹々と話しているリゼル達に溜息をつき、これを“報告”と告げたスタッドの意図を察しながらも質問を投げた。
「そっちの対応は」
「貴方達は既に依頼を完了しており、これ以上依頼人に付き合う義務もありません。貴方達が望まないのなら、既定の通りギルドが対応に当たります」
だろうな、と一つ頷く。
ならば、後はリゼル次第だ。何やらイレヴンとコソコソ話しているパーティリーダーへと、ジルは顎で促し丸投げした。
「そうですね」
それを受け、リゼルは考えるように指の背で口元へと触れる。
「引き渡し、というのは?」
「あちらから迎えの使者を寄越すようです。こちらからの返答も聞かず勝手に決められたそうなので、既に此方へ向かっている途中だとは思いますが」
絶対零度の名に相応しい声色は、使者など無視しても構わないと率直に伝えて来た。
言い方からして対応に当たったのはスタッドでは無いのだろう。他のスタッフか、あるいはギルドマスターか。英断だ。
「なら、その方次第ということで」
あっさりと笑い、リゼルが立ち上がる。
ジルとイレヴンも反論することなく立ち上がり、こちらもあっさりと頷いたスタッドに先導され部屋を出た。
「いつごろ来るんですか?」
「早朝にとだけで詳しくは聞いていません。ですがそれほど待つ事はないかと」
それもそうだろう、有ること無いことを言い触らされては堪らない。
ならば早々に口止めを望むはずだ。ギルドを無視して使者を送って来るあたりに、それが窺える。
「分かりました。じゃあ、ギルドの机を」
借りますね、と言いかけた時だった。
ギルドの廊下を通り過ぎ、ギルド受付へと戻ったリゼルの耳へと馬の嘶きが届く。まさに馬車を牽く馬らが、その歩みを止めようと手綱を引かれたような声。
四人は足を止め、ギルドの扉を眺める。
「どんな奴かなァ」
「あんま遊ぶなよ」
「あっちの出方次第」
楽し気に嗜虐的な笑みを浮かべるイレヴンに、上辺だけの言葉を投げながらジルはリゼルを見下ろした。
人を見極めることに慣れている男が、何を正解とするのか。使者が媚びを売れば良いのか、横柄に出れば良いのか、それはジル達ですら分からない。
まだ見ぬ使者に同情すら湧く気がするが、思う事はただ一つ。精々リゼルを楽しませろと、ただそれだけだ。
そして、ギルドの扉が開く。
現れた姿は誰にとっても予想外だった。身なりの良い服に、恵まれて育ってきただろう顔。物珍しそうにギルドを見回す姿が年相応な、幼い少年。
そんな彼が、何かを見つけパッと可愛らしい顔を輝かせる。
「あ、お父さぁん」
少年とその視線の先に居たリゼルを冒険者達は首を振り子のようにして見比べていたし、ギルド職員たちも同じように見比べていたし、スタッドは無表情のままリゼルを凝視しその背に雷を落としていた。
トッコトッコと機嫌が良さそうに近付いて来た少年が腰に抱き着いてきたのを、リゼルは何かに納得しながら受け入れた。腹から真っすぐに此方を見上げて来る姿に、その小振りな頭を撫でてやる。
「お久しぶりですぅ」
「久しぶりです。元気そうですね」
幸せそうに頭を撫でる手を甘受する少年から、リゼルはふと視線を上げた。
物凄い形相で此方を見ている周囲のことは置いておき、痛いほどに視線が刺さる隣を見る。瞬きすら忘れ此方を凝視するスタッドがいた。
手を伸ばし、頬へと掌をあてる。そのままふにふにと薄い頬を揉めば、ようやく一度だけ瞬きが返って来た。
「彼は」
「以前、騎士学校の依頼を受けたでしょう? その時に知り合った子なんです」
「何故」
「このくらいの子がいても不思議じゃないなと思って、試しに呼んで貰ったんです」
説明をすれば、納得したのだろう。
数度瞬いて、スタッドは頬にあてられた手を自らの頭へと乗せた。リゼルが可笑しそうに笑い細い髪を梳けば、満足したのだろう。
一つ頷き、職員として立会人の立場をとる姿に、リゼルも微笑み改めて少年を見下ろした。
「一人で来たんですか?」
「そうでぇす。帰ってるって聞いたから、会えて良かったぁ」
