作品タイトル不明
第58話 それぞれの朝
食卓法が公布されてから半年、リディアの机には各地から手紙が届くようになった。王都の療養室からは、ネリの報告。
『今月、食べられなかった理由の欄に「本人が嫌がった」だけを書くことを禁じました。かわりに、匂い、温度、器、部屋の音を確認しています。料理人たちは最初面倒がりましたが、原因が見つかると顔が変わります』
ローゼン家からは、ミレーヌの報告。
『香料倉庫の帳面に、療養用に使わないものの欄を作りました。売上は一時落ちましたが、苦情も減りました。父は複雑な顔をしていますが、数字を見ると黙ります』
東の砦からは、兵団の報告。
『公爵閣下の手順札を写したものを各隊に配りました。酒を薬湯代わりに出す者が減りました。古参兵が文句を言いましたが、腹を壊す者が減ったので黙りました』
村からは、ハンナの大きな字。
『産後の母親に出す汁を、夫にも飲ませるようにしました。母親だけが我慢するのは変だと、若い嫁たちが言い始めました。少し騒ぎになっていますが、前向きな騒ぎです』
リディアは一通ずつ読み、必要な箇所を台帳に写した。同じ手順が、その土地の癖に合わせて少しずつ変わっている。
それは乱れではなく、根を張るということだった。ある朝、トマが厚い束を抱えて入ってきた。
「夫人、第二版の追加分です」
「そんなに?」
「それぞれの朝、という章を作るなら、これでも足りません」
彼の言葉に、リディアは手を止めた。
「それぞれの朝」
「はい。王宮の朝、砦の朝、村の朝、商家の朝。全部同じ粥ではないので」
リディアは笑った。
「いい題です」
北境食養記の第二版には、その章が入ることになった。編集作業は大変だった。
王宮の丁寧すぎる文は短くし、村の大ざっぱな分量には目安をつけ、砦の荒い表現は少し整えた。だが、土地ごとの言葉を消しすぎないように気をつけた。
食事は、どこでも同じ器に入るわけではない。その事実を、手順書から消したくなかった。
夜、リディアは机に向かいながら、ふと王宮の勝手口を思い出した。あの朝、彼女は自分の場所を失ったと思った。
けれど今、場所は一つではない。彼女が行ったことのない村で、誰かが薄い粥を焦がさないように混ぜている。王都でネリが小皿を選び、ローゼン家でミレーヌが香料を引く。砦で兵が麦湯を先に飲む。
それぞれの朝がある。エルヴィンが扉を叩いた。
「まだ起きているのか」
「第二版の追加分が多くて」
「手伝えることは?」
「各地の報告を読むだけでも、かなり時間がかかります」
彼は椅子を引き、向かいに座った。
「読む」
「公爵様の執務もあります」
「公爵家の食卓の仕事だ」
リディアは少し迷い、束を半分渡した。二人で手紙を読む夜は静かだった。
ときどきエルヴィンが、砦の表現に眉をひそめる。リディアが村の報告に笑う。机の上に置いた麦湯が冷め、また温め直される。
広がっていく仕事は、一人で抱えれば重い。けれど、分けて持てば、その重さは確かな手応えになる。
リディアは新しい章の表題を書いた。
『それぞれの朝』
墨が乾くまで、二人は黙って頁を見ていた。