作品タイトル不明
第16話 山道の雪と空の胃
王宮使節団が帰った翌朝、北の山道で雪崩が起きた。季節外れの小さな雪崩だったが、補給馬車が一台、谷側へ傾いた。荷は落ちずにすんだものの、御者と護衛二名が冷えで動けなくなり、近くの村へ運ばれた。
知らせが入ると、エルヴィンはすぐに救援隊を組んだ。
「リディアは城に残れ」
当然のように言われ、リディアは外套を掴む手を止めた。
「冷えた方には、到着直後の湯が必要です」
「山道は危険だ」
「だからこそ、行く人が少ないうちに手順を作ります。私が毎回行くためではありません。村の方ができる形にするためです」
エルヴィンは彼女を見た。過保護ではない。危険を測っている目だった。
「馬車では揺れる。あなたも冷える」
「湯壺と乾いた布を積みます。私は自分の体調も記録します」
「そこまで言うなら、私の指示に従うこと」
「公爵様も、食事の時間を守ること」
エルヴィンが少し眉を上げた。結局、二人とも互いの条件を飲んだ。
山道は、王都の石畳とは違った。車輪は泥に取られ、風は横から吹きつける。道の片側は崖で、もう片側は雪の残る斜面。リディアは湯壺を抱え、揺れでこぼれないよう布を巻き直した。
途中の村に着いた時、御者たちは納屋に寝かされていた。村人は火を焚いていたが、焦りから濃い酒を飲ませようとしている。
「待ってください」
リディアは酒瓶を止めた。
「冷えた体に強い酒を入れると、最初は温かく感じても後から冷えます。胃も荒れます」
村の年配の男が不安そうに言った。
「では、何を」
「薄い塩湯からです。少しずつ。手足は外から温めますが、熱すぎる布は使わないで」
彼女は湯を分け、村の女性たちに手順を見せた。湯の温度。布の当て方。飲ませる間隔。吐いた時の対応。眠らせていい時、起こすべき時。
華やかなことは何もない。けれど、誰かが知っていれば救えることがある。
エルヴィンは外で補給馬車の確認をしていた。雪を払う兵たちに短く指示を出し、村の子どもが近づきすぎると、無言で手を引いて安全な場所へ戻す。
リディアはその横顔を見た。彼は人を守ることに慣れている。だが、自分が守られることには慣れていない。
昼を過ぎても作業は続いた。エルヴィンは食事を忘れていた。
リディアは厨房代わりの納屋で、持参した麦と村の蕪を煮た。公爵用には脂を抜き、兵用には塩を少し強める。
「公爵様」
外で雪を払っていたエルヴィンが振り向いた。
「昼食です」
「あとで」
「今です」
兵たちが一斉に顔を伏せた。エルヴィンは何か言いかけ、諦めたように手袋を外した。
納屋の隅で彼に粥を渡すと、リディアは自分も椀を取った。
「あなたも食べるのか」
「食べます。私も倒れたら困りますので」
「いい判断だ」
以前と同じ言葉だった。だが今日は、少し違って聞こえた。仕事への評価だけでなく、彼女自身が無事でいることへの安堵が混じっているように感じた。
夕方、御者たちは少しずつ体温を取り戻した。村人たちは手順を覚え、湯の量を記録するための板まで用意した。
帰り際、年配の女性がリディアの手を握った。
「お嬢さん、これは薬師の仕事ですか。それとも料理人の仕事ですか」
リディアは少し考えた。
「朝を迎えるための仕事です」
女性は深く頷いた。帰りの馬車で、エルヴィンは黙っていた。
疲れたのだろうとリディアは思い、温めた布を渡す。
「胃が痛みますか」
「いや」
「では、なぜ黙っていらっしゃるのですか」
「あなたが北境に来てから、私が守るものが増えたと思っていた」
リディアは布を畳む手を止めた。
「だが今日、守られているのはこちらでもあると分かった」
馬車の外で、雪解け水が小さく跳ねた。リディアは返す言葉を探したが、見つからなかった。
代わりに、彼の膝に置かれた空の椀を見た。完食している。
それを指摘すると、エルヴィンは少しだけ耳を赤くした。