作品タイトル不明
第三話 白楡館の火
白楡館の台所は、屋敷で一番生きている場所だった。
広い石床には長い年月で磨かれた跡があり、壁際には銅鍋が並んでいる。大きな竈は煤けていたが、薪を足せばよく燃えた。煙突の引きもまだ生きている。古い屋敷が完全に死んでいないことに、私は少しだけ安堵した。
熱を出していた子どもは、トマという名だった。
七歳。小作人の息子で、母親のマルタが白楡館の台所へ手伝いに来ている。寝かされていたのは、台所の隅に置かれた長椅子の上だった。毛布は薄く、額に当てた布はすでにぬるい。
「奥の客間を一つ使います」
私が言うと、管理人のガスパルが慌てた。
「ですが、リディア様。客間はまだ掃除が行き届いておりませんし、病の子をお通しするには」
「台所の隅よりは良いでしょう。暖炉が使える部屋はどこですか」
「東の小客間なら、今朝も火を入れました」
「そこへ」
マルタが泣きそうな顔で頭を下げた。
「奥様、そんな、うちの子に客間なんて」
「私はまだ奥様ではありません。リディアで結構です」
自分で言って、少し変な気持ちになった。
王宮では、私はずっと「殿下の婚約者」だった。家では「公爵家の長女」。ここで初めて、名だけを差し出せる気がした。
「トマは、いつから熱を」
「昨夜からです。咳が止まらなくて、朝には起きられなくなって」
「食べられますか」
「水を少しだけ」
私はエリーズに目配せした。彼女は旅の薬箱から解熱に使う柳皮、喉に効く蜂蜜、乾いた薬草を取り出す。王妃教育には、慈善訪問のための基礎医療も含まれていた。大げさな治療はできない。けれど、熱を下げるまでの支えならできる。
小客間の暖炉に火が入り、厚いカーテンを閉めると、部屋の空気は少しずつやわらいだ。
トマは私の手を見て、かすれた声で言った。
「おひめさま?」
「違うわ」
私は濡らした布を絞り、彼の額に置いた。
「ここで暮らすことになった人よ」
「ここ、寒いよ」
「そうね。直しましょう」
子ども相手に、私は自然に約束していた。
その言葉を聞いていたガスパルが、複雑な顔をする。白楡館の管理人は五十前後の男で、痩せていて、髪に白いものが混じっている。怠け者には見えない。けれど諦めている人の顔をしていた。
「ガスパル」
「はい」
「薪の残量、食料、雇っている人の数、村医者との契約、未払いの修繕費。明日の朝までに分かる範囲で一覧にしてください」
「一覧、でございますか」
「ええ。分からないものは分からないと書いて。隠される方が困ります」
彼は一度、私を見た。
公爵家から追われてきた元王太子の婚約者が、到着早々、病人を客間へ運ばせて帳簿を求める。扱いに困るだろう。私自身、扱い方が分からない。
けれどガスパルは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
◇
夜半、トマの熱は少し下がった。
マルタは椅子に座ったまま眠っている。エリーズが薄い肩掛けをそっとかけた。小客間の火は小さくなったが、消えてはいない。
私は廊下へ出て、冷えた石壁に背を預けた。
疲れていた。
王宮で婚約を解消され、屋敷で家族に役目を押しつけられ、夜通し荷造りをして馬車に揺られ、ここに着いてすぐ病人の世話をした。体は鉛のように重い。
それでも、不思議と息はできた。
王宮の茶室では、喉の奥に見えない紐が巻きついていた。父の書斎では、胸の中に石が詰まっていた。白楡館の廊下は隙間風が入り、壁紙も剥がれているのに、私は自分の肺で空気を吸っている。
窓の外で、馬のいななきが聞こえた。
こんな時間に来客だろうか。
玄関広間へ降りると、ガスパルがランプを手に扉を開けていた。外には黒い外套の男性が立っている。雪解けの泥を跳ね上げた長靴、濡れた手袋、そして後ろの荷馬車には薪束と木箱が積まれていた。
「夜分に失礼する」
低く落ち着いた声だった。
「隣領アシュフォードのセドリック・アシュフォードです。白楡館に急なご到着があったと聞きました。こちらの冬は、慣れぬ方には厳しい。余っていた薪と、医師が調合した咳止めを届けに参りました」
セドリック伯爵。
名は知っていた。北西のアシュフォード領を治める若い伯爵で、領地運営に堅実な方だと宮中の資料で読んだことがある。社交界では無口で、愛想がないとも。
目の前の人は、資料よりずっと疲れて見えた。けれど、こちらを値踏みする目ではなかった。
「リディア・ローウェンです。お心遣い、感謝いたします」
「お疲れでしょう。受け取りの署名は明日で構いません」
「いえ、今いたします。物資をいただく以上、記録は必要です」
そう言うと、セドリック様の目にかすかな笑みが浮かんだ。
「では、記録はお願いします。ただし、お礼の言葉は一度で十分です。こちらも隣家に火を貸す程度のことをしただけですから」
隣家。
その言い方に、少し胸がゆるんだ。
公爵家、王家、元婚約者。そういう肩書きの前に、この人は白楡館を隣家と呼んだ。
木箱の中には、咳止めの薬、乾燥した果物、清潔な包帯、そして小さな蜂蜜壺が入っていた。
「病人がいると聞きました」
「小作人の子です。熱は少し下がりました」
「よかった。アシュフォードの医師は明朝こちらへ寄らせます」
「そこまでしていただくわけには」
「こちらの村でも、昔ミレイユの泉に助けられた家が多い。恩を返すだけです」
ミレイユの泉。
母が話していた、冬でも凍らない泉のことだろうか。
私が黙ったのを見て、セドリック様は少しだけ首を傾げた。
「失礼ですが、リディア嬢はこの領地へ何をしに来られたのですか」
責める口調ではなかった。
けれど、その問いは深く刺さった。
私は家を出るために来た。役目から逃れるために来た。母の遺した場所だから来た。答えはいくつもあるはずなのに、どれも借り物のように感じた。
「まだ、分かりません」
正直に言うと、セドリック様は頷いた。
「では、分かるまで火を絶やさないことです。寒い場所で考えると、人は悪い方へ決めてしまう」
その言葉は、慰めというより実用的な助言だった。
私は少し笑った。
「覚えておきます」
◇
翌朝、白楡館の煙突からは久しぶりに太い煙が上がった。
トマは目を覚まし、蜂蜜を溶かした湯を少し飲んだ。マルタは何度も私の手を握り、エリーズは台所で粥を作っている。ガスパルは寝不足の顔で、薪の残量と修繕箇所の走り書きを持ってきた。
古い屋敷は、問題だらけだった。
屋根の雨漏り。
冬越しの食料不足。
未払いの賃金。
父の代理人が、ここ数年、領地収入をほとんど屋敷の維持に回していないこと。
そして、王都から届いたばかりの封書。
差出人はローウェン公爵家。
父の筆跡で、表にこうある。
至急、帰還のこと。
私は封を切らずに、暖炉の上へ置いた。
火はまだ、よく燃えていた。