作品タイトル不明
第55話 ミレーヌの厨房
ミレーヌ・ローゼンからの手紙は、王都の春祭りの前に届いた。封筒には、以前のような香りはついていない。上質ではあるが簡素な紙で、文字も飾りを抑えている。
『リディア夫人。ローゼン家では、病後の者や高齢者のための小さな厨房を設けることにしました。私はそこで働く者の監督をします。あなたが以前、壺に貼った「嗜好品」と「療養用」の札を、今でも覚えています』
リディアは手紙を読み、静かに息を吐いた。ミレーヌは王太子妃にはならなかった。
婚約は正式に解消され、彼女はローゼン家の交易監督として、香料と嗜好品の扱いを見直している。北境で学んだことを、彼女なりの場所で使い始めたらしい。
手紙の終わりには、訪問の願いが書かれていた。数週間後、ミレーヌは北境へ来た。
以前より華美ではない服を着ていたが、背筋の伸ばし方は変わらない。彼女は食養院の厨房に入る前、前掛けを自分で結ぼうとして、紐を絡ませた。
トマが手伝おうとしたが、ミレーヌは首を横に振った。
「自分で覚えます。できなかったことを、できないまま監督したくありません」
リディアは少し離れて見ていた。かつて彼女は、台所に立つ貴族令嬢を卑しいと言った。
今、その手で前掛けの紐を解き直している。講習では、香りの扱いがテーマになった。
ミレーヌは自分の得意分野でもあるため、最初は説明が流暢すぎた。香料の産地、等級、保存法。聞いている炊事係たちが少し置いていかれたところで、リディアは鍋の蓋を開けた。
薄い麦湯の湯気が上がる。
「では、この部屋に香りを一つ足すなら、何を選びますか」
ミレーヌは考え込んだ。昔の彼女なら、高価な香料を選んだかもしれない。
「……何も足しません」
彼女は答えた。
「この湯気は、食べられない人が最初に安心する匂いです。強い香りは、別の部屋で使うべきです」
リディアはうなずいた。
「その判断が大事です」
講習が終わったあと、ミレーヌは裏庭でリディアに頭を下げた。
「あなたを卑しいと言ったことを、何度謝っても足りません」
「謝罪は受けています」
「許されたと思って楽になりたいのではありません。私は、あの言葉を言える側にいたことを、忘れないようにしたい」
風が薬草の干し棚を揺らした。リディアは、目の前の女性を見た。
傷つけられた事実は消えない。けれど、その事実だけで相手の一生を決めることも、今のリディアにはしたくなかった。
「では、あなたの厨房で、働く人の名を記録してください。香料の名だけでなく、香りを足さないと判断した人の名も」
ミレーヌはゆっくり顔を上げた。
「はい」
その返事は、以前の彼女よりずっと静かだった。帰り際、ミレーヌは食養院の帳面を一冊買った。自分の厨房で使うという。
王宮で花蜜湯の壺に貼った札は、誰かを罰するためだけのものではなかった。嗜好品は嗜好品として、療養用は療養用として。
ものの名を正しく呼ぶことから、やり直せる場所もある。