軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第一話 婚約解消の日

王妃様の茶室には、季節外れの白薔薇が活けられていた。

王宮の温室で咲かせたものだろう。窓の外はまだ薄く雪が残っているのに、銀の花瓶の中だけが春の顔をしている。その柔らかな香りの下で、私は両手を膝の上に重ね、王太子ユリウス殿下の言葉を聞いた。

「リディア・ローウェン。君との婚約は、本日をもって解消する」

ひどく静かな声だった。

大広間ではない。舞踏会の最中でもない。けれど茶室には王妃様、侍女長、王宮書記官、そして殿下の後ろに控える男爵令嬢ミリア・ベルナードがいる。

十分に人目はあった。

「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」

声はかろうじて震えなかった。十年かけて身につけた発声が、今だけ私を支えている。

殿下は私から目をそらした。

「君はよく務めてくれた。王妃教育も、外交儀礼も、宮中の作法も、申し分ない。だが……それだけだ」

それだけ。

その一言で、喉の奥が冷えた。

十歳の春、私はこの茶室で王妃様から最初の課題をいただいた。西方三国の系譜を暗記し、昼食の席で間違えずに話題へ差し込むこと。十三歳で、私は国庫の歳入表を読まされた。十五歳で、夜会の席順を一人で組んだ。十七歳の冬、北境で疫病が出たとき、慰問品の手配を徹夜で整えた。

褒められた日は少ない。

それでも、役に立てているのだと思っていた。

「殿下のお気持ちは、ミリア様へ向かわれたということでしょうか」

私が尋ねると、殿下の後ろでミリア様が小さく肩を揺らした。淡い栗色の髪に、薄桃色のリボン。宮廷に来てまだ半年ほどの方だ。男爵家の出身ながら、明るく人に懐く性格で、殿下がそばに置いていると噂されていた。

「リディア様、私は……」

ミリア様は両手を胸の前で握った。

「私はただ、ユリウス様のお心をお慰めしたかっただけなのです。リディア様は立派な方です。でも、殿下はいつも息が詰まるようだとおっしゃっていて」

「ミリア」

殿下が彼女の名を呼ぶ。その声は、私に向けたものよりずっとやわらかかった。

王妃様は紅茶のカップを置いた。

「リディアさん」

「はい」

「あなたの努力は認めています。けれど、それだけでは王太子の伴侶は務まりません。王族の結婚は務めであると同時に、人の心の結びつきでもあるのです」

そのお言葉に、私は一瞬だけ息が止まった。

では、私の心はどこに置かれていたのだろう。

殿下の好みに合わせて薄い青のドレスを選び、王妃様の指示でミルクを入れない紅茶に慣れ、頭痛の日にも笑い、兄の婚約祝いの席を欠席して宮中行事に出た。心を殺してきたのではない。心を、役目の形に折りたたんできたのだ。

