作品タイトル不明
第54話 冬を越えた粥
北境に戻ると、最後の雪が屋根の影に残っていた。
食養院では、冬のあいだに使った穀物の棚卸しが始まっている。麦は予定より少し余った。薬草は白葉草が足りず、かわりに乾燥茸がよく使われた。蜂蜜は嗜好品としての管理が徹底され、療養用の棚には一本も置かれていない。
リディアは台帳を確認しながら、冬を越えた実感を覚えた。王宮へ行き、制度を整え、帰ってきた。
その間にも北境の鍋は止まらなかった。これが、彼女が望んでいたことだった。
春の最初の講習には、遠い村から老夫婦が来た。夫は長い冬で歯を悪くし、固いパンが食べられない。妻は自分の料理が下手になったのだと落ち込んでいた。
リディアは二人を講習室の前列に案内した。
「今日は、冬を越えた粥を作ります」
鍋に麦を入れ、ゆっくり湯を足す。煮立てすぎない。底をこすりすぎない。柔らかくなったところで、乾燥茸の戻し汁を少し加える。
老女は不安そうに見ていた。
「私は、昔はもっと上手に作れました。夫が残すと、胸が苦しくて」
「料理が下手になったから残すとは限りません」
リディアは木匙を持つ手を止めずに言った。
「歯が痛いと、好きなものほどつらくなることがあります。噛めないことを言いたくなくて、黙って残す人もいます」
老夫が気まずそうに目を伏せた。
「……言えば、心配すると思ってな」
「言わないほうが、もっと心配します」
老女の声は震えていたが、怒りより安堵が混じっていた。リディアは二人の間に小さな椀を置いた。
「まずは一緒に味を見てください。薄いと思ったら、塩ではなく香りを少し足す方法もあります」
老夫は匙を取り、ゆっくり口に運んだ。しばらくして、彼はうなずいた。
「これなら食べられる」
老女の肩が下がった。講習室にいた若い者たちも、ほっと息をつく。
リディアはその空気を大切にした。食べられる一口は、病の勝敗だけではない。家の中で言えなかったことを、少しだけ言えるようにする。
講習のあと、老女はリディアに小さな布袋を渡した。
「村の干し林檎です。お礼に」
「ありがとうございます。甘いものは、療養用ではなくお茶の時間にいただきますね」
そう言うと、老夫婦は笑った。夕方、リディアは干し林檎を一切れ味見した。冬を越えた果物は、甘さより酸味が残っている。その酸味が、麦湯に少し合いそうだった。
彼女は台帳の余白に書き込む。
『歯の痛む老人。味ではなく形が問題のことあり。干し林檎は細かく刻み、茶に香りを移す』
エルヴィンが背後からのぞいた。
「また新しい節が増えるな」
「はい。北境食養記の第二版は、もう厚くなりそうです」
「読者が鍋を持っていられる厚さにしてくれ」
「それは大事ですね」
リディアは笑った。冬を越えた粥は、特別な祝宴ではない。
けれど、長い季節を生きた人に、次の春を渡す皿だった。