作品タイトル不明
第八話 王宮に残った空席
王宮の朝は、リディアがいなくなっても同じ時刻に始まった。
鐘が鳴り、侍女たちは廊下を磨き、厨房では銀器が並べられる。王妃エレオノーラは、いつも通り七時半に朝の紅茶を受け取った。
ただ、王妃の卓上に置かれているはずの青い予定表がなかった。
「今日の謁見順は」
王妃が尋ねると、侍女長がわずかに動きを止めた。
「書記官が確認中でございます」
「確認中?」
「はい。昨夜、東方使節団の随行人数に変更があり、席次を組み直す必要が出たとのことで」
王妃はカップを置いた。
以前なら、こういう朝にはリディアの写しが届いていた。変更前、変更後、影響する夫人の名、機嫌を損ねる可能性のある家、代替案。余白には小さな字で、会話の糸口まで書かれていた。
几帳面すぎると思ったこともある。
だが、なくなってみると、その几帳面さが宮中のきしみを吸っていたのだと分かる。
「フローラさんは」
「礼法教師と朝の復習を」
「呼びなさい」
ほどなくして、フローラ・ローウェンが茶室へ入ってきた。
白いドレスはよく似合っている。髪も美しく結われ、歩き方も乱れていない。けれど、目の下には薄い影があった。
「王妃様、お呼びでしょうか」
「今日の東方使節団の席次を見ます。あなたも同席なさい」
「はい」
フローラは微笑もうとした。だが、書記官が持ってきた紙の束を見た瞬間、指先が強張った。
彼女は美しい。
人の心を明るくする笑みも持っている。
しかし、席次表の上で家名と利害が絡み合う様子を読み解く訓練は、まだほとんど受けていない。リディアが十年かけて覚えたことを、数日で身につけられるはずもなかった。
「フローラさん。この場合、エラン侯爵夫人をどこへ置くべきだと思いますか」
フローラは紙を見つめた。
「ええと……侯爵夫人ですから、上座に」
「東方使節の第二夫人より?」
「それは、その」
「エラン侯爵家は昨年、東方の絹の関税で対立しています。隣に置けば、挨拶だけで火花が散るでしょう」
フローラの頬が赤くなった。
「申し訳ございません」
王妃は、責めるつもりで言ったわけではなかった。だが、少女の肩が小さく縮むのを見て、言葉を止める。
リディアは謝る前に代替案を出した。
それは彼女が強かったからではなく、何度も間違えて叩き込まれたからだ。
王妃は、自分の手元の白薔薇を見た。
努力は認めています。けれど、それだけ。
あの日、自分が言った言葉を思い出す。
言い過ぎだったとは思わない。王太子の伴侶には、相性も必要だ。ユリウスがリディアの隣で息を詰めていたのも事実だった。
だが、息が詰まるほど正しい女に、王宮がどれだけ息を頼っていたかを、王妃は少し遅れて理解し始めていた。
◇
昼過ぎ、王太子ユリウスは庭園でミリアと会っていた。
ミリアは淡い桃色のドレスを着て、春の花壇の前で笑っている。彼女の笑顔は、ユリウスの胸を軽くした。
「殿下、お疲れですか」
「少しな。朝から母上が機嫌を悪くしている」
「フローラ様のことですか」
「彼女に罪はない。だが、リディアほど手際がよくない」
口にしてから、ユリウスは自分がまたリディアと比べたことに気づいた。
ミリアの笑みが、ほんの少し薄くなる。
「リディア様は、何でもおできになる方でしたものね」
「できるだけだ。そばにいると、こちらまで採点されている気分になる」
「私は、殿下にそんな思いをしてほしくありません」
ミリアはそっとユリウスの袖に触れた。
その仕草はやわらかい。リディアは人前で決してそんなことをしなかった。常に一歩引き、正しい距離を保った。ユリウスはそれを冷たさだと思っていた。
今もそう思っている。
けれど、午前の謁見で東方使節の名を二度間違えたとき、隣にいたフローラはただ青ざめた。ミリアは笑って励ましてくれたが、正しい名を耳打ちする者はいなかった。
リディアなら、袖口を直すふりをして小さく教えただろう。
そう考えてしまい、ユリウスは苛立った。
「リディアはすぐ戻るだろう」
「戻られるのですか」
「ローウェン公爵が呼び戻す。あの家の娘だ。責務から逃げ続けることはできない」
ミリアは目を伏せた。
「戻られたら、フローラ様は安心ですね」
その言葉に、ユリウスは返事をしなかった。
安心するのは、フローラだけだろうか。
◇
同じころ、ローウェン公爵邸では、エドガー公爵が苛立ちながら書斎を歩き回っていた。
「返事がこれだけだと?」
机の上には、リディアからの返書が置かれている。
ミレイユ領主として、当面帰還いたしません。
たったそれだけの文が、妙に重かった。
エドガーは、娘が泣いて謝ると思っていた。あるいは、数日古い屋敷で苦労すれば、家のありがたみを思い知って戻るだろうと。
だが、リディアは戻らなかった。
アルベルトが静かに言う。
「父上。リディアは、もう子どもではありません」
「分かっている」
「本当に?」
エドガーは息子を睨んだ。
「何が言いたい」
「リディアが家のために働くことを、我々は当然だと思いすぎていました。戻すにしても、命令では難しいでしょう」
「家のために働くのは、貴族の娘の務めだ」
「その務めに対して、我々は何を返しましたか」
書斎の空気が固まった。
アルベルト自身も、言ってから少し驚いたようだった。今まで父へ正面から反論することは少なかった。
エドガーは答えず、リディアの返書を握りしめた。
「次の使者を出す」
「誰を」
「家令を。必要なら、ミレイユの管理権を見直す」
「母上の遺言に反します」
「黙れ」
エドガーの声は低かった。
だが、その低さの奥には焦りがあった。
王宮からは、フローラの教育が遅れていると遠回しに告げられている。王太子はリディアの不在を気にし始め、王妃は予定表一つで不機嫌になった。
リディアは戻る。
戻らなければならない。
そうでなければ、公爵家が長年積み上げてきたものの形が変わってしまう。
エドガーは、まだそれを認める気がなかった。