「あー、あん時のチビ。仕留めた?」
「それが、穴の底に仕込む槍を運んでるとき、ライナ先輩に見つかっちゃって……もうちょっとサッショウリョクの低いやつにしろって言われちゃいましたぁ」
背の低さを揶揄われ、その復讐へと走ってしまった少年は残念そうにリゼルの腹へと顔を埋めた。しかし良し良しとリゼルに頭を撫でられ、パッと笑みを浮かべる。
「でも今度はちゃんと落とし穴を掘って、水を流し込んで、嘲笑ってやれましたぁ!」
ふくふくとした頬を仄かに染め、可愛らしく笑う少年の言動が一致せず周囲は大混乱だ。
「証拠隠滅したか」
「それが、失敗しちゃいましたぁ」
一応アドバイスをした身のジルが確認すれば、少年は申し訳なさそうにぎゅうとリゼルの服を握る手へと力を込めた。
「出せチビって煩いから、早く埋めなきゃって思ってぇ。ちゃんと土は残しておいたから、スコップで戻そうとしたんですけど、重くって……」
「あー、こんだけガキだとなぁ」
「深く掘ってんなら余計にな」
穴の証拠隠滅だと思っていたが、どうやら人もだったらしい。
リゼルは感心したように目を瞬かせ、もしかしたらあまりジル達と少年を関わらせるのは教育に良くないかもと一瞬考えた。嬉しそうな少年を見て、まぁ良いかと流したが。
「もたもたしてたらライナ先輩が走って来て、サッショウリョクは駄目だって言われちゃいましたぁ」
汗を流しながら穴を掘り、うんうんと魔力をひねり出しながら水を流す。諦めず復讐を成し遂げようとするガッツを彼は高く評価したのだろう。
最終的に、からかった側とやり返した側とを叱り、喧嘩両成敗を落としどころと考えた。大事にならないよう密かに注意していたが、まさかの生き埋め事案にライナは全力疾走して真面目に説教した。
「もう揶揄われてはいませんか?」
「はぁい、全然」
それもそうだろうと密かに聞いていた周囲は思ったが、何も言わなかった。ただひたすら怖い。
「あ、そうだぁ。ぼく、冒険者の人を迎えに来たんですぅ」
「君が、ですか?」
「はぁい。ここに来れば、お兄さんに会えるかもって思ってぇ」
一歩リゼルから離れ、少年は恥ずかし気に肩を竦める。
照れたように俯き、しかし上目でリゼルを窺う瞳が酷く愛らしい。まるで相手を油断させ、絆し、自らの想いを通す、そんな何処までも無邪気で無垢な愛らしさ。
随分と、自分の魅せ方を知っている子だ。リゼルは微笑み、未だ自身の服を握る小さな手へと触れた。
「なら、ちょうど良かった」
「え?」
「俺達のこと、迎えに来たんでしょう?」
ぽかんと口を開けて此方を見上げていた少年が、徐々に笑みを明るくさせる。
しかしハッとしたように口を閉じ、眉尻を下げる。不満そうに、微かに憎らし気に、唇を尖らせリゼル達三人を視線でなぞった。
「じゃあ、あのジジィ、お兄さんたちのことぉ……」
「あ、君は今回の呼び出しのことを知ってるんですね」
「はぁい。狸ジジィのやることなんて、丸分かりですぅ」
少年はにっこりと笑って、自らの手に触れる細く長い指を楽しそうににぎにぎと握り、そして名残惜し気に離した。
少年とて貴族生まれの貴族育ち、そして今では他所の子息に囲まれる騎士学校暮らし。年の割に空気は読める。ただし多々あえて読まない。
ジル達に子供だからと好きにさせて貰っている自覚もあれば、先程からじっと見て来る絶対零度な無表情のことも気付いていた。世の中には敵に回してはいけない存在がいるのだ。長いものには巻かれよ。引き際大事。
「じゃあ死んだのお前の姉ちゃん?」
「そうでぇす」
あまりにも普通に問いかけたイレヴンに、しかし少年も可愛らしい笑顔のまま返す。
いっそ嬉しそうなその表情に、リゼルは微笑み小さく首を傾けた。どうやら気を遣う必要は無さそうだ。
「お姉さんがお亡くなりになって、寂しくないですか?」
「ぜぇんぜん。だってぼく、あの人キライでしたぁ」
