作品タイトル不明
3-24.心を守るのは
わたしとノアの事をちゃんと知らないくせに。
あの時、わたし達が何を思っていたのか……苦しくて、辛くて、それでも一緒に乗り越えてきた事を知らないくせに。
かっとなって、立ち上がりそうになったわたしの腕を掴んだのはノアだった。
離して欲しくてそちらを見るも、ノアの顔には何の表情も浮かんでいなかった。夕星も凪いでいる。
そんなノアを見ていると、燃え上がるような怒りの感情が落ち着いていくのがわかった。それでも怒りが消えたわけじゃない。胸の奥で、苛立ちが静かに渦巻いている。
浮いた腰をまた椅子に落ち着けると、腕を掴んでいた手が離される。今度はわたしがそれを追いかけて、ノアと手を繋いだ。
「ノアはわたしを守ってくれているし、彼と一緒に居るからわたしが潰れるなんて事はないわ」
紡いだ言葉は自分でも予想外なほどに静かな声色だった。
繋いだ手に、ノアがぎゅっと力を込める。それに応えるよう、わたしも強く握り返した。
「お前はそうやって庇うけど、嫌な思いをした事もあるだろう。たぶんそれは一度や二度じゃないはずだ。アインハルト殿にお前が釣り合っていないのは分かってるだろ? 俺はお前が心配なんだ」
「余計なお世話よ」
エミルの言葉に嘘はないのだろう。
彼はきっと本当にわたしの事を心配している。
「嫌な思いも不安になる事も、生きていたら避けては通れない事よ。それは別にノアに関わる事じゃなくたって、たくさんあるもの。全てから逃げ続けるわけにはいかないし、彼に関しての事なら猶更逃げるわけにはいかないわ」
一度言葉を切って、わたしはカップを手にした。
少し冷めたミルクティーで喉を潤してから、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
「不安も痛みも彼と分け合うの。楽しいも幸せも二人で共に積み上げていくの。わたし達はそう在りたいと思っているし、わたしは……彼とならそれを叶えられると思ってる。それに一番大事なのはね、わたしがノアの事を好きだから一緒に居るっていう事よ。釣り合うとかそういうのは、些細な事にしか過ぎなくて。わたしがノアを好きで、ノアはわたしを好きだって……だから一緒に居るの。それ以上大事な事なんてないんじゃないかしら」
「そう簡単にいかない事なんて分かってるだろ。子どもの恋愛じゃあるまいし、泣きを見るのはお前なんだぞ」
エミルは眉を寄せ、諭すように言葉を紡ぐ。
結局は平行線をたどるのだ。わたしの思いがエミルに伝わる事はないと思う。
考え方が違うのだから、それはもうきっと……どうしようもない。埋まらない溝を埋めようと努力しても実らない事もあるのだ。
「エミルに理解されなくても構わない。わたしとノアは幸せに過ごしてるから、それでいいの」
「お前なぁ──」
まだ言い募ろうとするエミルの声を遮ったのは、喉奥で響くようなノアの笑い声だった。
先程よりも表情は和らぎ、頬はうっすらと色付いているようにも見える。口元は弧を描き、その瞳は蕩けるような甘さを帯びていた。
「俺の心はいつだってお前が守ってくれるな」
あまりにも嬉しそうにノアが笑うから、先程までの怒りの感情が、まるで風船から空気が抜けるように萎んでいく。
繋いだままの手をテーブル下から持ち上げたノアは、わたしの指先にそっと口付けた。慈しむような優しい仕草に、胸の奥が切なくなってしまう。
「ヴェヒター殿、あなたがアリシアを心配する気持ちも分からないでもないですが……俺はアリシアを裏切る事はありません。彼女を幸せにしたいと思っているし、それが出来るのは俺だけです」
「自惚れでは? あなたならどんな美女だって選び放題でしょう」
