作品タイトル不明
第15話 公爵家の客人
王宮からの使節団がノルドヴァルト公爵家を訪れたのは、麦祭りから十日後だった。先頭に立っていたのは、王太子付き侍従長ではない。国王の名を受けた侍医長と、王宮料理長グラントだった。そして、その後ろに、顔色の悪いセドリック王太子がいた。
ミレーヌの姿はない。リディアは玄関広間で彼らを迎えた。客員厨師としてではなく、公爵家の契約職員として、マルタの隣に立つ。
以前なら、王太子の前に出るだけで膝が震えた。今も緊張はある。だが、後ろにはノルドヴァルトの使用人たちがいる。少し離れたところに、エルヴィンも立っていた。
セドリックはリディアを見るなり、何かを言いかけた。しかし先にグラントが深く頭を下げた。
「リディア嬢。すまなかった」
「料理長」
「守れなかった。紙を残してくれたのに、俺はそれを通しきれなかった」
大きな体を折って謝る姿に、リディアの胸が痛んだ。
「料理長は、ネリからの紙を守ってくださいました」
「守りきれていない」
「でも、守ろうとしてくれました」
グラントは顔を上げた。目の端が赤い。侍医長も礼をした。
「国王陛下の食事について、正式に助言をお願いしたい。王宮は、あなたの働きを正しく扱わなかった。陛下もそれを認めておられる」
セドリックが一歩前に出た。
「リディア」
懐かしい呼び方だった。だが、もうその声だけで従う気持ちは起きなかった。
「王太子殿下」
リディアが礼をすると、セドリックの顔がわずかに歪んだ。
「そんな他人行儀に」
「殿下と私は、正式な契約関係にありません」
言葉は静かだったが、広間の空気が締まった。セドリックは唇を噛んだ。
「私は、君を軽く見ていた。父上の朝食は、誰にでも作れると思っていた。ミレーヌの言葉に流され、君を庇わなかった」
彼は深く息を吸った。
「戻ってきてほしい」
その言葉を聞いた時、リディアの心に浮かんだのは喜びではなかった。王宮の厨房。香水の匂い。鍵のない薬草棚。何度も飲み込んだ言葉。
戻るとは、何に戻ることなのか。
「陛下の食事を助けることはできます」
リディアは言った。
「ですが、王宮の朝食係として戻ることはできません」
「なぜだ。父上も望んでいる」
「陛下は、私を戻せとは書いておられません。助言を求めておられます」
セドリックは黙った。リディアは続けた。
「私が王宮へ伺う場合、条件があります。正式な依頼書。報酬。作業範囲。薬草棚と厨房の管理権限。料理長と侍医長の同席。そして、ミレーヌ様やローゼン家関係者が食事に介入しないこと」
セドリックの目が見開かれた。
「そこまで」
「必要です」
リディアは一歩も引かなかった。
「食事は皿の上だけではありません。鍵、薬草、薪、香り、侍医の薬、陛下の睡眠、全部が関わります。そこを任せないまま、結果だけ求めるなら、また同じ失敗をします」
グラントが頷いた。
「俺も同意します」
侍医長も続いた。
「医療側も、食事調整の記録を正式な療養記録に組み込みます」
セドリックは、味方だと思っていた二人がリディア側に立つのを見て、ようやく事態の重さを理解したようだった。
「分かった。条件を父上へ伝える」
その声には、以前のような軽さはなかった。リディアは礼をした。
「もう一つ、お願いがあります」
「何だ」
「私の未払い手当を、王宮厨房の下働き全員の賃金調査と一緒に処理してください。私だけ払われても、同じことが残ります」
グラントが目を丸くした。セドリックは、しばらくリディアを見ていた。
やがて、低く言った。
「君は、変わったな」
「はい」
リディアは自分でも驚くほど素直に答えた。
「変わらなければ、また誰かの朝が消えますから」
広間の奥で、エルヴィンが静かに見守っていた。その視線は、彼女が自分で立つのを待っている視線だった。
リディアは、王宮の客人たちへ温かい麦湯を出すようトマに頼んだ。帰ってきた彼らをもてなすためではない。
これから話し合いを続ける人間が、空の胃で判断を誤らないためだった。