貴族って怖い、なんて視線がジルとイレヴンから飛んでくるのに苦笑し、無邪気に笑う少年を見下ろす。近い位置に立つ彼の柔らかな頬を両手で包み込んだ。
くすぐったそうに瞳を蕩けさせる少年は、まだ幼さの残る手で頬へと当てられた掌へと触れる。
「ヒステリーで直ぐぼくのこと叩くし、自分よりキレイな人のことエグく苛めるしぃ。凄いですよぉ、苛められたヒト、部屋から出られなくなっちゃったって高笑いするんですぅ」
再びジル達がリゼルを見た。貴族に対する熱い風評被害。
「それで好みの男に擦り寄って、婚約者いるのに夜な夜な外に出てって男ひっかけてぇ。ああいうのって、クソビッ」
少年がピタリと言葉を切った。
そして上目でリゼルを見つめ、ちらりちらりとジルとイレヴンを窺い、そしてにっこりと笑う。
「男好きって言うんですっけぇ」
「本当に嫌いだったんですね」
「はぁい、だぁいっきらい」
スタッドがスタスタと近寄って来て、少年の頬に伸ばされたリゼルの袖をつかんだ。
それに気付いたリゼルが慰めるように額を指先で撫でてやれば、自分が優先された事で満足したのだろう。無表情からポンッと花を飛ばさんばかりに満足げだった。
「てめぇが騎士学校行ってんなら上に誰か居んだろ」
「狸ジジィにそっくりな兄が一人とぉ、姉さんがもう一人居ますぅ」
「グッチャグチャになった方じゃねぇの?」
「グッチャグチャになったんですかぁ? それ知ってまぁす、インガオーホー」
本当に死んだ姉に情は無かったようだ。
他人事のように告げる少年に、やはり家庭環境って大事だなぁとリゼルはしみじみと思った。本人が全く問題なさそうなので賛否は抱かないが、それとは別に自分を愛し守ってくれた周囲に改めて感謝する。
「あんな男好きじゃなくて、だぁい好きなぼくの姉さんなんです」
にんまりと、酷く誇らしげに嬉しそうに笑う顔が彼の素なのだろう。
父や兄に対して話している時の侮蔑を孕んだ瞳が、純粋で幼気な輝きに満ちた。
「ちょっと厳しくて、すごく優しくて、今は嫁いで行っちゃったんですけど、すっごく幸せそうなんですよぉ」
「良いお相手が見つかったんですね」
「そうなんですぅ。義兄さん、ぼくもだぁいすき」
胸を張る様に後ろ手に腕を組み、そう語る少年にリゼルも目元を緩め微笑んだ。
聞けば、あちらの一目惚れだと言うのだから家柄は向こうの方が良いのだろう。じゃなければ、話に聞く狸ジジィこと少年の父が許すとは思えない。
「えっと、それで、うちの評判なんてどうでもよくってぇ」
少年は精一杯リゼルを見上げ、そしてこてんと首を傾けた。
「お兄さん、連れて行くのヤダなんです」
困ったような視線を、リゼルは穏やかな瞳で真っすぐ見返した。
少年は目を逸らさない。もぞりと足元を動かしながらも、その口元には笑みを張り付けている。
流石は騎士候補、将来有望だ。なんて思いながら、リゼルは唇を開いた。
「家の評判が下がれば、学校に居づらくなりませんか?」
「噂はされると思うけど、大丈夫ですぅ」
「もしかして、取り潰しになってしまうかも」
「いざという時は、姉さんが後見人になってくれるって言ってましたぁ」
そこまで考えて気遣ってくれているのなら、同行も拒否しやすい。どうしようかとジル達を見れば、好きにしろと言わんばかりに投げやりに手を振られ、お好きなようにとわざとらしい笑みを向けられた。
少しは意見が欲しいところだが、貰った所で“面倒”しか出ない。拒否という訳ではなく、ただの感想だ。
「あ、でもぉ」
その時、ふと少年が恥ずかし気に付け加える。
「お兄さんを見たときの狸ジジィの顔は、ちょっと見てみたいかもぉ」
「それな」
イレヴンが同行派に傾いたので、行く事にした。
リゼル達を乗せた馬車が、中心街を進む。
賑やかな外縁部を通り過ぎ、奥まった通りへ。見事な屋敷が建ち並ぶ通りを馬を並足で走らせる。
そして目的地が見え、御者はその門の前へと馬車を止めた。馬を降りた彼がステップを下ろし、扉を開く。
現れたのは仕えるべき主人の息子である少年と、そして余りにも慣れたように降りる清廉な貴人の姿。そして続く絶対強者と毒々しい艶やかな赤に、知らず冷や汗が落ちた。
