軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 壁の花の幸福論

王宮の大広間は、シャンデリアの光と、着飾った貴族たちの熱気で満ちていた。

香水の匂い。

グラスが触れ合う音。

オーケストラの優雅な調べ。

かつての私なら、この場に足を踏み入れただけで胃が痛くなっていただろう。

「誰に挨拶すべきか」「今の派閥図はどうなっているか」。

そんな情報処理で頭がパンクしそうになっていたからだ。

けれど、今は違う。

「……クロード様。あちらに見える山が、例のモノでしょうか」

「ああ。約束通り、シェフが切り分けて待っている」

私の視線の先には、パートナー専用ラウンジのビュッフェ台。

そこに鎮座する、艶やかな肉の塊。

「行きますか」

「はい、直ちに」

私はクロード様のエスコートを受け、優雅に(しかし心持ち早足で)会場を横切った。

周囲からの視線が突き刺さる。

ひそひそ話す声が聞こえる。

『あれは、ベルンシュタイン侯爵家の……』

『婚約破棄されたはずでは?』

『なぜクロード殿下の隣に?』

『それにしても、あのドレス……見たことのない光沢だわ』

好奇心、侮蔑、困惑。

様々な感情が混ざった視線だ。

だが、今の私にはそれらが「 背景(モブ) 」にしか見えない。

今の私にとっての主役は、ローストビーフただ一つなのだから。

案内されたのは、会場の隅にある一段高いバルコニー席だった。

ふかふかのソファ。

目の前には、私とクロード様のためだけに用意された料理の数々。

「どうぞ。君の特等席だ」

クロード様が椅子を引いてくれる。

私は礼を言って座り、さっそくシェフに目配せをした。

シェフが恭しく皿を差し出す。

そこには、分厚くスライスされたローストビーフが三枚。

トリュフの香りが漂うソースがたっぷりとかかっている。

「……頂きます」

ナイフを入れる。

抵抗なく切れる柔らかさ。

口に運ぶ。

「んっ……!」

噛んだ瞬間、肉汁が溢れ出した。

赤身の旨味と、脂の甘み。

濃厚なソースが絡み合い、口の中が天国になる。

「どうだ?」

隣でワインを傾けているクロード様が、楽しげに聞いてくる。

私は口元をナプキンで押さえ、親指を立てた。

言葉はいらない。

「それは良かった。……足を休めていてくれ。私は少し、挨拶回りをしてくる」

「行ってらっしゃいませ(ごゆっくり)」

クロード様は席を立った。

王弟として、主催者側の挨拶は避けられない義務だ。

私は一人残されたが、寂しくなどない。

むしろ、誰の目も気にせず肉と向き合えるボーナスタイムだ。

私は二枚目の肉にナイフを入れた。

幸せだ。

ドレスも苦しくないし、靴擦れもない。

ただ美味しいものを食べて、座っているだけでいい夜会なんて、前世を含めて初めてかもしれない。

そう、平和を噛み締めていた時だった。

「……こんなところにいたのか」

頭上から、不愉快な声が降ってきた。

聞き覚えがありすぎる声だ。

顔を上げると、そこにはカイル王太子殿下が立っていた。

後ろには、おどおどした様子のマリエル様と、数人の取り巻きを引き連れている。

「こんばんは、カイル殿下」

私はナイフを置いた。

ああ、肉が冷めてしまう。

「貴様、招待状もなしに紛れ込むとは、どこまで厚顔無恥なのだ。ここは王族のための席だぞ」

カイル様は見下すような目で私を見た。

「警備兵に摘み出される前に、自分から出て行ったらどうだ? ……ああ、それとも残飯を漁りに来たのか?」

取り巻きたちが下品に笑う。

典型的な悪役ムーブだ。

教科書通りの台詞すぎて、逆に感心してしまう。

私は慌てず、口元のソースを拭った。

「ご心配には及びません。正式なパートナーとして招かれておりますので」

「パートナーだと? 誰の?」

「クロード殿下です」

私が答えると、カイル様は一瞬ぽかんとし、次の瞬間に噴き出した。

「叔父上の!? はっ、まさか! あの仕事人間が、貴様のような無能な女を相手にするものか! 嘘をつくならもっとマシな嘘を――」

「嘘ではない」

凛とした声が、喧騒を切り裂いた。

カイル様の笑いが凍りつく。

人垣が割れ、クロード様が戻ってきた。

