作品タイトル不明
第31話 身分違いの答え
エルヴィンの求婚から三日、リディアは返事を書けずにいた。
仕事は変わらない。朝には粥を作り、昼には軍糧の改良をし、夕方には薬草畑を見る。公爵の胃の記録も続ける。だが、彼が食事のたびに「無理に答えなくていい」と言うので、かえって意識してしまう。
マルタは何も聞かなかった。その代わり、ある午後、リディアを公爵家の古い書庫へ案内した。
「歴代の公爵夫人の記録です」
そこには、華やかな肖像だけではなく、帳面があった。
冬の配給を整えた夫人。孤児院の寝具を管理した夫人。戦の後、負傷兵の家族へ食料を送った夫人。王都の社交で有名だった名は少ない。だが、北境の生活の底を支えた女性たちの記録が残っていた。
「公爵夫人は、飾りではありません」
マルタは静かに言った。
「もちろん社交もあります。面倒な親族もおります。けれど北境では、食卓も寝具も薪も、領主家の仕事です」
リディアは一冊の帳面を開いた。そこには、昔の夫人が「飢えた冬には、まず湯を配る」と書いていた。
彼女はふと気づいた。身分違いを恐れていたのは、王宮の価値観で考えていたからだ。公爵夫人は絹のドレスで広間に立つだけの人ではない。少なくとも、この北境では。
「私が厨房に立っても、よいのでしょうか」
「立つべき時には」
マルタは少し笑った。
「ただし、全部を一人でなさるのは違います。人を育て、仕組みを作り、ご自分も食べる。それが夫人の仕事です」
その言葉は、リディアの迷いの中心を突いた。公爵と結婚すれば、厨房から遠ざけられるのではないかと怖かった。あるいは逆に、公爵夫人になっても全部自分で抱え込もうとしてしまうのではないかと怖かった。
答えは、そのどちらでもない。夜、リディアはエルヴィンを薬草畑へ呼んだ。
白葉草の葉は、風に揺れている。王宮から持ち帰った銅鍋は厨房で磨かれ、明日の朝を待っている。
「公爵様」
「はい」
彼が少し緊張した声で返事をしたので、リディアは笑いそうになった。
「求婚のお返事です」
エルヴィンの背筋が伸びた。
「私は、あなたの妻になりたいと思います」
言った瞬間、胸の奥が温かくなった。
「ただし、条件があります」
「聞こう」
「私の仕事を、結婚で消さないでください。公爵夫人になっても、食養の記録と人を育てる仕事を続けます。厨房に立つ日もあります。逆に、私が全部を背負おうとしたら止めてください」
「約束する」
「公爵様も、眠らない日が続いたら、夫人として止めます」
「それは厳しい夫人だ」
「胃にも厳しいです」
エルヴィンは笑った。そして、今度は土の上ではなく、薬草畑の石道の上で片膝をついた。
リディアが止める前に、彼は言った。
「リディア。あなたの名を、私の隣で消さずに残すと誓う。北境の朝を、共に作ってほしい」
リディアは手を差し出した。
「はい」
彼の手は温かかった。薬草畑の風が、白葉草の匂いを運んできた。
身分違いの答えは、豪華な広間ではなく、土の上で決まった。