作品タイトル不明
第7話 身代わりの花嫁は、もう実家の都合では動きません
母へ返書を出してから四日後、屋敷の朝は少しだけ静かになっていた。
雪は相変わらず降る。
でも、倉庫番が「何がどこにあるか分からない」と走り込んでくる回数は減ったし、北の小集落から「毛布がまだ届かない」と泣きつかれることもなくなった。
帳面の札が増え、配る順番が決まり、誰が何を先に触るかがはっきりしただけで、冬の空気は驚くほど穏やかになる。
地味な変化だ。
でも、こういう変化のほうが私は好きだった。
「奥様、南の外れは今朝の分で足りました」
サラが頬を赤くしながら報告する。
彼女は最初のころよりずっと動きが早くなった。
札の色も覚えたし、どの家の窓布が薄いかまで先に見てくるようになった。
人は、自分のすることに意味があると分かると、ちゃんと頼もしくなる。
「よかった」
私は帳面へ印をつける。
「じゃあ次は北の坂道沿いね。風が変わったから、あちらの火床石が先に減るはずよ」
「はい!」
サラが元気よく返事をして走っていく。
その背を見送りながら、私は少しだけ口元を緩めた。
辺境へ来たばかりの頃には、こんなふうに自然に指示を出している自分を想像していなかった。
ここはあくまで身代わりで来た場所で、一年も経てば私はいなくなるのだと思っていたからだ。
でも今は、少なくとも《《今日》》の私はここで必要とされている。
それだけで、随分違う。
「奥様」
今度はハロルド老執事が近づいてきた。
白い息の向こうで、その顔がいつもより少しだけ険しい。
「ご実家の馬車が到着しました」
私は手元の帳面を閉じた。
やはり、と思う。
手紙一通で引き下がる家ではないと分かっていた。
だから驚きはしない。
ただ、思ったより早かったとは思う。
「三人とも?」
「はい。伯爵、奥方様、妹君」
私は深く息を吐いた。
それなら話は早い。
どうせ家の誰か一人が来ても、残り二人の本音を後から運んでくるだけだ。
最初から全部出してもらったほうがまだ楽だった。
「応接間へ」
私がそう言うと、ハロルドは一礼する。
その動作に、余計な詮索は一切ない。
ありがたいと思う。
王都では、家族の訪問ひとつで侍女も執事も妙に空気を読み、誰が怒っていて、誰が可哀想かを勝手に決めた。
ここでは違う。
来たなら通す。
それだけだ。
応接間へ入ると、母は最初に暖炉へ目をやった。
次に壁際の棚、窓辺の帳面台、そして敷物の厚み。
父は一度だけ天井梁を見上げ、続いて部屋の広さと手入れの具合を測るように視線を動かした。
エミリアだけが、最初から私しか見ていなかった。
「お姉様」
彼女は私を見るなり、少しだけ声を震わせた。
でも、その震えに罪悪感より悔しさのほうが多いことを、私はもう知っている。
「来てくださったのね」
「呼ばれたのはそちらでしょう」
私は応接間の中央へ進み、一礼だけして向かいへ座る。
「何のご用件かは、だいたい想像しています」
母が扇を開きかけ、でも今日はやめた。
王都の居間ならともかく、辺境侯家の応接間ではその仕草が少し浮くと感じたのかもしれない。
「エレミア」
父が先に口を開いた。
「手紙は読んだな」
「ええ」
「状況が変わった」
やはりそう来るか、と思う。
私は何も言わず続きを待った。
「エミリアの縁談は、ほぼ破談だ」
妹の肩がびくりと揺れる。
だが、泣かない。
よほど悔しいのだろう。
「侯爵家は、こちらへ追加の持参金を求めてきた」
父は続けた。
「しかも支度の帳面や衣装の管理まで細かく口を出してくる。お前が手伝えば、まだ立て直せるかもしれん」
「立て直す必要はありますか」
私が静かに訊くと、父は眉をひそめた。
想定外の問いだったのだろう。
「何だと」
「持参金を増やし、帳面までこちらが整えなければ成立しない縁談なら、最初から良縁ではなかったのではないですか」
母が息を呑む。
エミリアは真っ赤になった。
「お姉様、そんな言い方」
「違う?」
私は妹を見る。
