軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十三話 フローラの初仕事

慈善音楽会の日、フローラは朝食を半分しか食べられなかった。

王宮の白い小皿には、蜂蜜を塗ったパン、柔らかい卵、薄く切った果物が並んでいる。どれも見た目は美しい。けれど喉が狭くなったようで、飲み込むたびに胸がつかえた。

「緊張しているのですか」

ミリアが向かいの席で微笑んだ。

彼女は今日も愛らしかった。薄桃色のドレス、白い手袋、柔らかな声。王太子ユリウスの隣にいると、花瓶の花まで彼女のために咲いているように見える。

「少しだけ」

フローラはそう答えた。

少しだけ、ではない。本当は逃げ出したいほど怖い。

姉から届いた手紙は、昨夜から何度も読み返した。挨拶は長くしないこと。最初に感謝、次に目的、最後に寄付が誰へ届くか。怖くなったら、会場の一番後ろの侍女へ話すつもりで。

その通りにすれば大丈夫。

そう信じたいのに、王妃の前に立つと頭の中が白くなる。

「リディア様なら、きっと完璧になさるのでしょうね」

ミリアが何気なく言った。

悪意があったのかは分からない。けれど、フローラの手からフォークが滑り、皿に小さな音を立てた。

「お姉様は、お姉様です」

思ったより硬い声が出た。

ミリアは少し目を丸くし、それから悲しそうに微笑んだ。

「ごめんなさい。比べるつもりはなかったのです」

その謝り方に、フローラはまた苦しくなった。

ミリアは優しい。少なくとも、優しい言葉をよく知っている。けれど、その優しさの後に具体的な手助けが来ることは少なかった。

姉の手紙には、助けてくれる人は立場ではなく行動で選びなさい、とあった。

フローラはその一文を、今朝も胸の中で繰り返していた。

音楽会の会場は、王宮西棟の小ホールだった。

白い柱、金の装飾、磨き上げられた床。客席には貴族夫人たちが並び、その扇の向こうから好奇心がこちらを見ている。

元婚約者の妹。

次の王太子妃候補。

リディアの代わり。

誰も口にはしない。けれど、フローラにはその言葉が空気に書かれているように感じた。

ユリウスは励ますように微笑んだ。

「君ならできる」

「はい」

その言葉はありがたいはずなのに、少し軽かった。

できる根拠を、彼は知らない。何を準備し、どこでつまずき、どう直すのかを知らずに「できる」と言う。それは、フローラ自身も昨日までしていたことだった。

お姉様ならできる。

お姉様がいれば大丈夫。

その言葉がどれほど姉を追い詰めていたのか、フローラは今になって少しずつ分かり始めていた。

名前を呼ばれ、フローラは壇上へ進んだ。

紙を開く手が震える。

王妃がこちらを見ている。

ユリウスがいる。

ミリアもいる。

扇の向こうで、誰かが小さく囁いた。

フローラは息を吸いかけ、喉が詰まった。

そのとき、会場の一番後ろにいる侍女と目が合った。若い侍女だ。銀の盆を胸に抱え、心配そうにこちらを見ている。

あの人へ話せばいい。

フローラは、姉の手紙を思い出した。

「本日は、ミレイユ救貧院の冬越し基金のためにお集まりいただき、ありがとうございます」

声は少し震えた。けれど、出た。

「音楽は、寒い部屋を直接暖めることはできません。けれど、人の心を動かし、その手を開かせることはできます。本日の寄付は、薪、薬、子どもたちの寝具として届けられます」

原稿は短い。

リディアの手紙に従って、余計な美辞麗句は削った。

「どうか最後まで、お楽しみください」

礼をする。

一拍置いて、拍手が起こった。

大きな成功ではない。完璧でもない。王妃の顔を見れば、改善点はいくらでもあるのだろう。

けれど、フローラは倒れなかった。

音楽会の後、王妃はフローラを小さな控室へ呼んだ。

「よく持ちこたえました」

それは褒め言葉だったのだろうか。

フローラは深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

「挨拶は短く、目的も明確でした。誰に助言を受けましたか」

フローラは少し迷った。

嘘をつくこともできた。自分で考えたと言えば、評価は上がるかもしれない。けれど、それはすぐ見抜かれる。

「姉から、手紙で」

王妃の表情が少しだけ変わった。

「そうですか」

「姉は、会場へは来ませんでした。私が立つ場所に影を落とせないからと」

言ってから、胸が痛んだ。

私は姉に来てほしかった。

でも、来ないと言われて少しだけほっともした。姉がいれば、きっと全員が姉を見た。私自身も、姉の後ろに隠れた。

「フローラさん」

「はい」

「あなたは、リディアさんとは違います」

「……はい」

「違うまま、必要なものを身につけなさい。リディアさんの代わりを目指しても、あなたが壊れます」

意外な言葉だった。

王妃はいつも、正しさを求める人だと思っていた。けれどその目の奥に、少し疲れが見える。

「王妃様は、姉に戻ってほしいですか」

聞いてはいけないことだと分かっていた。それでも、口から出た。

王妃はすぐには答えなかった。

「戻ってほしい場面はあります」

「場面、ですか」

「ええ。ですが、人は便利な場面のためだけに呼び戻せるものではありません」

フローラは、深く頭を下げた。

その夜、フローラは姉へ手紙を書いた。

お姉様。

音楽会の挨拶は、倒れずに終わりました。教えてくださった通り、後ろの侍女の方を見て話しました。拍手はいただけましたが、まだ何も分かっていないことも分かりました。

私は、お姉様に戻ってきてほしいと思っていました。今も、少し思っています。でも、それは私が楽になりたいからです。

だから、今日は戻ってきてくださいとは書きません。

その代わり、また分からないことを聞いてもいいですか。お姉様の代わりではなく、私が私として立つために。

最後に、フローラは少し迷ってから一文を足した。

お姉様が朝食を食べているか、心配です。

書き終えると、涙が一粒だけ落ちた。

それは悲しみだけの涙ではなかった。

姉が遠くに行ったことを、初めて少しだけ受け入れる涙だった。