軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十話 暖炉の前の契約

父の二通目の手紙には、怒りが整えられて入っていた。

公爵家の名誉。

王家との約束。

フローラの将来。

私の軽率さ。

言葉は立派だったが、行間にあるのは一つだけだ。

戻れ。

私は手紙を読み終え、返事を書かずに箱へしまった。燃やすほど軽くはない。返すほど急ぐ必要もない。今の私には、温室の硝子と屋根の修繕とボルマン商会の照合がある。

父の怒りより、雨漏りの方が先だった。

その日の夕方、セドリック様が白楡館へ来た。

小食堂の暖炉には火が入り、机の上には地図、帳簿、契約書の下書きが広げられている。エリーズが蜂蜜を入れた温かい飲み物を出すと、彼はきちんと礼を言ってから席に着いた。

「薪と硝子と職人の件です」

「はい」

「アシュフォードから一方的に貸し付ける形にはしません。白楡館からは、薬草と針仕事の製品、それから春以降に泉の水利調査へ協力していただく。互いの利益を明記しましょう」

彼の言い方は淡々としているが、私への気遣いがあった。

助けるだけでは、私はきっと負い目を持つ。負い目は感謝と似ているが、長く続けば息苦しくなる。セドリック様はそれを避けようとしてくれている。

「ありがとうございます」

「礼はまだ早いです。条件をよく読んでください」

「もちろんです」

私は契約書を手に取った。

前世の夢が戻ってから、契約書を読むときの感覚が少し変わった。王宮で学んだ法文の知識だけでなく、硝子の塔で何度も書類を確認していた指の記憶がある。どこに曖昧な言葉が入りやすいか。誰が責任を負うのか。支払日が祝日に重なった場合どうするのか。

そういう細部が、自然と目に入った。

「この『必要に応じて』という文言を、もう少し絞りたいです」

私が言うと、セドリック様の眉が少し上がった。

「理由は」

「必要の判断者が書かれていません。双方の合意とするなら、そう書くべきです」

「確かに」

「それから、薬草の品質についても基準を置きましょう。乾燥日数と保管方法。アシュフォード側で使うなら、ロワ先生に確認を取ります」

セドリック様は、しばらく私を見ていた。

「何か」

「いえ。王宮の人々が、あなたを手放して困る理由が少し分かりました」

胸が小さく跳ねた。

褒め言葉のはずなのに、王宮を思い出すと痛みが混じる。

「私は、便利だったのでしょう」

「便利なだけの人に、これほど丁寧な確認はできません」

セドリック様は、まっすぐ言った。

「相手が後で困らないように読んでいる。そこが違う」

暖炉の火が、契約書の端を橙色に照らした。

私は返す言葉を探し、結局、紙へ視線を落とした。

今は契約書を読む方が簡単だった。

契約書の修正が終わるころ、外はすっかり暗くなっていた。

エリーズが軽い夕食を運んでくる。黒パン、豆のスープ、アニエスが差し入れてくれた干し果物。王宮の食卓とは比べものにならないほど質素だ。

けれど、私は久しぶりに食事の匂いをおいしいと思った。

「セドリック様も召し上がってください」

「よろしいのですか」

「契約相手を空腹のまま帰すと、こちらの評判に関わります」

彼は少し笑った。

「では、いただきます」

その笑みは、ほんの短いものだった。けれど、無口な人の笑みは、灯りの少ない廊下に置かれたランプのように目に残る。

食事の途中、セドリック様はアシュフォードの母君の話をした。

「母は、昔ミレイユへよく来ていたそうです。レティシア様と友人でした」

「母と」

「ええ。二人で薬草の乾燥に失敗して、屋敷中を苦い匂いにしたと聞きました」

私は思わず笑った。

母にも、そんな失敗があったのか。

公爵邸での母は、いつも静かで失敗などしない人に見えた。けれどミレイユの母は、薬草を焦がし、ガスパルを叱り、友人と笑っていた。

「母は、ここで幸せだったのでしょうか」

気づけば、そんなことを聞いていた。

セドリック様は少し考えた。

「私が聞いた話では、少なくともミレイユにいるときはよく笑っていたそうです」

「そうですか」

胸の奥が温かくなり、同時に寂しくなった。

母は公爵家へ嫁ぎ、私を産み、静かに消えていった。その前に、ここで笑っていた時間があった。それを知れただけでも、白楡館へ来た意味がある気がした。

契約書に署名する段になって、私は少し手を止めた。

リディア・ローウェン。

何度も書いてきた名だ。王宮の受領書、慈善事業の名簿、殿下宛ての招待状。けれど、そこにある私はいつも誰かの代理だった。

今日は違う。

ミレイユ領主として、アシュフォード伯爵と契約を結ぶ。

大げさなことではない。薪と硝子と薬草の小さな契約だ。王宮の条約と比べれば、紙一枚の重さもない。

それでも、私の指は少し震えた。

セドリック様は急かさなかった。

私は息を整え、自分の名を書いた。

リディア・ローウェン。

書き終えた瞬間、暖炉の薪が小さく爆ぜた。

「良い契約になりますように」

私が言うと、セドリック様も署名をしながら答えた。

「良い隣人関係にも」

その夜、父の手紙には返事を出さなかった。

代わりに、新しい契約書の写しを一枚、白楡館の台帳に綴じた。

私の名で始まった最初の仕事だった。