作品タイトル不明
第30話 灰狼公爵の求婚
求婚は、舞踏会でも庭園でもなかった。春先の軍糧試験が終わった翌々日、エルヴィンは厨房の裏にある小さな食料庫で、リディアに言った。
「結婚を申し込みたい」
リディアは、乾燥豆の袋を棚へ戻そうとしていた。袋は手から滑り落ち、豆が床に散った。
トマが入口で固まり、すぐにマルタに引きずられるように去っていく。扉が静かに閉まった。食料庫には、乾いた豆の音だけが残った。
「……今、何と」
「結婚を申し込みたい」
エルヴィンは真面目だった。あまりに真面目なので、冗談ではないことだけはすぐ分かった。リディアは落ちた豆を拾おうとしゃがみ、指が震えていることに気づいた。
「公爵様。ここは食料庫です」
「分かっている」
「求婚は、もう少し違う場所でなさるものでは」
「厨房では仕事の邪魔になる。執務室ではあなたが緊張する。庭は風が強い。ここなら、誰も香水を焚かない」
理由は実用的だった。けれど、彼らしいと思ってしまった自分がいた。
リディアは豆を拾いながら、胸の中の音を落ち着かせようとした。
「なぜ、私なのですか」
エルヴィンも膝をつき、豆を拾い始めた。
「あなたが、北境に必要だから」
その答えに、胸が少し沈んだ。必要。
嬉しい言葉のはずなのに、王宮での古い痛みが顔を出す。エルヴィンはすぐに気づいた。
「今の言い方は足りなかった」
彼は豆を手のひらに集めたまま、リディアを見た。
「北境に必要だからだけではない。私が、あなたにいてほしい」
食料庫の空気が止まった。
「あなたが鍋の音を聞いている時、私はこの城が生きていると思う。兵の胃を気にし、薬草の根を見て、私の睡眠まで記録するあなたがいると、私は守るだけではなく、守られていいのだと思える」
リディアは手の中の豆を見た。丸く、小さく、いくつもある。
エルヴィンの声は続いた。
「あなたを公爵家のための道具にしたくない。王宮から連れてきた褒美にもしたくない。契約職員として残ることもできる。断れば、待遇は変えない」
「本当に?」
「本当に」
「断ったら、公爵様の胃の記録を厳しくしても?」
「それは求婚と関係なく厳しいだろう」
思わず笑ってしまった。笑った瞬間、張りつめていたものが少しほどける。
リディアは豆を袋へ戻し、立ち上がった。エルヴィンも立つ。彼は礼法通りに片膝をつこうとしたが、食料庫の床にはまだ豆が数粒転がっていた。滑る危険がある。
「お待ちください。そこは危ないです」
「求婚中に止められるとは思わなかった」
「転んだら胃だけでなく腰も痛めます」
エルヴィンは一度だけ目を閉じた。
「では、立ったまま言う」
彼はリディアの前にまっすぐ立った。
「リディア・ベルセ。あなたの仕事を尊重し、あなたの名を消さず、あなたが自分を粗末にしそうな時は止める。私もまた、あなたに止められることを受け入れる。よければ、私と共に北境の朝を作ってほしい」
胸の奥に、温かいものが広がった。嬉しい。
けれど、すぐに答えられない。身分が違いすぎる。子爵家の養女と辺境公爵。王宮なら、笑われるどころでは済まない。北境でも、公爵夫人となれば、厨房に立つことを快く思わない者が出るだろう。
何より、彼の求婚を受けることで、今の仕事が「公爵の妻だから認められた」と見られるのが怖かった。
「考える時間をいただけますか」
「もちろん」
エルヴィンの返事は早かった。
「急がせたくはない」
「急に食料庫で言われました」
「それは、反省している」
リディアはまた少し笑った。その日の夕方、厨房では豆が一粒だけ見つからず、トマが「公爵様の求婚豆」と名づけようとしてマルタに叱られた。
リディアは笑いながらも、胸の奥が落ち着かなかった。必要とされること。
望まれること。その二つが、少しずつ違う意味を持ち始めていた。