軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 再構築された関係と、プロポーズの予感

翌日。

私の城である第二図書室は、不自然なほど静まり返っていた。

いつもなら、午後二時には扉が開き、疲れた顔のクマさんがやってくるはずの時間だ。

けれど、今日は時計の針が三時を回っても、ノックの音ひとつしない。

「……静かすぎる」

私は読みかけの本を閉じた。

求めていた静寂のはずなのに、なぜか落ち着かない。

昨夜の夜会で、あんなに堂々と私を庇ってくれた彼の姿が脳裏をよぎる。

『彼女は私の大切なゲストだ』

その声の熱が、まだ耳に残っている。

コンコン。

控えめなノック音。

彼かと思って勢いよく立ち上がると、入ってきたのは見知らぬ侍従だった。

「エリアナ様でいらっしゃいますね。……クロード殿下が、倒れられました」

その瞬間、私の心臓がドクリと嫌な音を立てた。

私は急いで荷物をまとめ、図書室を出た。

「定時退社」以外の理由で職場を離れるなんて、就職以来初めてのことだ。

案内されたのは、王宮の奥深くにある王弟殿下の私室。

重厚な扉の前で、侍医が「熱は下がりましたが、疲労が蓄積しておりまして……」と小声で説明してくれた。

「失礼します」

中に入ると、そこは広いだけで殺風景な部屋だった。

装飾品は最低限。

代わりに、ベッドサイドのテーブルまで書類が侵食している。

……この人は、寝る直前まで仕事をしていたのか。

「……エリアナ、か?」

ベッドの中から、掠れた声がした。

クロード様は上体を起こそうとして、力なく枕に沈んだ。

顔は赤く、呼吸が浅い。

昨夜の凛々しい騎士姿とは別人のように弱々しい。

「動かないでください。お見舞いに来ただけですから」

私はベッド脇の椅子に腰を下ろした。

彼はバツが悪そうに視線を逸らした。

「すまない。……昨夜、大見得を切った翌日にこれだ。格好がつかないな」

「人間、無理をすればガタが来ます。特に、嫌な奴(カイル様)の相手をした後は」

私が軽口を叩くと、彼はふっと小さく笑った。

「……君は、強いな」

「いいえ。私はただ、逃げるのが上手いだけです」

「それが強さだよ。……私は、逃げられない」

彼の声が、急に重く沈んだ。

熱のせいで、心の防壁が薄くなっているのかもしれない。

彼は天井を見上げ、ぽつりぽつりと語り始めた。

「兄上は偉大な王だ。私はその影として、完璧な補佐役でなければならない。……少しでも手を抜けば、国が傾く。カイルのような未熟者が王位を継ぐ時、私が支えなければこの国は終わる」

期待。責任。義務。

それらが何重にも鎖となって、この人を縛り付けている。

「私は君のように、自由に生きられない。……時々、息の仕方を忘れそうになるんだ」

彼の吐露は、かつての私の言葉そのものだった。

前世の私。

そして、婚約者として完璧であろうとした、昨日の私。

「……馬鹿ですね」

私は短く言った。

彼は驚いたように私を見た。

「馬鹿、か。……そうかもしれないな」

「完璧な人間なんていません。貴方が倒れたら、誰が困ると思いますか?」

「……国民、兄上、それに……」

「私が困ります」

私は彼の言葉を遮った。

「貴方がいないと、お茶のお菓子が余ってしまいます。それに、図書室が静かすぎて、逆に落ち着きません」

「……それは、困るな」

「でしょう? だから、休む時は休んでください。それは『サボり』ではなく、明日のための『メンテナンス』です。……仕事道具(貴方自身)の手入れを怠る職人は、二流ですよ」

私の持論(という名の言い訳)を展開すると、彼は目を丸くし、それから喉の奥で笑った。

「くく……っ、ははは! 二流か。……宰相の私を捕まえて、そんなことを言うのは君くらいだ」

「事実ですから」

私は立ち上がり、部屋の空気を吸い込んだ。

薬臭くて、淀んでいる。これでは治るものも治らない。

「《 洗浄(クリーン) 》」

指を鳴らす。

部屋全体に風が巡り、淀んだ空気が浄化される。

窓から差し込む光が、少しだけ明るくなった気がした。

「……空気が、美味しい」

クロード様が深呼吸をした。

「はい。次は栄養補給です」

私はバスケットからリンゴを取り出した。

ミナさんが「風邪にはこれだよ」と持たせてくれたものだ。

ナイフを取り出し、手際よく皮を剥いていく。

シュルシュルと赤い皮が剥がれ、ウサギの形に切り分けられる。

「どうぞ。あーん、はしませんよ。自分で食べてください」

皿を差し出すと、彼は苦笑しながらフォークを取った。

シャク、という音。

「……甘い」

「でしょう。美味しいものを食べて、綺麗な空気を吸って、寝る。それが一番の薬です」

彼がリンゴを食べるのを見届け、私は帰り支度を始めた。

長居は禁物だ。

病人は寝るのが仕事だから。

「では、私はこれで。……明日は図書室で待っていますから」

背を向けようとした、その時だった。

ギュッ。

手首を掴まれた。

熱い手だった。

「待ってくれ」

振り返ると、クロード様が熱っぽい瞳で私を真っ直ぐに見上げていた。

その目には、弱さではなく、縋るような、それでいて強い意志が宿っていた。

「……もう少しだけ、ここにいてくれないか」

「ですが、お身体に障ります」

「……君がそばにいると、私は……」

彼は言葉を探し、そして一番しっくりくる言葉を見つけたように微笑んだ。

「君といると、息ができるんだ」

ドキリと、心臓が跳ねた。

それは、どんな愛の言葉よりも切実で、私の胸に深く刺さった。

息ができる。

かつて窒息しそうだった私が、図書室という場所を見つけて救われたように。

彼にとっての「息ができる場所」は、図書室ではなく――私自身だったのか。

「……仕方ありませんね」

私は溜息をつくふりをして、再び椅子に座り直した。

掴まれた手は、離されなかった。

彼の体温が、掌を通して伝わってくる。

「眠るまでですよ」

「ああ。……ありがとう、エリアナ」

彼は安心したように目を閉じた。

握る手の力は弱まったが、指と指を絡めるようにして、離さない。

寝息が聞こえてくるまで、そう時間はかからなかった。

私はその寝顔を見つめながら、自分の顔が熱くなっているのを自覚した。

(……これじゃあ、どっちが看病されているのか分からないじゃない)

もう、「仕事仲間」とは呼べない。

「クマさん」とも呼べない。

この感情に名前をつけることを、私は恐れ、そして同時に期待していた。

彼の手の温もりが、私に教えてくれている。

「頑張らなくていい」という私の生き方を、誰よりも必要としてくれる人が、ここにいるのだと。

窓の外では、夕暮れの鐘が鳴っていた。

それは、私たちの関係が新しい段階へと進む、始まりの合図のように聞こえた。

そして、回復した彼が次に図書室へやってくる時。

その手には書類ではなく、人生を変える「契約書」が握られていることを、私はまだ知らない。