作品タイトル不明
第10話 南門救護所の夜
南門救護所で最初の患者が倒れたのは、雨の夕方だった。北境の雨は冷たい。山から下りる風に混じると、春の終わりでも骨まで染みる。その日、南門の兵たちは訓練のあと、濡れた外套のまま見回りに出ていた。
倒れたのは、兵舎で一度粥を飲んだ少年兵だった。名をユアンという。腕の包帯はまだ取れていない。彼は門の陰で腹を押さえて座り込み、見張りの交代に来た兵が見つけた時には、顔色が紙のように白かった。
知らせを受けたリディアは、厨房から湯壺を抱えて走った。雨の石畳は滑る。マルタが後ろから外套を掛けてくれたが、裾はすぐに濡れた。
救護所に入ると、冷えた空気と汗の匂いが混じっていた。軍医バルトがユアンの脈を診ている。エルヴィンも来ていた。彼自身も濡れているのに、気にした様子がない。
「食中毒ですか」
リディアはまずそれを聞いた。自分の鍋で誰かを傷つけた可能性を、先に確かめなければならない。
バルトは首を振った。
「熱は低い。腹を下してはいるが、毒の反応ではない。冷えと空腹に、古い干し肉を食べたらしい」
リディアはユアンのそばに膝をついた。
「干し肉を食べたのですか」
少年兵は青い唇で答えた。
「すみません……夜番の前に、腹が空いて。先輩が、少しだけならって」
「謝るのはあとです。今は息をゆっくり」
リディアは湯壺を開けた。中身は薄い葛湯だった。生姜は弱く、塩をほんの少し。甘みはない。冷えた体に急に濃いものを入れると、余計に吐く。
「一口だけ。飲み込めなければ舌に乗せるだけでいいです」
ユアンは震える手で器を持とうとしたが、指に力が入らない。エルヴィンが無言で器を支えた。
公爵が少年兵の口元へ器を運ぶ。ユアンは驚いたように目を見開いたが、すぐに一口を飲んだ。喉が動く。
吐かなかった。
「もう一口は、少し待ちましょう」
リディアは濡れた外套を外し、ユアンの腹に温めた布を当てた。バルトが感心したように見る。
「腹を温めるのか」
「冷えた胃腸に湯だけ入れても、外から冷え続けていれば動きません」
「なるほど」
救護所には、同じように冷えと腹痛を訴える兵が三人運び込まれた。全員、濡れたまま見回りに出て、空腹をごまかすために干し肉を噛んでいた。
リディアは湯を分け、症状を見て量を変えた。ひどい者には葛湯。まだ余裕のある者には薄い麦湯。吐き気がある者には香りを抜く。体が震えている者には、足元から温める。
作業は地味で、終わりが見えなかった。だが救護所の空気は、少しずつ変わっていった。
最初は呻き声ばかりだった部屋に、湯を飲む音が生まれる。濡れた外套が干され、替えの布が運ばれ、トマが厨房から焼き戻した黒パンの小片を持ってきた。
「噛みたい人用です。リディア様の言った通り、表面だけ炙りました」
「ありがとう。痛みが落ち着いた人から少しずつ」
エルヴィンはその間、ずっと救護所にいた。彼は指示を出し、兵の家族へ連絡する者を決め、濡れた寝台を替えさせた。何度か咳をしたので、リディアは目で注意した。
「公爵様も、お戻りください」
「まだ動ける」
「動けるかどうかではありません。明日の朝、胃が痛んだら、兵に示しがつきません」
周囲の兵が小さく笑った。エルヴィンは渋い顔をしたが、反論しなかった。
「一刻だけ残る」
「半刻です」
「……半刻」
そのやり取りを聞いたユアンが、弱々しく笑った。
「公爵様が負けた」
「負けていない」
「負けましたよ」
救護所に、久しぶりに軽い空気が流れた。夜半、雨が弱まった頃、ユアンの腹痛は落ち着いた。顔色も戻り、眠りに落ちる。ほかの兵たちも、ひどい者はいない。
リディアは救護所の隅に座り、濡れた袖を絞った。疲れが一気に押し寄せる。
王宮でも、夜明けまで厨房に立つことはあった。だがあの頃の疲れは、誰にも見られないまま床に染み込んでいた。
今は、マルタが温かい外套を肩に掛けてくれる。
「よくなさいました」
その一言で、目の奥が熱くなった。
「私は、鍋を持ってきただけです」
「鍋を持ってくる人がいなければ、兵は一晩苦しみます」
マルタは湯の入った小さな器を渡した。
「リディア様も飲んでください」
自分用に温かいものを受け取ることに、リディアはまだ慣れていなかった。少し離れた窓際で、エルヴィンが雨の上がりかけた空を見ている。半刻で戻ると言ったのに、結局彼も残っていた。
リディアが近づくと、彼は静かに言った。
「あなたの食事は、戦場の後始末にもなるのだな」
「戦場に行ったことはありません」
「だから見えるものもある。兵は、腹が痛いくらいで弱音を吐けない。あなたはそれを弱音にしないで、手順に変える」
リディアは湯の器を両手で包んだ。
「王宮では、細かいと言われました」
「細かいものを見落とすと、人は倒れる」
エルヴィンの声は、雨の後の空気のように低く澄んでいた。
「北境には、その目が必要だ」
必要。その言葉が、リディアの胸の奥にゆっくり染みた。
王宮では、必要なのはいつも彼女の手順だった。ここでは、彼女の目まで必要だと言われた。
夜明け近く、救護所の窓に薄い光が差した。ユアンが目を覚まし、かすれた声で言った。
「お腹が、空きました」
それを聞いた瞬間、リディアは笑った。南門救護所の夜は、粥の小さな勝利で終わった。