作品タイトル不明
第九話 温室の帳簿と薬草畑
白楡館の西側には、壊れかけた温室があった。
最初に見つけたのはノエだった。庭の枯れ枝を片づけている途中、蔦に埋もれた硝子戸を開け、埃だらけの中から古い木札を拾ってきたのだ。
「リディア様、これ、字が書いてあります」
木札には、薄くなった墨で薬草の名が記されていた。
セージ。
カモミール。
柳皮。
そして、母の筆跡で「冬越し用」と添えられている。
私は木札をしばらく見つめた。
母の文字を見るのは久しぶりだった。公爵邸では、母のものは少しずつ片づけられ、残った手紙も父の書庫の奥にしまわれていた。ここでは、蔦の下にまだ母の手が残っている。
温室の中はひどい状態だった。
硝子は三枚割れ、棚は傾き、土は乾いて固くなっている。けれど奥の水瓶には雨水が残り、隅には強い香りのする葉が小さく芽を出していた。
「これは、レティシア様が大事にされていた場所です」
ガスパルが帽子を手に言った。
「奥様は、村の薬代を少しでも減らしたいとおっしゃって。病が重いときは医者が必要ですが、軽い咳や傷なら、ここで育てた草でしのげると」
「なぜ、続かなかったのですか」
「奥様が亡くなられてから、王都の代理人が無駄だと」
無駄。
王宮で何度も聞いた言葉だ。華やかな式典には金をかけるのに、見えないところで人を温めるものは無駄と呼ばれる。
私は温室の割れた硝子に触れた。
「直しましょう」
ガスパルが驚いた。
「屋根の修繕もまだ途中です」
「だから全部を今すぐではなく、半分だけ。苗床を作って、薬草を戻します。トマの咳止めに使ったものも、外から買い続けるより育てた方がいい」
ノエが目を輝かせた。
「僕、手伝えます。馬屋のあとで」
「昼食を食べてからね」
言うと、彼は少し気まずそうに笑った。自分の昼を忘れる癖は、名簿の効果で少しずつ周囲に知られ始めている。
◇
温室の古い棚を片づけていると、奥から革表紙の帳簿が出てきた。
土で汚れ、角はかじられている。けれど中の紙は読めた。
母の薬草帳だった。
種の購入先、発芽した日、乾燥させた量、村で配った相手、効いたかどうか。几帳面な記録の間に、ときどき短い感想が混じっている。
マルタの母、咳が軽くなる。
ガスパル、苦いと文句。
ノエの父、火傷に使用。よく効く。
私は思わず笑った。
母は、こんなふうにここで暮らしていたのだ。
公爵邸の母は、いつも少し寂しそうだった。父の隣で静かに微笑み、社交の場では控えめに振る舞い、私にだけミレイユの話をした。けれど、この帳簿の中の母は、土に触れ、人の名を書き、苦い薬に顔をしかめるガスパルを笑っている。
私は、母の全部を知らなかった。
「リディア様」
エリーズが帳簿を覗き込む。
「この形式、今の名簿と似ていますね」
「そうね」
偶然なのか、私が母に似たのか。
あるいは、王宮で教えられた管理の技術と、母がここでしていた暮らしの記録は、本当は遠いものではなかったのかもしれない。
前世の夢が、その夜また少し戻った。
硝子の塔の一室で、壁に大きな板があり、女たちが予定を書き込んでいる。誰かが遅れれば、別の誰かが手を上げる。疲れている人には椅子が差し出され、熱が出た人には帰るよう言われる。
夢の中の私は、紙の端にこう書いていた。
仕事は、人が壊れない形で組む。
目覚めたとき、私はその一文を母の薬草帳の余白に写した。
◇
温室を直す話は、思ったより早く広がった。
村の子どもたちは割れた硝子を珍しがり、女たちは乾燥棚を見に来て、ロワ先生は古い薬草帳を読んで鼻を鳴らした。
「レティシア様は、本当に細かい方だった」
「母をご存じだったのですね」
「もちろん。私はまだ若造で、よく叱られた。薬を出し過ぎるな、休ませることも治療だ、と」
ロワ先生は帳簿のページを撫でた。
「この谷は、あの方が亡くなってから少し寒くなった」
私は返事に困った。
母を失ったのは私だけではなかったのだと、遅れて知る。
午後、セドリック様が硝子職人を紹介してくれた。アシュフォード領の職人で、古い温室の修理に慣れているという。
「費用は高くなりますか」
「全部を王都の新しい硝子で替えれば高い。割れた部分だけを古い窓から移して直すなら、半分以下です」
職人がそう言うと、セドリック様が補足した。
「アシュフォードの倉庫に、古い屋敷から外した窓があります。使えるものを選んでください」
「いただくばかりでは」
「譲るのではなく、交換にしましょう」
「交換?」
「温室が動き出したら、咳止めの薬草をこちらにも分けてください。母が冬に咳き込むことが多いので」
私は頷いた。
「それなら、喜んで」
ただ助けられるのではなく、交換する。
その形は、私の背筋を少し伸ばした。
夕方、温室の前に小さな杭を立てた。ノエが書いた字は少し曲がっていたが、よく読める。
ミレイユ薬草畑。
その下に、私は母の名を小さく足した。
レティシアの庭から、もう一度。
翌朝、父から二通目の手紙が届いた。
封は前より厚く、筆圧も強い。
私はそれを机の端に置き、先に温室へ水を運んだ。