軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十一話 父の使者は雨に濡れて

春先の雨は、白楡館の弱いところを正直に教えてくれる。

東棟の屋根は応急処置で持ちこたえたが、古い回廊の石床には細い水の筋ができた。ノエが桶を置き、エリーズが濡れた布を替え、私は修繕一覧の優先順位をまた書き直した。

そんな雨の日に、父の使者はやって来た。

ローウェン公爵家の家令、ヴィクトルである。

黒い馬車は泥をはね、白楡館の門前で止まった。降りてきたヴィクトルは、いつもと同じ濃紺の上着を着ていたが、裾は濡れ、靴には泥がこびりついている。王都では一分の乱れもない人だったので、その姿を見るのは少し意外だった。

「リディア様」

彼は玄関広間で深く頭を下げた。

「旦那様より、帰還のご命令をお預かりしております」

「命令、ですか」

「はい。馬車を用意しております。必要な荷は後日送らせますので、本日中にお支度を」

玄関広間には、ガスパル、エリーズ、マルタがいた。雨音の中で、皆が黙っている。

私は濡れた外套を脱いでいない家令へ、まず椅子を勧めた。

「長旅でお疲れでしょう。火のそばへ」

「お気遣いは不要です」

「命令を伝えるにしても、濡れたままでは風邪をひきます」

ヴィクトルは一瞬だけ困った顔をし、結局小客間へ入った。

トマが以前寝ていた部屋だ。今は針仕事の女たちが使うため、机と椅子が増えている。壁際には乾燥中の薬草が吊るされ、窓辺には修繕前の温室から運んだ鉢が並んでいた。

王都の家令には、ひどく田舎じみて見えたかもしれない。

「旦那様は大変お怒りです」

椅子に座るなり、ヴィクトルは言った。

「リディア様がこのように長く家を空けるとは、ローウェン家の体面に関わります。フローラ様の教育も遅れ、王妃様からもお言葉をいただいております」

「フローラには手紙で助言を送りました」

「手紙では足りません。リディア様ご自身が戻られることを、皆様が望んでおります」

皆様。

便利な言葉だ。

「私が戻ることを、フローラ本人も望んでいるのですか」

「もちろんです。フローラ様はお優しい方ですから、直接そのようには」

「望んでいるのではなく、困っているのでしょう」

ヴィクトルは口をつぐんだ。

困っている人を助けたい気持ちはある。フローラを泣かせたいわけではない。だが、困っている人がいるたびに私が自分の場所を捨てるなら、私はいつまでも私の人生に戻れない。

「私は帰りません」

「リディア様」

「ミレイユ領の管理が始まったばかりです。未払いの給金、修繕、商会との照合、薬草畑の再開。今ここを離れることはできません」

「それらは管理人に任せればよいのです」

「前に任せた結果が、今の白楡館です」

ヴィクトルの眉が動いた。

彼は有能な家令だ。だからこそ、今の言葉がただの反抗ではなく、事実であることが分かったのだろう。

話し合いは長引いた。

ヴィクトルは、父の怒り、王宮の不便、妹の不安、私の評判を順に並べた。どれも嘘ではない。けれど、私が戻る理由としてはもう足りなかった。

「旦那様は、ミレイユの管理権を公爵家へ戻すことも検討されています」

「母の遺言に反します」

「法的には争う余地が」

「でしたら、争いましょう」

自分で言って、心臓が大きく鳴った。

ヴィクトルも驚いた顔をした。

「本気でございますか」

「はい」

怖くないわけではない。父と法的に争うなど、一か月前の私なら考えもしなかった。けれど、机の上には名簿がある。針仕事の契約がある。温室の修繕計画がある。白楡館は、もう私だけの逃げ場所ではなくなっていた。

ここを守る理由が増えている。

「ヴィクトル」

「はい」

「あなたは昔、私に帳簿の付け方を教えてくれましたね」

彼は目を伏せた。

「覚えております。リディア様は、十歳にしては随分と覚えが早かった」

「そのとき、あなたは言いました。署名した紙は、誰かの気分より強いと」

「……申しました」

「なら、母の遺言も、私の署名も、父の怒りより強いはずです」

ヴィクトルは深く息を吐いた。

彼は父の家令であり、私の味方ではない。だが、完全な敵でもなかった。公爵家という大きな箱の中で、彼もまた役目を果たしている人だ。

「旦那様へ、どのようにお伝えすれば」

「リディアは帰らない、と。その代わり、フローラの教育については、必要な範囲で資料を送る。王宮が正式に助言を求めるなら、書面で応じます。私を影として呼び戻すことには応じません」

ヴィクトルは立ち上がり、深く頭を下げた。

「承知いたしました」

雨は夕方まで降り続いた。

ヴィクトルが帰る前、マルタは彼に温かいスープを持たせた。家令は戸惑っていたが、断らなかった。

「白楡館の台所は、昔より良い匂いがします」

玄関で、彼がぽつりと言った。

「来たことがあるの?」

「奥様がご存命のころ、一度だけ。リディア様はまだ小さく、庭で転んで泣いておられました」

私は覚えていなかった。

「母は、笑っていましたか」

「はい」

ヴィクトルは雨の向こうの庭を見た。

「ここでは、よく笑っておられました」

その言葉を残して、彼は馬車へ戻った。

見送る私の隣に、セドリック様がいつの間にか立っていた。雨具を着ている。橋の様子を見に来た帰りだという。

「大丈夫ですか」

「分かりません」

私は正直に答えた。

「父と争うかもしれません」

「その場合、証人と書面が要ります」

「はい」

「それから、温かい夕食も」

私は少し笑った。

「セドリック様は、何かあるたびに食事の話をなさいますね」

「人は食べないと戦えません」

雨の中で、彼は真面目に言った。

私は頷いた。

父の使者は帰った。けれど、これで終わりではない。むしろ本当の対立はこれから始まる。

それでも小客間には火があり、台所にはスープがある。

私は濡れた外套を脱ぎ、白楡館の中へ戻った。