作品タイトル不明
第四話 セドリック伯爵の問い
父からの封書は、その日の昼まで暖炉の上に置いたままだった。
火にくべなかったのは、怒りが足りなかったからではない。読まないまま燃やすには、まだ私は父の言葉に縛られていた。
白楡館の書斎は、母が少女時代に使っていた部屋だという。壁一面の本棚には、領地記録、古い詩集、薬草の図鑑、そして使われなくなった家計簿が残っていた。窓辺には楡の枝が影を落とし、机の上には薄い埃が積もっている。
私は布で机を拭き、そこへ三つの山を作った。
すぐ必要なもの。
後で確認するもの。
今は見ても仕方のないもの。
父の手紙は、三番目に置いた。
「お嬢様、セドリック伯爵がお見えです」
エリーズが扉から顔を出した。昨夜の疲れが残っているはずなのに、彼女はすでに屋敷の使用人たちと台所を整え始めている。
「応接室へお通しして」
「応接室は、椅子の脚が一本ぐらついております」
「では、台所の隣の小食堂へ。あそこなら火もあるわ」
王宮なら、隣領の伯爵を台所近くの小食堂へ通すなど考えられない。けれど白楡館には、今その方がよかった。寒い応接室で形式を守るより、暖かい小食堂で話す方がましだ。
セドリック様は、案内された部屋に何の不満も示さなかった。
「昨夜の子どもは」
「熱は下がりました。医師にも診ていただきました。肺に深い炎症はないそうです」
「それはよかった」
彼は心から安堵したように言った。
小食堂の窓際に座ると、外の庭がよく見えた。枯れた噴水、倒れた柵、半分埋もれた花壇。春の準備にはほど遠い。
「伯爵には、昨夜のお礼を正式に」
「セドリックで構いません。隣同士で、毎回伯爵と呼び合うと日が暮れます」
「では、セドリック様」
「様も不要ですが、初日から急がなくて結構です」
淡々と言われて、私は思わず目を瞬かせた。
無愛想な方だと聞いていたが、会話が嫌いなわけではなさそうだ。ただ、余計な飾りを置かない人なのだ。
「こちらも、リディアで構いません」
「分かりました、リディア嬢」
その呼び方は、私の肩書きを削ぎ落とすようで、少し落ち着かなかった。
セドリック様は、持参した地図を机に広げた。ミレイユの谷と周辺の村、アシュフォードとの境界、川、橋、森、共同の牧草地が丁寧に記されている。
「白楡館に今必要なのは、屋根と薪と人の手です。屋根は春まで大きく直せませんが、応急処置ならこちらの職人を回せます。薪は昨夜の分で一週間。足りなければ買い足してください。支払いは収穫後でも構いません」
「なぜ、そこまでしてくださるのですか」
私が尋ねると、彼は地図から目を上げた。
「ここが倒れると、こちらも困るからです」
遠慮のない答えだった。
「ミレイユの谷は、アシュフォードへ流れる川の上流にあります。森の手入れが止まり、橋が落ち、村が痩せれば、こちらにも影響が出る。隣人として助ける理由はそれで十分です」
「情ではなく、必要だから」
「情もあります。ですが、情だけで続く援助は危うい。必要があると分かっている方が、長く続きます」
私は地図を見下ろした。
王宮では、情という言葉がよく使われた。民への慈しみ。貴族の温情。王家の慈悲。けれど、その言葉の後ろにある支出や人手の話をすると、私は冷たいと言われた。
セドリック様の言葉は逆だった。
必要を認めたうえで、情を否定しない。
「リディア嬢」
「はい」
「昨日も尋ねましたが、あなたはこの領地で何を望みますか」
また、その問いだった。
私は答えられなかった。
王太子妃になること。
父の期待に応えること。
妹を支えること。
思い浮かぶのは、いつも誰かの望みだった。
「望み方が、分からないのです」
言葉にすると、胸の奥が少し痛んだ。
「私は長い間、与えられた目標に向かってきました。達成すべき課題は分かります。守るべき作法も分かります。けれど、自分が何を欲しいかと聞かれると、言葉が出てこない」
セドリック様は、しばらく黙っていた。
その沈黙は、私の言葉を急かさないものだった。
「では、今日のところは小さく決めましょう」
「小さく、ですか」
「昼食に何を食べたいか。最初に直す部屋をどこにするか。誰に給金を払うか。人の望みは、大きいものだけではありません」
私は、思わず笑ってしまった。
「昼食ですか」
「笑うことではないでしょう。空腹のまま人生を決めると、たいてい間違えます」
真面目な顔で言われると、なおさらおかしかった。
王宮で婚約を解消され、父に家を出ろと言われ、古い領地に逃げてきた私が、まず昼食を決める。何だか頼りない始まりだ。
けれど、頼りなくても始まりには違いない。
「では、温かいスープを」
「良い望みです」
セドリック様は地図の端を押さえながら頷いた。
◇
午後、私は父の手紙を読んだ。
内容は短かった。
昨夜の件は一時の感情によるものと見なす。すぐに帰還せよ。フローラの王妃教育に遅れが出ている。王家との調整に支障がある。ローウェンの娘として責務を果たせ。
謝罪の言葉はなかった。
体調を気遣う一文もなかった。
最後に、こうあった。
――お前の席は、まだこちらに残してある。
席。
馬車の中で見た夢を思い出した。硝子の塔に並ぶ机。誰かに与えられた飾りの席ではなく、自分で働くための席。
父の言う席は、私が戻れば座れるものだろう。ただし、その席は私のためではない。妹の後ろ、父の命令の内側、王宮の廊下の端。影としての席だ。
私は返事を書いた。
――ミレイユ領主として、当面帰還いたしません。フローラへの手引きは別便で送りました。ご健勝をお祈り申し上げます。
それだけ書くのに、何度も筆が止まった。
書き終えると、外の庭でトマの笑い声がした。まだ走れるほどではないが、窓際でマルタに抱かれ、エリーズの焼いた薄いパンを見て笑っている。
私は封蝋を押した。
今朝決めた最初の部屋は、小客間だった。病人を寝かせ、暖炉が使え、人が集まれる部屋。そこから直す。
小さすぎる望みかもしれない。
けれど、その日の夕方、白楡館の小客間には温かいスープの匂いが満ちていた。