「お、美中年ちよりでけぇじゃん」
「どっちかと言うと、子爵の所が控えめなんですよ」
「へぇ。ニィサンとこは?」
「でかかったのは覚えてる。どんだけでかかったかは忘れた」
冒険者の筈だ。貴族に呼び出され、馴染みのない場所へ連れられ、そして今まさに何らかの重要な話が控えているだろう冒険者の筈だ。
しかし言葉を交わす姿に一切の気負いも、警戒も無い。あまりにも余裕のある自然体。その筆頭に、普段顔を合わせている少年が近付く。
「お兄さん、こっちですぅ」
「案内、よろしくお願いしますね」
「お任せくださぁい」
見慣れた姿が、見慣れない存在に見えた。
まだ十の少年は幼く可愛らしく、そして家族への嫌悪を度々口にしていた。だがそれでも子供らしくあった筈の彼に、まるで通っている学校を体現したかのように仕えるべき主に仕える姿が被る。
纏う空気が、あるいは少年の精神が、そう見せるのか。
「今日はクズっつぅ兄貴いねぇの?」
「たぶん、何処かに居ると思いますぅ」
広い玄関を通り過ぎ、絨毯に覆われた廊下を歩く四人に使用人の視線が集った。
擦れ違うごとに、その姿を見送るごとに誰もが目で追う。視線が離せないほどの圧倒的な存在感に、使用人らは客人の素性を割り出そうと必死になる。
「お母様は?」
「ええと、ヒステリックに喚いてるか、アイジンの所に行ってるかぁ」
「亡くなったお姉さんにそっくりなんですね」
「すぅごく」
真っすぐ伸びた廊下を通り抜け、一際大きい扉の前へ。
ノッカーの音と同時に扉を開き、姿を現した四人を出迎えたのは恰幅の良い男。そして針金のような女だった。
ソファに並んで座る二人が、息子である少年の連れて来た人物を見つけ愕然とした。
「この度は、お招き頂き有難うございます」
品の良い微笑みは、普段から上位の者に向けられているもののようで。
そう思ってしまったからには、一体どういう事だと少年へと叱咤の視線を向ける。しかし、その視線が受け止められる事は無かった。
「どうぞぉ」
平然と椅子を勧める少年に、三人は促されるままに腰を下ろす。
絶対強者の黒は、鋭い眼光のまま足を組み腕を組んだ。毒々しい赤は、嘲笑を浮かべ肘掛けへと頬杖をついた。そしてその真ん中に、清廉な男が静かに腰を下ろした。
黒に身を包む男が、隣に座った男へと何かを耳打つ。清廉な男はそれに微かに笑みを深め、小さく頷いた。
「それで」
その瞳が、此方を向いた。その一瞬が、当主である男には数秒にも思えた。
「御用件は、何でしょうか」
何処までも穏やかで、人の思考を惹き付ける声に男はハッとした。
隣に座る女も、開きかけた口を閉じる。娘の死にヒステリックに泣き喚き、そして訪れた冒険者にも喚き散らすはずだった口は、何も言葉を紡げなかった。
「お前は、一体、誰を……」
「お父様が言った通りの、冒険者ですよ?」
息子である少年が、にこりと笑う。
普段は愛らしく慕ってくる息子が、全くの別人に見えた。男は不思議と込み上げる恐怖に、微かに鼓動を上げる。
「お前は出ていなさい」
「ここに居たいですぅ」
「言う事を聞くんだ」
「お話、分かってますぅ。お父様の邪魔にならないようにするから、お願ぁい」
年の割に幼い見た目の少年を、父である男は甘やかしていた。
可愛らしくねだられれば何でも買ってやり、騎士になる為に邪魔な人間が居ると言われれば誰でも消してやろうと告げた。後者に関しては、今のところ願われた事は無いが。
「……なら、口を挟むんじゃないぞ」
「はぁい」
一瞬別人に見えた少年が、いつもの可愛い息子に戻ったように見えた。
それだけで男は安堵し、妻に乞われた事もあり部屋へと残る許可を出す。少年が冒険者らのソファの隣へと立ったのに違和感を抱いたが。
そして、目の前に座る冒険者らを見た。
「呼び出したのは、他でもない」
口を開く。空気が張り詰めているようで、声が出しづらかった。