その表情は、先ほど私に見せていた穏やかなものではなく、氷のように冷徹な「宰相の顔」だった。

「お、叔父上……?」

「彼女は私の大切なゲストだ。何か文句があるのか、カイル」

クロード様は私の隣に立ち、守るように片手をソファの背に置いた。

その威圧感に、カイル様が一歩後ずさる。

「い、いえ……ですが、なぜこいつを? こいつは以前、私の補佐すら満足にできなかった無能ですよ? 王家の夜会に相応しいとは……」

「無能?」

クロード様は片眉を上げた。

そして、わざとらしく大きな声で言った。

「お前は知らないのか? 今、王宮の知恵袋として学者たちが日参している『第二図書室の賢者』の正体が、彼女であることを」

ざわっ、と周囲が揺れた。

『えっ、あの噂の……?』

『失われた条約を見つけ出したという?』

『まさか、彼女が?』

カイル様が目を白黒させる。

「は? け、賢者……? 何を言って……」

「彼女の構築した知識管理システムのおかげで、我が国の行政処理速度は三倍になった。先日の条約紛失騒ぎを解決したのも彼女だ。……彼女がいなければ、今頃この国は帝国と戦争になっていただろうな」

クロード様は淡々と、しかし決定的な事実を並べ立てた。

「彼女は無能どころか、この国にとって欠かせない『知の管理者』だ。それを『無能』と呼ぶのなら……彼女の功績に気づけず、手放したお前の目は節穴だと言っているようなものだが?」

「なっ……ぐ、う……」

カイル様の顔が、赤から青、そして白へと変わっていく。

周囲の視線が、「哀れな女を見る目」から、「無能な王太子を見る目」へと反転していくのが分かった。

「そ、そんな馬鹿な……。こいつはただ、無表情で、可愛げがなくて……」

カイル様は震える指で私を指差した。

まだ現実を受け入れられないらしい。

私は小さくため息をつき、フォークを手に取った。

肉が完全に冷めてしまった。

それが悲しい。

「……殿下。冷めたお肉は美味しくありません」

私はカイル様ではなく、クロード様に話しかけた。

空気の読めない発言に、周囲が静まり返る。

しかし、クロード様だけは、ふっと表情を緩めた。

「……そうだな。すまない、シェフに新しいものを用意させよう」

彼はカイル様に向き直り、冷ややかに告げた。

「聞いた通りだ。彼女は食事中だ。……去れ」

「っ……!」

カイル様は屈辱に顔を歪め、踵を返した。

マリエル様が慌てて後を追う際、私に向かって小さく手を合わせて「ごめんなさい」というジェスチャーをしたのが見えた。

彼女も苦労しているらしい。

嵐が去った。

静寂が戻る。

「……やってしまいましたね」

私は新しいローストビーフ(温かい!)を受け取りながら言った。

「あんなに持ち上げて。明日から、また学者たちが押しかけてきますよ」

「構わないさ。その時は私が追い払う」

クロード様は隣に座り、自分のグラスを掲げた。

「それに、事実だ。……君はすごい」

彼は真っ直ぐに私を見た。

その瞳には、社交辞令ではない、確かな熱が宿っていた。

「君が隣にいてくれると、私は背筋が伸びる。そして同時に……とても安らぐんだ」

「……お世辞がお上手で」

私は照れ隠しに肉を頬張った。

けれど、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

ざまぁ?

復讐?

そんなことはどうでもいい。

カイル様がどう思おうと、周囲がどう評価しようと。

今、ここで美味しいものを食べて、隣に心地よい人がいて、足が痛くない。

それが「事実」だ。

「……美味しいですね」

「ああ、美味しいな」

私たちは顔を見合わせ、小さく笑い合った。

会場の喧騒は、もう遠い世界の出来事のようだった。

私は気づいた。

「幸せ」とは、誰かに勝つことじゃない。

自分の好きな場所で、好きなように息ができることなのだと。

壁の花?

上等だ。

こんなに美味しい花なら、私は一生ここで咲いていたい。

そう思っていた私の元に、翌日、さらなる衝撃のニュースが飛び込んでくることになる。

「クロード殿下が過労で倒れた」という、笑えない知らせが。

私の「安らぎ」を提供してくれていた彼が、限界を迎えていたなんて。

ローストビーフに浮かれている場合ではなかったのだ。