「だからアリシアを選んだんですが。アリシア以上の人なんていない。彼女が俺の傍にいないのなら、この世界を恨んで死んでいくくらいに溺れているんです。なので──これ以上、俺の可愛い妻を苛めないでもらえますか」
そんな場合じゃないのに、ノアの言葉に顔が赤くなるのが分かった。
こんな熱烈な想いを口にされて、嬉しくないわけがないもの。
エミルの言葉は相変らず棘を孕んでわたしを苛むけれど。ノアの言葉で全てがはらはらと落ちていくように思えた。
嬉しくて、少し恥ずかしいけれど、それ以上に幸せな気持ちで満たされる。
わたしに目を向けたノアが、ひどく優しい顔をしていたから、少し泣きたくなってしまった。
エミルはそれ以上何も言えずに、手元のカップに視線を落とした。
カップの持ち手に指を掛けているけれど、持ち上げる事もせず何かを考えているようにも見える。
美味しいカヌレとミルクティーで、もっとゆっくりしたかったけれど。
もうお店を出た方がいいかもしれない。そう思った時だった。
「あら? エミルじゃない?」
艶のある、滑らかな声だった。少し低めで耳触りの良い声。
そちらへと顔を向けると、美しい人がこちらのテーブルに近付いてくるところだった。
華やかなデイドレスに身を包み、後ろには侍女が控えている。貴族令嬢なのは間違いないだろう。
波打つ赤い髪を背に流し、笑みを浮かべる唇は厚く色気を感じさせる。緑色の瞳は長い睫毛に縁取られ、瞬きをする度に白い頬に影を落とした。
「レイラ様」
立ち上がろうとするエミルを手で制したご令嬢は、ゆったりとした仕草でわたし達へと顔を向ける。
「こちらは?」
「私の友人夫婦です。こちらはジョエル・アインハルト殿。それからアリシア・アインハルト夫人です」
「はじめまして、わたくしはレイラ・スカビオサよ」
「お会い出来て光栄です」
わたしはノアと共に立ちあがった。胸に手を当て、ノアの言葉に合わせて頭を下げる。
スカビオサという事は、この人が──マスターの婚約者候補だった人なのだろう。
「楽になさって。ご歓談の邪魔をしてしまったわね。……ねぇ、あなた達はもしかしてルガリザンドからいらっしゃってるという、リガス殿下のお客様かしら」
「はい」
「そう。……ではあなた達にお願いがあるのだけど」
「レイラ様」
「エミル、あなたは黙っていて」
レイラ様の登場はエミルにとっても不本意だったのか、その顔色が悪いように見える。
何を言われるのか分からないけれど、きっと良い話ではなさそうだ。そう思ったわたしは知らず内に細い息を吐き出していた。
「あのね、リガス殿下と会うのはやめてほしいの」
「それは出来かねます。私達はリガス様とその奥方に依頼をされていますから」
「会わないでルガリザンドに帰るだけでいいのよ。難しい話じゃないでしょう? 望みがあれば叶えてあげるけれど……」
「リガス様が望まれる限り、私も妻もリガス様の為に動くつもりでおります」
レイラ様は深い溜息をつくけれど、その表情は美しい笑みの形のままだ。それがなんだか恐ろしくて、背筋が震えた。
「リガス殿下はもうルガリザンドに帰れないのにね。あなた達が期待を持たせるのは可哀想であるのだけれど……まぁいいわ。エミル、あなたも ちゃんと(・・・・) しなさいね」
「……承知しております」
くすくすと笑ったレイラ様は、侍女を連れて去っていく。
お店に来たばかりのはずなのに、席に着かず店員が案内する素振りもなかった。
つまり……お茶を楽しみに来たわけじゃなくて、わたし達に会いに来たのだ。マスターと会わないように告げるために。
エミルを見ると、気まずそうに眉を下げている。
何と言っていいか分からずに、また椅子に座ったわたしはミルクティーを飲み干した。