「私の娘についてだ。何故もっと早く見つけられなかった」
「こちらの不手際と?」
「お前らが早く見つければ良かった話じゃないか?」
清廉な男は、ゆっくりと首を傾げ髪を耳にかけた。
ぞくりとするほど整った仕草に、思わず視線が捕らえられる。
「その点に関しては、申し開きも御座いません」
あっさりと、肯定が返された。清廉な男を挟んで座る二人が、すっと視線だけをそちらへ向ける。
「お悔やみ申し上げます。きっと犯人は、憲兵が総力を挙げて捜索してくれている事でしょう」
微笑みは何処までも品があり、そして眼差しは深く澄んだ水底のようだった。
そんな相手に、誰が言えるだろうか。お前らの所為で娘は死んだのだと。償いとして娘が娼婦の真似事をしていたなどと口外するなと。
お前らが娘を嬲り殺したことにしたいから、金を持って何処かへ消えろなどと。他者に罪を被せる事になれた男が、目の前の清廉な男に対してどうしても言葉が出て来ない。
渇いた喉をゴクリと唾を飲み込み潤すが、あまり効果は無かった。
「お、お前らに娘のことを他言されては困る……ッ」
無理矢理、それだけ絞り出した。
「成程。貴方の立場を考えれば、おっしゃる通りです」
微笑まれ、ようやく息がつけた心地がした。
冒険者如きに何が分かるとは、もはや浮かびもしなかった。それが異様な事だなどと、男は気付かない。
「貴方の望む通りに。今回の依頼に関して、一切他言しない事をお約束しましょう。勿論、今回のこのやり取りについても」
「あ、あぁ」
「ただ、すでに憲兵による聴取は済んでいます。その際に発見時の状況と、依頼の件を伝えている点だけはご了承下さい。ただ、依頼主については守秘義務により話していません」
男はただ頷いた。頷くしか出来なかった。
何ともなしに、あるいは何かを待つように隣を見たが、妻である女は泣きはらして赤くなった目でひたすら三人へと見入っていた。その理由が分からない筈もなく、しかし咎めるほどの情もない。
「幾ら欲しい。口止め料だ」
「いいえ、結構です」
ただ、ゆるりと細められた瞳に魅入る気持ちは男にも理解出来てしまった。
「言葉だけでは、信用して頂けませんか?」
その声に、否と言える人間がいるだろうか。
力なく首を振った男は、もはや言葉が出なかった。辛うじて当主の威厳を保とうと、退室の許可を出す。
少年が先導し、あっさりと退室していく後姿を見送ってからも、男は扉を呆然と眺めていた。隣に待機させた兵を差し向けるタイミングは、間違いなく今だ。
しかし、男はついぞその命令を口にする事が出来なかった。
「ふふっ、あははははっ、こほっ、ふっあはは!」
噎せるほど笑っている少年に、リゼルは苦笑して飲んでいたアイスティーを差し出す。
屋敷からギルドまで馬車で帰って来る間も、ジルが迷宮に潜って来ると去った時も、イレヴンが暫く面白そうに眺め何処かへ去って行った時も、少年はずっとくふくふと笑っていた。
期待するものが見れたのならば、何よりだ。イレヴンも満足そうだった。
「すみませぇん……っふふ」
「大丈夫ですか?」
「思い出す度に、笑っちゃいますぅ」
浮かんだ涙を手で拭い、少年は差し出されたストローをぱくりと咥えた。
いっそ苦しそうだったので、屋敷に帰る前に喉を潤せばと誘ったのだが、正解だっただろう。彼はすでに自分の分はすっかり飲み干している。
「ほら、そろそろ行かないと御者さんが心配しますよ」
「はぁい」
ギルドの近くの喫茶店、そのテラスから辛うじて見える場所に馬車がある。
馬の手入れをしながら、しかしチラチラと此方を窺う御者の姿も見えていた。彼からしてみれば、大事な子息が冒険者と二人きりなど気が気でないだろう。
少し話し込んでしまったようだと促せば、少年が名残惜し気にリゼルを見た。ストローを咥え、上目でこちらを窺う姿は変わらず愛らしい。
「また会えますかぁ?」
「縁があれば、是非」
立場上、どうしても顔を合わせることは難しい。
