軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第14話 温脈の帳面

国王の詫び状は、リディアの予想より静かな文だった。

王らしい飾りは少ない。自分の朝を支えてくれたことへの礼。正式な身分と報酬を与えなかったことへの謝罪。無理に帰還を命じないこと。そして、可能ならば食事の助言を続けてほしいという依頼。

最後に、震えた筆跡で一文があった。そなたの母君にも、私はかつて助けられたのかもしれぬ。

リディアはその行を何度も読んだ。

「母を?」

彼女の生母セラは、王宮とは無縁の町の料理人だったと聞かされてきた。薬草を扱い、貧しい病人のために粥や湯を作った。リディアが七歳の時に亡くなり、その後、遠縁だったベルセ子爵家へ養女に入った。

王と母が、どこで関わったのか。リディアは自室へ戻り、母の温脈帳を開いた。

古い紙は、何度も手でめくられたせいで端が柔らかい。文字は細く、ところどころ水滴の跡がある。これまでリディアは、食材と手順の部分ばかり読んでいた。

だが今日は、余白に書かれた日付を追った。十八年前、王都北離宮。

病人、三十代男性。眠れず、胃弱く、甘みで胸焼け。薬を嫌う。朝は白粥、葛湯、乾いた咳には白葉草。名前はない。

しかし年齢と症状は、今の国王とよく似ていた。リディアの指が止まる。

さらに次のページ。王都の方は身分を隠して来られる。食べられた朝に涙をこぼされた。二度目の春には元気になり、もう来ないと言われた。

そして、別の筆跡で短い言葉。セラ。そなたの粥は、人を朝へ戻す。

署名はない。だが、王宮の文書で見た国王の癖に似ていた。リディアは帳面を閉じられなかった。

母は、王を助けていた。だが正式な記録には残っていない。身分を隠して来たなら、礼も報酬も曖昧だっただろう。母はそれを自慢しなかった。リディアにも言わなかった。

なぜだろう。誇れなかったのか。守るためだったのか。それとも、名も残らない仕事に慣れてしまっていたのか。

夕方、エルヴィンが部屋を訪ねた。扉は開けたまま、マルタが少し離れた廊下にいる。礼儀を守った距離だった。

「顔色が悪いと聞いた」

「母の帳面に、陛下らしい方の記録がありました」

リディアは帳面を差し出した。エルヴィンは慎重に受け取った。古い紙を扱う手つきが、意外なほど丁寧だった。

「これは、あなたの母君の仕事の記録だ」

「はい。でも、どこにも名前がありません。母も、王も」

「名を残せない事情があったのかもしれない」

「そうかもしれません。でも、私は少し怖いのです」

リディアは手を膝の上で握った。

「母も、私と同じように、誰かの朝を支えていた。けれど、記録に残らなかった。私も王宮にいたままだったら、同じように消えていたのかもしれません」

エルヴィンは黙って聞いた。すぐに慰めないところが、彼らしかった。

「消えたくないと思うのは、悪いことでしょうか」

「少しも悪いことではない」

答えは短かった。

「人を支える仕事ほど、名を消されやすい。だから残す必要がある」

「名を残すと、傲慢だと言われませんか」

「言う者はいる。だが、傲慢と責任は違う。あなたは責任を取るために名を残す。それは、仕事を次へ渡すためでもある」

リディアは温脈帳を見た。母の文字は、静かだった。

母はきっと、誰かに認められるためだけに粥を作ったわけではない。けれど、認められないままでよかったとも限らない。

リディアは新しい帳面を取り出した。

「温脈帳の写しを作ります。母の名も、私の名も書きます。公爵家用の手順として、誰でも学べる形に」

「手伝えることは」

「公爵様は、まず夕食を完食しないことです」

「まだ言うか」

「体調が戻ってきた頃が一番危ないので」

エルヴィンは少しだけ笑った。その笑みに、リディアの胸の強張りがほどけた。

夜、彼女は母の帳面を写し始めた。最初のページに、こう書いた。

温脈食記。セラ・ベルセより、娘リディアへ。北境ノルドヴァルト公爵家厨房にて改訂。母の仕事は、ようやく名前を持った。