作品タイトル不明
第七話 谷の市と働く女たち
ミレイユの谷では、十日に一度、小さな市が立つ。
市といっても、王都の広場に並ぶ華やかな露店とは違う。村の中央にある石畳の広場へ、近隣の農家が卵や乾いた豆を持ち寄り、針仕事の女たちが繕った布を広げ、アシュフォードからは塩と鉄の細工物が届く。冬の終わりの市は品物が少なく、人の声も控えめだった。
それでも、白楡館へ来てから初めて見る外の人だかりに、私は少し緊張していた。
「お嬢様、こちらです」
メイが手を振った。
彼女たちの台は、広場の東側に置かれていた。白楡館の古い亜麻布を洗い直し、刺し子を入れた布巾、子ども用の寝間着、端切れを合わせた膝掛け。どれも高価ではない。けれど針目は細かく、色合わせも温かい。
「思っていたより、ずっと良い仕上がりね」
私が言うと、サラが照れたように笑った。
「アニエスさんが、昔の縫い方を知っていて。メイが名前札を書きました」
品物の端には、小さな紙札がついていた。
作った人の名。
値段。
洗い方。
ただそれだけのことなのに、王都の高級店で見る札より、ずっと誠実に見えた。
最初に膝掛けを買ったのは、村医者のロワ先生だった。彼は品物を広げ、縫い目を確かめ、うんうんと頷く。
「年寄りの膝には、このくらいの厚みがありがたい。アニエス、これは良い仕事だ」
アニエスは、硬貨を受け取る手を少し震わせた。
働いたものが、その場で誰かに必要とされ、名を呼ばれる。小さな市の中で起きたことは、紙の上で想像していたよりずっと大きかった。
私は端の方で見守りながら、台帳へ印を入れた。
売上を記録するためではある。けれど、それ以上に忘れないためだった。誰が、何を作り、誰に届いたのか。そこを見失えば、また人は総額に溶ける。
◇
昼前、広場の入口に立派な馬車が止まった。
場の空気が変わる。
馬車から降りたのは、腹の突き出た中年の商人だった。毛皮の縁取りがついた外套に、重そうな指輪。ガスパルが私のそばへ寄り、小声で言う。
「ボルマン商会の支配人です。前の代理人と取引をしていました」
ボルマン。
ここ数日の帳簿に、何度も出てきた名だ。薪、塩、布、修繕材。どれも相場より高く、支払い条件は白楡館に不利だった。
支配人は、広場を見回し、針仕事の台の前で足を止めた。
「これはこれは。白楡館が商売をお始めになったのですかな」
「必要な仕事を、村の方々と分けているだけです」
私が答えると、支配人は少し驚いたように私を見た。
「これは失礼。リディア様でいらっしゃいましたか。王都から急にお越しになったと聞いております。お若いお嬢様がこの寒い谷で領地仕事とは、さぞご不自由でしょう」
「今のところ、不自由の原因は屋根と帳簿です」
周囲で誰かが小さく咳払いをした。笑いをこらえたのかもしれない。
支配人の目が細くなった。
「帳簿をご覧になったなら、ご存じでしょう。白楡館には当商会への未払いがございます。前の代理人様と取り決めた返済日が近い」
「確認しています。ただ、請求書の品目と実際の納品に差があります。来週、書面を照合しましょう」
「照合など必要ありません。契約は契約です」
「契約は、内容が正しく履行されて初めて意味を持ちます」
王宮の茶室で婚約を解消されたときより、私は落ち着いていた。
相手が私を軽く見ていることは分かる。公爵家から逃げた令嬢。古い屋敷で右往左往している小娘。そう思われているのだろう。
だからこそ、曖昧に笑ってはいけない。
「白楡館としては、不足分を差し引いたうえで、正当な債務を支払います。今後の取引条件も見直します」
「お父上は、この件をご存じで?」
父の名を出されると、広場の人々が息を潜めた。
私は支配人を見た。
「ミレイユ領の契約権者は私です。父の許可は必要ありません」
言葉にして、足元が少し固くなった気がした。
支配人は、笑みを残したまま頭を下げた。
「では、来週伺いましょう。若い領主様がどのように帳簿をお読みになるか、楽しみにしております」
彼が去ると、広場のざわめきが戻った。
メイが心配そうに私を見る。
「リディア様、大丈夫ですか。ボルマン商会は、強いです」
「大丈夫かは、まだ分からないわ」
私は正直に言った。
「でも、分からないからこそ、記録を取ります」
◇
市の終わりに、セドリック様が鉄の釘と塩を買いに来た。
支配人の話を聞いていたのだろう。彼は人の少ない場所まで来ると、低い声で言った。
「ボルマン商会は、王都にも顔が利きます。あまり早く正面からぶつかると、面倒になる」
「引いた方がよかったでしょうか」
「いいえ。ただ、支えを増やした方がいい」
「支え」
「証人、写し、他の仕入れ先、村の合意。正しいことでも、一人で持つと折れます」
その言葉に、私は広場を見た。
針仕事の台を片づける女たち。硬貨を数えるメイ。買った膝掛けを大事そうに抱えるロワ先生。人は一人ずつ名を持っているが、一人だけでは商会に対抗できない。
硝子の塔の夢で、女たちはそれぞれ机を持っていた。けれど、机は同じ部屋にあった。
「では、支えを増やします」
私が言うと、セドリック様は頷いた。
「必要なら、アシュフォードの古い仕入れ先を紹介します」
「ありがとうございます」
「礼は、帳簿が片づいてからで」
そう言って、彼はアニエスの膝掛けを一枚買った。
母上への土産です、と静かに言う横顔を見て、私は少しだけ彼の家を想像した。
その日の市の売上は、大きなものではなかった。
それでも、白楡館へ戻る道で、メイは台帳を胸に抱えて何度も笑った。
ボルマン商会の影は重い。父の手紙も、王宮の噂もまだ遠ざかってはいない。
けれど、谷の市で売れた最初の膝掛けは、確かに誰かの膝を温める。
それは、今の私にとって十分な始まりだった。