それでも出来る限りの肯定を返せば、少年はパッと顔を上げて幸せそうに頬を染めた。にんまりと少しだけ彼のイメージから離れる満面の笑みは、しかし良く似合っている。
「楽しみにしてまぁす」
椅子から降り、少年は言葉通り楽しそうに言って去って行く。
馬車へと辿り着くまで見送れば、乗る前に手を振られた。リゼルも微笑み手を振り返せば、機嫌の良さそうな足取りで馬車へと乗り込んでいく。
街中で見るには立派な馬車が、車体を揺らして動き出した。その姿が完全に消え、リゼルは少し本でも読んで帰ろうかとポーチから一冊の本を取り出して開く。
「こ、殺した方が良い、ですか……」
ふいに声がかかった。先程まで少年が座っていた席に、いつの間にか一人の男が腰かけていた。
世のすべての不幸を背負ったような悲痛な面持ちで俯き、頭のサイドの中程で結んだ癖のある髪が肩から滑る。
しかし、リゼルは反応しない。折角読書を始めたのだから。
「あ、あ、あの子供と、あっ、家ごととか、僕、な、何でも、します」
リゼルは反応しない。
「お、怒ってますか、やっぱり、で、で、でも、僕、知らなくて、あ、あは、わざとじゃないし」
リゼルは反応しない。
男がどんどんと俯いていく。その額は今にも机に触れそうだった。
「ど、どうして、何も言ってくれないの、な、何で、どうして、そんな、僕、こ、こんなに、頑張って」
リゼルは反応しない。
男が喘ぐように言葉を連ねる。
「ひ、酷い、どうして、酷い、ど、どうして、怒るの、ねぇ、あ、あは、は……」
リゼルは反応しない。
男は机の下で大ぶりなナイフを手に取り、ゆっくりと顔を上げて目の前の肢体を見据え。そして体中に力が籠る。
「僕のこと、そ、そんなに、きら……」
「君は」
零された声に、男の方がビクリと跳ねる。
握ったナイフを命綱のように強く握り締め、視線をうろうろと動かした。その目は一度もリゼルを映さない。
「君は、随分と自信家なんですね」
男は目を見開いた。
自分の何処を見て、何を聞いて、そんな事を思ったのか。そんな事を言ったのか。まるで理解が出来なかった。揶揄われているのか、遊ばれているのか、それとも嘘をついているのか、それはとても怖い事だ。
リゼルに言われれば、まるでそれが本当の事のようで。高貴で清廉な彼の告げた言葉は、白さえ黒に変えるようで。だから怖い。一番、怖い。そんなこと望まないのに。酷い。酷い。酷い。酷い酷い酷い酷い酷い酷。
「俺に嫌われる価値があると、そう思っているんでしょう?」
「……え?」
男は一瞬、何を言われたか分からなかった。
しかし直ぐに理解する。理解すると同時に、体中が熱を持った。ばちんと、両手で自らの頬を覆う。
「あ、ぁ……」
男の顔が真っ赤に染まっていく。それは間違いなく羞恥だった。
他の誰が言おうと、彼は酷いと泣き叫んだだろう。しかしリゼルは違う。
彼が誰かを嫌った所など、見た事が無い。嫌うほど、そんな相手に入れこまない。そんな彼に、自分だけが嫌われたなどと、自信家と言われて当然だった。酷く恥ずかしかった。
「あ、ご、ごめ、ごめんなさ……ッ」
「大丈夫ですよ。ちょっと勘違いしちゃったんですよね」
一瞬、本から上げた視線が仕方なさそうに微笑んだ。とても申し訳なくて、羞恥心が引かなくて、男は椅子の上で小さくなる。
顔を覆った手にも、机の下にも、ナイフは何処にも見えなくなっていた。
「……Don't call me “ Trash ”」
その矛盾を叶えてくれるのは一番怖い人だと、彼はとっくに気付いている。
「今日、久々にサイドテールの精鋭さんに会いましたよ」
「えー……」
「彼との会話は、一つ間違えると簡単に死んじゃうのでドキドキしますね」
「アイツ何言っても泣き喚くじゃん」
「何ていうか、自己愛の強い子ですよね。自分を守る為に自分で下げる、っていうのが極端で」
「まともに話そうと思う方が可笑しいんスよ」
「俺も今日、ちょっと流しちゃいました。イレヴンはどうしてるんですか?」
「グダグダ言い始めたら落としてる」
「成程」