作品タイトル不明
第9話 香薬商会の甘い匂い
ガレア香薬商会の荷が届いたのは、召喚状への返書を出した翌日のことだった。北境の城門前に、赤い幌を掛けた馬車が三台止まった。幌には金糸で花の紋が刺繍され、荷台からは甘い香りが漏れている。王都の貴族街で好まれる、華やかで濃い匂いだった。
リディアは薬草畑の土を払った手を洗い、マルタと一緒に荷受け場へ向かった。
商会の代表は、薄い笑みを浮かべた男だった。名をヴィクトル・ガレアという。指には大きな紅玉の指輪、外套には香の匂い。北境の冷たい風の中で、彼だけが王都の温室から出てきたように見えた。
「これはこれは、マルタ様。今月の香薬をお持ちしました。王都では品薄でして、北境まで回すのに苦労しましたよ」
「注文したのは乾燥白葉草と甘草、胃薬用の苦木皮です。香水用の花粉ではありません」
「もちろんでございます。ただ、王都の流行に合わせまして、花蜜湯の壺も少々。喉を潤し、心を明るくする名品です。王太子妃候補のミレーヌ様もお使いで」
リディアは男の手元を見た。壺の封は美しい。だが薬草の袋は、口が甘い香で汚れている。乾燥品は匂いを吸う。胃を整える白葉草に強い花香が移れば、効き方が変わる。
「その袋は、花蜜湯と同じ箱に入っていましたか」
ヴィクトルは初めてリディアを見た。
「おや。こちらの可憐なお嬢様は?」
「客員厨師のリディア・ベルセ様です」
マルタが紹介すると、男の目に一瞬、計算が走った。
「ベルセ……ああ、王宮で朝食を作っていた方ですか。噂は聞いております。身分違いの台所仕事をなさっていたとか」
マルタの目が冷えた。リディアは静かに答えた。
「台所仕事をしております。今も」
「それは失礼。ですが、薬草は専門商会に任せた方がよろしい。北境の古い畑で採れる草など、王都の品質には及びません」
「王都の品質とは、香りの強さですか。それとも成分の安定ですか」
ヴィクトルの笑みが少し固まった。
「もちろん、どちらも」
「では、袋を開けて確認します」
「お待ちください。封を開ければ返品は」
「使う前に確認できない薬草は、病人食には使えません」
リディアは袋のひとつを取り、マルタの許可を得て紐を解いた。甘い匂いが鼻を刺す。
白葉草のはずなのに、花蜜湯の香が移っていた。葉の色も少し悪い。湿気を吸っている。リディアは葉を一枚、白い皿に置いた。
「これは使えません」
「神経質な」
「胃を傷めた人には、香りだけで吐き気が出ることがあります。公爵様にも兵の方々にも使いません」
ヴィクトルは肩をすくめた。
「北境は贅沢ですね。王宮では花蜜湯が喜ばれているというのに」
「国王陛下は咳き込まれました」
男の目が細くなった。
「王宮の内情を軽々しく」
「軽々しく扱ったのは、その壺を朝の病人食に勧めた方です」
荷受け場に沈黙が落ちた。リディアは、自分の心臓が少し早く打っているのを感じた。王宮なら、商会の男にここまで言えば後ろ盾を失う。だがここでは、マルタが隣に立ち、城門の兵が見ている。
ひとりで言っているのではない。
「ヘンリック様を呼んでください」
マルタが兵に命じた。補給官が来ると、リディアは葉の状態と匂い移りを説明した。ヘンリックは商会の納品書を確認し、すぐに眉を寄せた。
「価格が先月の二倍だ」
「王都の品薄で」
「品質が落ちて価格が上がるなら、契約違反です」
ヴィクトルの声から余裕が消えた。
「北境が王都商会との取引を失ってもよろしいのですか」
そのとき、エルヴィンが城門の内側から現れた。外套の裾を風になびかせ、ゆっくり歩いてくる。まだ病み上がりだが、その一歩ごとに兵たちの背筋が伸びた。
「取引を失うのは、契約を守らない商会だ」
ヴィクトルは慌てて礼をした。
「公爵様。これは誤解で」
「誤解なら、次の荷で証明しろ。今回は不良品として受け取らない。花蜜湯も不要だ」
「しかし、王都では」
「ここは北境だ」
短い言葉が、門の石壁に響いた。ヴィクトルは唇を噛み、壺を荷台に戻した。馬車が去る時、甘い匂いだけがしばらく残った。
リディアは息を吐いた。
「申し訳ありません。取引を難しくしたかもしれません」
「難しかったものが見えただけだ」
エルヴィンは、白い皿の上の葉を見た。
「あなたが見なければ、兵の鍋に入っていた」
「香りが悪いだけで、毒ではありません」
「毒でなければ問題ないという考えが、病人を弱らせる」
その言葉は、リディアの胸に深く残った。王宮では、花蜜湯は毒ではなかった。ミレーヌも、殺すつもりで勧めたわけではないだろう。けれど、弱った国王には合わない。合わないものを美しいからと押しつけるのは、ゆっくり体を削る。
午後、リディアは薬草畑へ戻った。王都商会に頼らないためには、北境の畑を本気で再生しなければならない。
土を掘り返すと、白葉草の根が何本か無事に残っていた。細く、頼りない。それでも生きている。リディアは根元に水をやり、風よけの枝を立てた。
甘い匂いの壺より、この小さな根の方が、ずっと確かに思えた。