作品タイトル不明
第十二話 私の領主名で
ヴィクトルが帰った翌日、私は白楡館の書斎で母の遺言を読み直した。
古い羊皮紙は少し波打ち、封蝋の端は欠けている。それでも文字ははっきりしていた。ミレイユ領は、レティシア・ローウェンの死後、娘リディアが成人した時点で管理権を得る。公爵家は後見として補助できるが、領地の売却、譲渡、管理権変更にはリディア本人の署名を要する。
本人の署名。
その一文が、今の私を支えている。
ガスパル、エリーズ、ロワ先生、針仕事の代表になったメイ、そして隣領から来てくれたセドリック様を証人として、私はミレイユ領の現状確認書を作ることにした。
「私が領主であることを、村の中でも明確にします」
書斎に集まった皆へそう告げると、ガスパルは緊張した顔で頷いた。
「前の代理人の名で止まっている契約が多いです。リディア様のお名前で作り直すなら、相手方にも通知が必要です」
「ええ。まずは三つ。白楡館の雇用契約、針仕事の共同契約、アシュフォードとの交換契約。次にボルマン商会との照合通知です」
メイが手を上げた。
「私、字は書けますけど、契約書はまだ」
「一緒に作りましょう。すべて理解してから署名してください」
「私が署名するんですか」
「代表でしょう」
メイの顔が赤くなった。
サラがいれば背を叩いただろうが、今日は村で洗濯の仕事がある。メイは自分の手を膝の上で握りしめ、やがて小さく頷いた。
「やってみます」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。
誰かが初めて自分の名を紙に置く瞬間は、静かでも力がある。
◇
雇用契約を作る作業は、思ったより時間がかかった。
給金、休日、病気のときの扱い、住み込みと日雇いの違い、食事の有無。王宮の使用人規則をそのまま持ち込むことはできない。白楡館には白楡館の暮らしがある。
「病で休んだ場合、三日までは給金を半分出します」
私が言うと、ガスパルが驚いた。
「休んだ者に給金を?」
「病を隠して働かれる方が困ります。台所で熱を出されれば、もっと広がる」
ロワ先生が大きく頷いた。
「それはいい。病人を休ませる理由になります」
「ただし、悪用を防ぐため、ロワ先生か私の確認を必要とします」
「私の仕事が増えるな」
「薬草畑の乾燥棚を優先的に使えるようにします」
「乗った」
ロワ先生の返事に、メイが笑った。
契約書は、ただ厳しいものではなく、暮らしの形を決めるものなのだと改めて思う。王宮で学んだ契約は、誰かを縛るためのものが多かった。ここでは、先に約束しておくことで、人が無理をしすぎないようにしたい。
硝子の塔の夢で見た言葉が、また頭をよぎる。
仕事は、人が壊れない形で組む。
私はそのままを書くことはしなかった。代わりに、白楡館の規則の最初にこう記した。
働く者の体と名を軽んじないこと。
少し大げさかもしれない。けれど、最初の規則は大げさなくらいでいいと思った。
◇
午後、ボルマン商会へ送る照合通知を書いた。
納品書の写し、実際の在庫、村人の証言、前の代理人が残した領収書。資料を並べると、不自然な点ははっきりしていた。
薪は記録上、白楡館の薪小屋に入りきらない量が納品されたことになっている。
塩は相場の三倍。
布は受け取った者が誰もいない。
そして、支払いの一部は前代理人個人の印で処理されていた。
「これは横領ですか」
メイが小声で聞いた。
「可能性は高いです。ただ、断定はしません。まず事実を照合します」
「断定しない方がいいんですか」
「証拠が揃う前に強い言葉を使うと、相手は言葉の方を攻撃します。事実だけを積む方が、逃げ道が少ない」
メイは真剣に頷いた。
彼女の目を見ると、王妃教育の最初のころの自分を思い出した。私はもっと怯えていた気がする。間違えれば父の顔色が変わり、王妃様の眉が動いた。学ぶことは、いつも失敗しないためのものだった。
メイには、できれば違う形で覚えてほしい。
「分からないところは、分からないと言っていいのよ」
「はい」
「私もまだ、分からないことが多いから」
そう言うと、彼女は少し安心したように笑った。
◇
夕方、村の小さな集会所で、白楡館の新しい契約について説明した。
人々は半信半疑だった。
当然だろう。領主が替わるたび、良いことを言う者はいる。けれど、次の冬に約束が残っているとは限らない。だから私は、できるだけ華やかな言葉を避けた。
「すぐ豊かになるとは約束できません」
私は集まった人々の前で言った。
「白楡館の金庫は軽く、屋根は漏り、畑の手入れも遅れています。ですが、働いた分を記録し、支払いを曖昧にせず、病を隠して働かなくてよい仕組みを作ります。まず、そこから始めます」
派手な拍手はなかった。
けれど、アニエスがゆっくり手を叩いた。次にロワ先生、マルタ、ノエ。広場の音は小さかったが、雨上がりの地面に染みるように広がった。
私は壇上の机で、最初の雇用契約に署名した。
リディア・ローウェン、ミレイユ領主。
その肩書きを書いたとき、胸の奥で何かが静かに定まった。
公爵家の長女ではなく、王太子の元婚約者でもなく。
今は、この谷の責任者として。
帰り道、セドリック様が隣を歩いた。
「良い説明でした」
「拍手は少なかったです」
「多すぎる拍手は、翌日には忘れられます。今日の人々は、聞いていました」
私は夜の村を見た。
窓の灯りが一つずつ点いている。どの灯りにも、名簿に書いた誰かの暮らしがある。
「怖いです」
ふと、口からこぼれた。
「自分の名で決めるのは、怖い」
「怖いなら、丁寧に決めればいい」
セドリック様は言った。
「怖くない者より、その方がましです」
その言葉に、私は頷いた。
白楡館へ戻ると、父から三通目の手紙が届いていた。
今度は封を切らず、台帳の横に置いた。
私の名で書くべき紙は、まだ山ほどあった。