作品タイトル不明
第五話 まず名前を呼ぶこと
ミレイユでの最初の一週間は、古い布をほどくように過ぎていった。
ほどけば、汚れもほつれも出てくる。けれど、布がまだ使えるかどうかも分かる。
白楡館には、常勤の使用人が三人しかいなかった。管理人のガスパル、台所のマルタ、庭と馬屋を兼ねている少年ノエ。掃除や針仕事は近くの村から日ごとに人を雇っていたが、給金の遅れが続き、来なくなった者も多いという。
私はまず、名前を書き出した。
マルタ・ベル。
ノエ・ランベール。
針仕事のアニエス。
洗濯の姉妹、サラとメイ。
屋根職人のドニ。
村医者の老医師ロワ。
王宮の名簿では、人は役職と家名で並ぶ。けれど白楡館の台所で、マルタは「トマの母」であり、サラは「冬に手が荒れやすい人」であり、ノエは「馬より先に自分の昼食を忘れる少年」だった。
名前の横に、私は小さな覚え書きを足していった。
それだけで、紙はただの労務表ではなくなる。
「お嬢様、そこまで細かく書かれるのですか」
ガスパルが不思議そうに尋ねた。
「細かく書かないと、困っていることが見えません。たとえば、サラの給金を遅らせると、彼女の家では薬が買えない。ノエに馬屋を任せきりにすると、昼を抜いて働く。数字だけでは足りないけれど、数字がなければ気づくのも遅れます」
「前の代理人は、総額しか見ませんでした」
「総額は便利です。でも、総額だけで人を扱うと、誰かが消えても気づきません」
言いながら、私は自分のことを考えていた。
王宮での私は、ローウェン家の後ろ盾、王太子妃候補、教育済みの駒。総額の中では便利だったのだろう。けれど一人のリディアとして、疲れているか、寒いか、何を食べたいかを聞かれた記憶はほとんどない。
だからここでは、まず名前を呼ぼうと思った。
◇
午後、村の女たちが白楡館に集まった。
未払いになっていた針仕事の給金を渡すためだ。金庫に残っていた現金は少なかったが、兄から受け取った旅費の一部を一時的に回した。領地の金と私金は分けるべきだが、今払わなければ信用が戻らない。
小客間の机に硬貨を並べると、女たちは遠慮がちに入口で固まった。
「入ってください。寒いでしょう」
私が言っても、すぐには動かない。
アニエスという年配の女が、代表のように前へ出た。
「リディア様。私たちは、旦那様方に逆らうつもりはございません。ただ、前の代理人様に何度も給金をお願いして、それで」
「分かっています。こちらの不手際です。遅れた分は、今日お支払いします」
私は一人ずつ名を呼び、硬貨と受領書を渡した。
サラ。
メイ。
アニエス。
名を呼ぶたびに、彼女たちの顔が少し変わる。驚き、警戒、戸惑い。最後に、ほんの少しの安堵。
サラが硬貨を握りしめた。
「本当に、いただいてよろしいのですか」
「働いた分です。よろしいも何も、当然です」
当然。
その言葉を口にすると、女たちは互いの顔を見た。
当然のことが当然に行われない場所では、当然という言葉は約束になる。
「それと、相談があります」
私は古い布を机に広げた。白楡館の倉庫に残っていた亜麻布だ。上質ではないが、洗えば使える。
「冬の終わりまでに、館の寝具を直したいのです。客間の毛布、子ども用の寝間着、台所の布巾。仕事は多い。ただ、今までのように一件ずつ頼むと、誰にどれだけ負担がかかるか見えにくい。代表を置き、仕事を分け、週ごとに支払う形にしたいのですが、できますか」
女たちはまた顔を見合わせた。
若いメイが、おずおずと手を上げた。
「私、字が少し読めます。数は苦手ですけど、名前を書くくらいなら」
「では、メイに記録をお願いしても?」
「私でいいんですか」
「あなたができるなら」
メイは口元を押さえた。サラが彼女の背を軽く叩く。
その様子を見て、夢の中の硝子の塔を思い出した。女たちが机を持ち、自分の名で呼ばれ、働いていた場所。あれは本当に前世の記憶なのか、ただの願いなのか、まだ分からない。
けれど、ここでも小さな机なら作れる。
◇
夕方、セドリック様が屋根職人を連れて来た。
小客間では女たちが布を広げ、マルタが粥を煮ている。子どものトマは窓辺で木片を積み上げて遊んでいた。屋敷の中に人の声があるだけで、白楡館は少し若返ったように見える。
「にぎやかですね」
セドリック様が言った。
「騒がしいでしょうか」
「いいえ。家が息をしている音です」
その言い方が静かで、私は返事に困った。
屋根職人のドニは、雨漏りの箇所を見て渋い顔をした。
「全部直すなら春まで待つしかありません。今できるのは、東棟と廊下の応急処置です」
「優先順位は、小客間、台所、使用人部屋、書斎です。私の寝室は最後で構いません」
ドニとガスパルが同時にこちらを見た。
「リディア様の寝室は、昨夜も水が落ちたはずですが」
「桶を置けば済みます」
セドリック様が眉を寄せた。
「済みません」
「ですが」
「領主が倒れると、全員が困ります。ご自身の部屋も優先に入れてください」
強い口調ではない。けれど、引く気のない声だった。
私は少しだけ反発を覚え、すぐにその反発の正体に気づいた。
私は、自分を後回しにすることに慣れすぎている。
「……では、寝室の雨漏りも入れてください」
「はい」
セドリック様は何事もなかったように頷いた。
腹立たしいほど自然に、私を人数の中に数えた。
その夜、女たちが帰った後、小客間の机には名簿が残っていた。メイの少し曲がった字で、働く人の名前が並んでいる。
私は自分の名も、下の方に書き足した。
リディア・ローウェン。
役目ではなく、名前として。