軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二話 荷造りは涙より先に

その夜、私は泣かなかった。

泣くには、することが多すぎた。

部屋へ戻ると、侍女のエリーズが私の顔を見るなり青ざめた。王宮で何があったか、屋敷中の使用人がもう知っているのだろう。大きな家では、秘密は廊下を歩くより早く広がる。

「お嬢様、お湯をお持ちしますか。それとも、温かいお茶を」

「ありがとう。先に旅行鞄を二つ出して」

「旅行鞄、でございますか」

「ええ。明日の朝、ミレイユへ行くわ」

エリーズの唇が開いたまま止まった。

私は机の引き出しから鍵束を取り出す。王妃教育の課題、殿下から届いた手紙、宮中行事の控え。どれも丁寧に分類していた。十年分の紙は、積み上げれば小さな壁になる。

けれど持っていくものは少ない。

母の小箱。

祖母から譲られた真珠の耳飾り。

成人のときに受け取ったミレイユ領の権利書。

それから、古い帳簿を読むための眼鏡。

「お嬢様、本当にお出になるのですか」

エリーズが小声で尋ねた。

「お父様が、家を出ろとおっしゃったわ」

「旦那様は、きっと売り言葉に買い言葉で」

「そうかもしれない。でも、私は買ってしまったの」

言ってから、自分でも少し驚いた。

冗談のような言葉が、今夜の私には必要だったのだと思う。エリーズは泣きそうな顔で笑い、旅行鞄を開けた。

「では、厚手の下着を多めに。ミレイユはこの時期、朝晩が冷えます」

「行ったことがあるの?」

「母の従姉が、昔あちらの村で針仕事をしていました。 白楡館(しらにれかん) は古いけれど、台所の煙突が大きくて暖かいと聞いたことがあります」

白楡館。

母方の古い屋敷の名だ。母レティシアは、私が七歳のときに亡くなった。父の屋敷に母の物はほとんど残っていないが、ミレイユの話をするときだけ、母は少し声をやわらかくした。

楡の木が風を受ける音。

谷に降りる朝霧。

冬でも凍らない小さな泉。

私はそれを、おとぎ話のように聞いていた。

「エリーズ」

「はい」

「あなたはここに残りなさい。私についてくる必要はないわ」

彼女はきっぱりと首を横に振った。

「私はお嬢様付きの侍女です」

「ミレイユへ行けば、公爵家の侍女としての給金は約束できない」

「でしたら、新しい雇用契約を結んでください。給金は下がっても構いません。お嬢様が、お一人で古い屋敷へ向かわれる方が問題です」

私は彼女を見た。

いつも控えめで、必要以上に口を挟まない侍女だと思っていた。けれど今夜のエリーズは、私よりよほど腹が据わっている。

「分かったわ。契約書を作ります」

「はい」

「でも、給金を下げる前提では結ばない。払えなくなったら、そのとき相談しましょう」

エリーズは深く頭を下げた。

夜半過ぎ、兄が部屋を訪ねてきた。

私はちょうど、ミレイユ領の管理人へ出す先触れを書いていた。父の金庫から権利書を取り戻すため、家令と書記を証人にして手続きを済ませたばかりだ。父は怒鳴り、途中で椅子を蹴ったが、書面は書面である。母の遺言に基づく権利を、父でも破ることはできなかった。

「リディア」

「お兄様。こんな時間にどうなさいました」

アルベルトは扉の前でしばらく黙っていた。彼の沈黙には種類がある。相手を値踏みする沈黙。言葉を選ぶ沈黙。今夜のものは、どこか子どものころに近かった。

「本当に行くのか」

「はい」

「父上は、明日になれば考え直すかもしれない」

「それは、お父様がご自分の言葉を取り消すということですか。それとも、私が謝るだろうという意味ですか」

兄は答えなかった。

答えないことが、答えだった。

「フローラは泣いている」

「そうでしょうね」

「彼女はお前を責めてはいない。ただ、急なことで混乱している」

「分かっています」

私は封蝋を押した。赤い蝋が母の紋章を形作る。小さな楡の葉だ。

「フローラには、宮中で気をつけることをまとめた手引きを渡します。最初の一か月分だけですが、ないよりはましでしょう」

「なら、そばで教えればいい」

「お兄様」

私は顔を上げた。

「私はフローラを嫌いになりたいわけではありません。嫌いにならないために、離れるのです」

兄の眉がわずかに動いた。

「そばにいれば、私はきっと教えます。教えて、整えて、支えて、また誰かに『それだけ』と言われるところまで行ってしまう。そうなれば、私はフローラを憎むかもしれません」

