作品タイトル不明
第59話 公爵家の新しい一日
公爵家の朝は、以前より少しにぎやかになった。食養院の見習いたちが厨房の一角で実習をし、兵団の炊事係が乾燥茸の分量で議論し、村から来た若い娘が赤子を背負って湯を沸かしている。身分も年齢も違う人々が、同じ火の前で順番を待つ。
リディアはその中央に立っていたが、すべてを指示するわけではない。トマが若い見習いに火加減を教え、ハンナが赤子を背負った娘に休む椅子を勧め、ネリから届いた新しい小皿の規格を料理長が棚に反映している。
彼女が口を出す前に、誰かが気づく。それが嬉しい。
同時に、少しだけ自分の居場所が薄くなるような不安もあった。その不安を口にしたのは、夜、エルヴィンと二人で食器を片づけているときだった。
「最近、私がいなくても厨房が回ります」
「よいことだろう」
「はい。とてもよいことです」
リディアは皿を布で拭いた。
「でも、少しだけ怖いです。王宮で必要とされなくなったときの気持ちを、時々思い出します」
エルヴィンは手を止めた。彼はすぐに慰めの言葉を言わなかった。そこが、リディアにはありがたかった。
しばらくして、彼は棚に椀を戻しながら言った。
「王宮は君を替えのきく手として扱った。北境は、君が育てた手を増やしている。似ているようで、違う」
「違うと、わかっています」
「わかっていても怖いことはある」
その言葉に、リディアの肩から力が抜けた。エルヴィンは続けた。
「なら、君自身の朝を増やせばいい」
「私自身の朝?」
「ああ。公爵夫人としてでも、食養院長としてでもなく、ただリディアとして食べる朝だ」
彼女は皿を置き、少し考えた。自分のための朝食。
それは簡単なようで、意外に難しい。誰かの胃、誰かの熱、誰かの事情を先に考える習慣が、体に染みている。
翌朝、リディアは厨房に入る前に小さな鍋を一つ選んだ。自分用の粥を作る。
麦は少なめ。乾燥林檎を細かく刻み、香りだけを湯に移す。甘くしすぎない。朝の仕事の前に、胃が重くならない程度。
トマが驚いた顔をした。
「夫人、それはどなた用ですか」
「私用です」
厨房が一瞬、静かになった。それから、ハンナが笑った。
「それはいい。食養院長が食べないと、見習いたちが休めません」
リディアは小さな椀に粥をよそい、厨房の端の椅子に座った。仕事の前に、自分のために食べる。
匙を口に運ぶと、干し林檎の酸味がやわらかく広がった。派手な味ではない。けれど、体がゆっくり目を覚ます。
エルヴィンが入口に立っていた。
「よい朝か」
「はい」
リディアは椀を見下ろし、微笑んだ。
「私の朝です」
その日から、公爵家の厨房には小さな決まりができた。朝の仕込みを始める前に、働く者は湯か麦湯を一杯飲む。忙しい日ほど、最初の一杯を抜かない。
見習いたちはその決まりを『夫人の朝』と呼んだ。リディアは少し恥ずかしかったが、訂正しなかった。
人を支える手が、自分を空にしないための決まり。それもまた、公爵家の新しい一日になった。