作品タイトル不明
第十四話 古い橋を渡す
ミレイユの谷には、古い石橋がある。
白楡館から村へ向かう道の途中、小さな川をまたぐ橋だ。幅は馬車一台が通れるほどで、欄干には苔がつき、中央の石が少し沈んでいる。
「春の増水が来る前に、ここを見ておきたい」
セドリック様がそう言ったのは、私たちがボルマン商会との照合準備に追われている最中だった。
私は帳簿から顔を上げた。
「橋ですか」
「ええ。昨年、上流の森が手入れ不足で、流木が増えています。橋の下に詰まれば、水が村側へ回る」
ガスパルの顔が険しくなった。
「昔、一度ありました。畑の端が流されて」
「記録はありますか」
「探します」
王宮なら、橋は土木官の担当であり、令嬢が泥の中へ見に行くものではない。だが、ここで私が座ったまま報告だけを待っていても、川は止まらない。
「行きます」
エリーズがすぐに厚手の外套と歩きやすい靴を用意した。
「お嬢様、足元にお気をつけください。王都の散歩道とは違います」
「分かっているわ」
そう答えたが、実際に川辺へ下りてすぐ、自分の認識が甘かったと分かった。
土はぬかるみ、枯れ草は滑り、冷たい風が耳を刺す。セドリック様は慣れた足取りで歩き、ノエは長い棒で地面を確かめながら進んだ。私は二度ほど足を取られ、そのたびにエリーズに支えられた。
「申し訳ありません」
「謝ることではありません。慣れていない道を歩いているだけです」
セドリック様はそう言った。
慣れていない。
その言葉は、できない、よりずっと優しかった。
◇
橋の下は、想像以上に狭かった。
冬の間に流れてきた枝が石脚に絡まり、泥が溜まり、水の流れを細くしている。今はまだ穏やかな川だが、雪解けが進めば一気に水量が増えるだろう。
「これは危ない」
私は思わず言った。
セドリック様が頷く。
「早ければ十日以内に作業が必要です」
「費用は」
「人手が主です。枝を取り除き、上流の倒木を処理する。石工は点検に一人で足ります」
「村から人を出す場合、日当を白楡館で払います」
ガスパルが横で小さく息を呑んだ。
「昔は、こういう作業は賦役として無償で」
「無償で働かせれば、その日の畑仕事や食事が減ります。橋は全員のためのものですから、全員で負担する形にしましょう。白楡館も出しますし、アシュフォードにも関わるなら、契約に基づいて分担できますか」
私はセドリック様を見た。
「できます」
彼は即答した。
「境界に関わる橋です。アシュフォードからも人と道具を出しましょう」
ガスパルは驚いたように二人を見比べた。
古い慣習は、時に人を無言で働かせる。けれど、誰かの負担が見えないままだと、橋が残っても暮らしが痩せる。
私は冷たい川を見下ろした。
石橋を守ることと、人の今日の食事を守ることは、別の話ではない。
◇
作業日は、三日後に決まった。
村の男たち、アシュフォードの人足、ノエ、ガスパル、そして針仕事の女たちも昼食の準備で参加した。マルタは大鍋を二つ用意し、メイは作業に出た人の名と時間を記録する。
私は書き役として広場にいた。
泥の中へ入ることはできない。足手まといになるだけだ。けれど、誰が何時間働き、どこで怪我をし、どの道具が壊れたかを記録することも必要だった。
昼前、ノエが手に小さな切り傷を作った。
「大丈夫です、これくらい」
「大丈夫かどうかは、洗ってから決めます」
私は彼を座らせ、ロワ先生に見せた。ノエは少し不満そうだったが、手当ての後、パンを食べると機嫌が戻った。
セドリック様は川の中で作業していた。外套を脱ぎ、袖をまくり、流木を引き寄せる姿は、王宮で見る貴族とはまるで違う。伯爵だからといって岸で指示だけを出すわけではない。
彼の働き方を見て、村の男たちの表情も少し変わった。
昼食のとき、アニエスの夫が私のところへ来た。
「この前は、失礼なことを言いました」
「針仕事の支払いの件ですか」
「はい。今日、女房が作った手袋がなかったら、手が割れてました。働いた分は本人のものだと、少し分かりました」
不器用な謝罪だった。
私は頷いた。
「分かっていただけたなら、十分です」
彼は照れくさそうに頭を下げ、また作業へ戻った。
◇
夕方、橋の下から大きな流木が取り除かれた。
水の音が変わる。
詰まっていた息を吐くように、川がまっすぐ流れ始めた。村の子どもたちが歓声を上げ、マルタが大鍋を叩いて作業の終わりを知らせる。
私は橋の上に立ち、水面を見下ろした。
古い石橋は、まだ完全ではない。春には石工の修理が必要だ。それでも、今日の仕事で次の雨を越える力は戻った。
「お疲れさまでした」
セドリック様が隣に来た。袖は濡れ、髪にも泥がついている。
「それはこちらの言葉です」
「私は慣れています」
「慣れていても疲れるでしょう」
そう言うと、彼は少しだけ笑った。
「では、疲れました」
「正直でよろしい」
私がそう返すと、彼は目を細めた。
川の向こうに、夕日が落ちかけている。石橋の上を、村の人々が一人ずつ渡っていく。今日働いた人、昼食を作った人、怪我をしたノエ、記録を抱えたメイ。
橋は、人が渡るためにある。
当たり前のことを、私は初めて本当に見た気がした。
その夜、作業日当の支払い一覧を作りながら、私は父の三通目の手紙を開いた。
そこには、今度こそ強い言葉で書かれていた。
王妃様が、リディアの出仕を望んでおられる。
正式な召喚状が届く前に戻れ。
私は窓の外の石橋を思い、ゆっくりと手紙を畳んだ。
戻るにしても、もう以前のようには戻らない。