それは、心ではないのだろうか。

「承知いたしました」

私は膝の上の指をほどき、ゆっくりと立った。

「正式な婚約解消の書面は、ローウェン公爵家へお送りいただけますでしょうか。こちらからも受領の返書を出します」

「君はそれだけか」

殿下が眉を寄せた。

「泣きもしないのか。怒りもしないのか」

「ここは王妃様の茶室です。声を荒らす場所ではございません」

「そういうところだ」

殿下は、苦しげに吐き出すように言った。

「君はいつも正しい。正しすぎて、隣にいると息ができない」

その言葉は、刃物ではなく冷たい水に似ていた。刺すのではなく、体温を奪っていく。

私は深く礼をした。

「長くお世話になりました」

王妃様は私を見ていなかった。視線は白薔薇の花弁のあたりに落ちている。殿下はミリア様の袖に触れ、ミリア様は泣きそうな顔で私に会釈をした。

茶室を出ると、廊下の空気は少し乾いていた。

侍女が外套を差し出してくれる。その手が私より震えていたので、私はかえって落ち着いた。

「ありがとう」

そう言うと、侍女は泣きそうに唇を結んだ。

馬車の中で、私は一度だけ手袋を外した。爪の先が白くなっている。王宮へ来る前、父に「ローウェンの娘として恥じぬように」と言われた手だ。

恥じぬように。

その言葉だけで十年、歩いてきた。

屋敷へ戻ると、父はすでに書斎で待っていた。

ローウェン公爵エドガー。私の父であり、この家の家長である人は、王宮からの知らせを受けたのだろう。暖炉の前に立ち、背筋を伸ばしていた。

兄アルベルトもいる。彼は父の右手側に控え、いつもどおり表情を整えていた。妹のフローラは長椅子に座っている。白い頬が興奮で少し赤い。

「戻ったか」

「はい。ただいま戻りました」

「王宮での話は聞いた。婚約は解消。ユリウス殿下は、次の婚約者としてフローラを望んでいる」

父の声には、驚きも慰めもなかった。

私は外套を脱ぐ前に、書斎の中央で足を止めた。

「フローラを、ですか」

「当然だ。ローウェン公爵家と王家の結びつきは必要だ。お前が外れたなら、妹が務める。それだけのことだ」

それだけ。

今日は、その言葉ばかりが私の上に落ちる。

フローラが立ち上がった。私より三つ年下の妹は、社交界で白百合と呼ばれている。淡い金髪、丸い青い瞳、誰にでも愛される笑み。彼女は悪い子ではない。少なくとも、昔は私の膝に乗って絵本をせがんだ子だ。

「お姉様」

フローラは少し不安そうに私を見た。

「私、急なお話で何をしたらいいのか分からなくて。お姉様が教えてくださるなら、きっと大丈夫だってお父様が」

「それで」

私は父を見た。

「私には何をお望みですか」

「フローラを支えろ」

父は迷わなかった。

「お前は王妃教育を受けた。礼法、政務、外交、すべて知っている。フローラが王太子妃となるまで、影として支えればよい」

影。

胸の奥で、何かが静かに折れる音がした。

「私は、殿下の元婚約者です。その私が妹の側近として宮中に出入りすれば、フローラに余計な噂が立ちます」

「噂など管理すればいい。お前は得意だろう」

「私自身の身の置き場は」

「後で考える。ローウェンの娘なら、まず家を守れ」

兄が小さく息を吸った。けれど、何も言わなかった。

私は兄を責めなかった。彼は父の期待を背負うことに慣れすぎて、期待以外の言葉を持たない人だ。

「お父様」

私は、手袋をもう一度はめた。

「私がそれを望まないと言ったら、どうなさいますか」

父の目が細くなる。

「何?」

「私は、フローラの影になることを望みません」

書斎が静まった。

フローラが「お姉様」と呼ぶ。兄は視線を下げる。父は、初めて私を娘ではなく、命令に従わない部下を見る目で見た。

「ならば家を出ろ」

短い言葉だった。

言ってから父は、私がすぐ謝ると思ったのだろう。少しだけ顎を上げた。

私はその顔を見て、ようやく分かった。

この家にとって、私は王太子妃になるための娘だった。次に、妹を王太子妃にするための道具になろうとしている。役目がある限り置かれ、役目を拒めば出ていけと言われる。

それなら、答えは難しくなかった。

「承知しました」

私は礼をした。

「明日の朝、家を出ます」

父の顔から、色が引いた。

「リディア」

「母方のミレイユ領は、私が成人した時点で相続することになっています。管理書類はお父様の金庫にあるはずです。今夜中に確認いたします」

「待て。そういう意味で言ったのではない」

「私も、そういう娘でいるのは今日で終わりにいたします」

私は今度こそ書斎を出た。

扉が閉まる直前、フローラの小さな泣き声が聞こえた。振り返れば、また戻ってしまう気がした。

だから振り返らなかった。

廊下の窓に、夜の庭が映っている。そこに立つ私は、王太子の元婚約者でも、妹の影でもなく、ただ一人の疲れた女だった。

それでも、足は動いた。

自分の部屋へ戻る途中、私は初めて、明日の朝の空の色を考えた。