作品タイトル不明
第28話 辺境へ持ち帰る鍋
リディアが王宮から持ち帰ったものは、金銀の褒美ではなかった。もちろん、未払い手当と正式な謝礼は支払われた。国王の命で、母セラの名も王宮療養食記録に記された。温脈食記の写しは王宮に保管され、料理長と侍医長が管理することになった。
だが、リディアが北境へ持ち帰りたいと思ったのは、王宮の古い小鍋だった。四年間、国王の粥を煮てきた銅鍋。
底には細かな傷があり、取っ手は少し歪んでいる。王宮の厨房道具としては、そろそろ新しいものへ替えられる予定だったらしい。
グラントはそれを布で包み、リディアへ差し出した。
「陛下の許可は取った。新しい制度では新しい鍋を使う。これは、君が持っていけ」
「よろしいのですか」
「この鍋は、君の手の方が覚えている」
リディアは銅鍋を抱えた。重い。
けれど、その重さは嫌ではなかった。王宮での苦しさも、陛下が食べてくれた朝も、ネリと分け合った不安も、全部この鍋に残っている。
捨てるのではなく、持っていく。その選択ができるようになったことが、嬉しかった。
帰りの馬車では、鍋はリディアの足元に置かれた。揺れるたびに、布の中で小さく鳴る。エルヴィンが向かいの席で言った。
「宝石より大事そうだ」
「宝石で粥は煮えません」
「確かに」
彼は笑った。王都から離れるにつれ、リディアの体から王宮の緊張が少しずつ抜けた。北へ向かう風は冷たいが、今はその冷たさが落ち着く。針葉樹の匂い、湿った土、遠くの山。
戻る場所の匂いだ。途中の宿で、エルヴィンは夕食をきちんと食べた。王宮へ向かう時より、表情は穏やかだ。だが時折、リディアを見て何か考えているようだった。
「何か、気になることが」
リディアが尋ねると、彼は少し間を置いた。
「あなたは、王宮へ残ることもできた」
「はい」
「国王の信頼、制度の中心、王都での名誉。北境より華やかな道だ」
「そうかもしれません」
リディアは鍋を包む布の端を整えた。
「でも、王宮で私が必要とされるのは、壊れた朝を直す時です。北境では、壊れる前に見ていいと言われました」
エルヴィンは黙った。
「それに、王宮では私の小鍋だけが必要でした。北境では、薬草畑も、兵舎も、山道の村も、全部つながっています。私はそこを見たいのです」
「私の胃も?」
「もちろんです。まだ完治ではありません」
エルヴィンは少し肩を落とした。
「戻ったら、肉は」
「薄切りを少量からです」
「分かった」
素直に答える彼を見て、リディアは笑いをこらえた。北境へ到着した日、城門ではマルタから連絡を受けていた人々が待っていた。
トマ、ユアン、厨房番、兵たち、薬草畑を手伝った村の女性までいる。大げさな出迎えではない。だが、皆が少し緊張した顔でリディアの馬車を見ていた。
リディアが降りると、トマが飛び出した。
「お帰りなさい、リディア様!」
その言葉に、胸がいっぱいになった。お帰り。
王宮では、一度も言われなかった言葉。
「ただいま戻りました」
リディアは銅鍋を抱えて答えた。ユアンが鍋を見て目を丸くする。
「それ、王宮のですか」
「はい。これで、北境の粥も作ります」
兵たちが歓声を上げた。王宮の鍋は、北境の厨房へ置かれた。
その夜、リディアはその鍋で、少しだけ特別な麦粥を作った。国王のためではなく、公爵と兵と、北境の厨房で待っていた人々のために。
エルヴィンは最初の一口を食べ、静かに言った。
「戻った味だ」
リディアは、今度は素直に笑った。彼女の朝は、北境へ戻ってきた。