そんなことはしたくなかった。

妹に罪があるわけではない。けれど、罪のない人のために自分を差し出し続ければ、いつか心は濁る。

私はそれが怖かった。

「お前は、そんなに苦しかったのか」

兄の声は低かった。

「はい」

短く答えると、兄は目を伏せた。

「気づかなかった」

「気づかないように、私も振る舞っていましたから」

責めるには遅すぎる。慰めてもらうにも遅すぎる。兄は優秀で、家を継ぐ人で、いつも父の隣にいた。私と兄は近い場所にいながら、同じ方向を見ていなかったのだと思う。

兄は懐から小さな革袋を出した。

「旅費だ。父上には言っていない」

「受け取れません」

「妹への餞別ではない。兄として、今できることがこれしか思いつかない」

革袋の口から、金貨の鈍い光が見えた。

私は少し迷って、それを受け取った。

「ありがとうございます」

「ミレイユに着いたら、手紙をくれ」

「お兄様宛てに?」

「ああ」

「考えておきます」

兄は苦笑に似た顔をした。私たち兄妹が、そんな表情を交わすのは久しぶりだった。

明け方、私はフローラの部屋の前に立った。

中から、かすかな寝息が聞こえる。泣き疲れて眠ったのだろう。扉の前には、私が書いた手引きと小さな箱を置いた。箱の中には、王宮で使う扇、手袋、そして王妃様の好む話題を季節ごとにまとめたカードが入っている。

手紙には、短く書いた。

――無理なときは、無理だと言いなさい。誰かに代わってもらうことは、失敗ではありません。

私が言えなかった言葉だ。

玄関では、エリーズと年配の御者が待っていた。荷は少ない。公爵令嬢の家出にしては、あまりに地味だった。

馬車が門を出るとき、屋敷の二階の窓に人影が見えた。

父か、兄か、フローラか。

誰であっても、私は窓を開けなかった。

冬の終わりの空は、薄い灰色をしていた。道端の雪は泥を含んで、馬車の車輪に重たくまとわりつく。王都を離れるにつれ、塔の先が少しずつ遠ざかっていく。

昼過ぎ、私は馬車の揺れの中で少し眠った。

その短い眠りの中で、夢を見た。

硝子でできた高い塔。机が並び、女たちがそれぞれの名で呼ばれている。誰かの娘としてではなく、誰かの婚約者としてでもなく、紙の上に自分の署名を置き、笑い、疲れ、また立ち上がる。

その中に、私もいた。

リディアではない名で呼ばれていた気がする。けれど目覚めると、その名は指の間から水のようにこぼれた。

覚えていたのは、一つだけ。

私は、自分の席を持っていた。

夕方、馬車はミレイユの谷へ入った。

白楡館は、想像していたよりも古かった。

灰色の屋根瓦はところどころ欠け、門柱には蔦が絡み、庭の噴水は枯れている。けれど屋敷の前には数人の使用人と、痩せた管理人らしき男が立っていた。

「リディア様でいらっしゃいますか。管理人のガスパルでございます。急なご到着で、十分なお迎えもできず」

「構いません。こちらこそ急でごめんなさい」

馬車を降りた瞬間、冷たい風が頬を打った。

そのとき、屋敷の裏手から子どもの咳が聞こえた。

乾いて、苦しそうな咳だった。

私は思わず顔を向けた。ガスパルが気まずそうに目を伏せる。

「近くの小作人の子でして。母親が台所の手伝いに来ているのですが、今日は熱が高く」

「医者は」

「村医者は隣町へ。明日の夕刻までは戻りません」

私は手袋を外した。

自分の人生を始めるために来た場所で、最初に聞いたのが子どもの咳だった。

王宮の白薔薇より、こちらの方がずっと生きている。

「部屋を暖めて。お湯と清潔な布を用意してちょうだい。エリーズ、薬箱を」

「はい、お嬢様」

ガスパルが驚いて私を見た。

私は古い屋敷を見上げた。

「挨拶は後にしましょう。まず、火を入れます」