「あなたはその家の華やかさが気に入ったのでしょう。でも、向こうが欲しかったのはあなた一人ではなく、追加の金と、支度を整える手でもあった」
エミリアの唇が震える。
でも、もう慰めるつもりはなかった。
「だからこそ、お姉様が少し手伝ってくださればと」
母が慌てて言葉を継ぐ。
「あなたは昔から、こういう帳面や支度の整理が得意でしょう?」
昔から。
こういう支度の整理が得意。
つまり、また同じだ。
華やかな妹の縁談の裏を、聞き分けの良い姉が支える。
家にとっては、それが一番きれいな形なのだろう。
「お断りします」
私は即座に言った。
母も父も、一瞬だけ固まる。
エミリアは信じられないものを見る顔をした。
「どうして!」
妹が声を上げる。
「お姉様、昔はもっと――」
「昔はやっていたわ」
私は頷く。
「でも今はやらない」
「どうして」
そこだけ、彼女は本当に分からない顔をした。
たぶん心から理解できないのだ。
昔なら手伝ってくれたことを、なぜ今は断るのかを。
「私はもう、実家の都合で動くつもりがないからよ」
応接間が静まる。
暖炉の火だけが、小さく鳴った。
「お姉様は身代わりでここへ来たのに」
エミリアが低く言う。
「もともとは、わたくしへ来るはずだった縁談でしょう?」
その一言で、空気がまた一段冷えた気がした。
やはり、そこを口にするのだ、この子は。
「ええ」
私は答える。
「最初はそうだったわ」
「なら、今からでも――」
エミリアが息を吸う。
「今からでも、わたくしと入れ替われるのではないかしら」
母がはっとして妹を見る。
父も何か言いかけたが、止めなかった。
つまり、程度の差こそあれ、本音では似たようなことを考えていたのだろう。
私はそれを見て、怒るより先に、きれいに納得してしまった。
この人たちは最後まで、縁談を《《箱ごと入れ替えられるもの》》としか思っていないのだ。
「入れ替わる?」
私は静かに聞き返す。
「ええ」
エミリアは、今さら少しだけ勢いを得たらしい。
「だって、お姉様はもともと私の代わりだったでしょう? なら、今は本来の相手であるわたくしが」
「無理よ」
私は途中で止めた。
声を荒げたわけではない。
でも、自分でも驚くほどきっぱり言えた。
「どうしてよ!」
「結婚は衣装じゃないから」
私は答える。
「座る席も、着るドレスも、立場も、全部まとめて入れ替えれば済むと思っているなら、それはあなたが何も見ていない証拠よ」
エミリアが言葉を失う。
母も父も黙った。
だから私は続ける。
「私はここで、倉の鍵を預かっている。冬支度の順番も、物資の配分も、誰の家が先に冷えるかも、もう私の仕事として動いている」
一呼吸置く。
「いまさら《《本来は妹の縁談だったから》》と入れ替えられるほど、この家は軽くないわ」
「お姉様ばっかり」
エミリアが、ついに泣き声を混ぜた。
「お姉様ばかり、いい場所を取って……!」
「違う」
私は首を振る。
「私はここへ来て、やるべきことをやっただけよ」
それだけだ。
倉を見た。
毛布を配った。
火床石を回した。
帳面をつけた。
その結果、ここにいる。
それを《《運が良かった》》の一言で片づけさせるつもりはもうなかった。
そのとき、扉が静かに叩かれた。
私は振り向かなくても、誰だか分かった気がした。
この家で、必要なときだけきちんと現れる人のノックの音は、もう覚えてしまっていたからだ。
「入ってください」
扉が開く。
アシュレイ様だった。
いつものように無駄のない顔で、でも応接間の空気を一目で読んだのが分かる目をしている。
「邪魔をしたか」
「いいえ」
私は立ち上がる。
「ちょうど話が終わるところでした」
「終わっていないわ!」
エミリアが、ほとんど叫ぶように言った。
「グランフェルト辺境侯様! もともとここへ嫁ぐはずだったのは、わたくしなのです!」
母が青ざめ、父が目を閉じた。
でも、もう遅い。
エミリアはついに全部口にした。
「お姉様は、ただの身代わりだったのよ!」
アシュレイ様はその言葉を、ひどく静かな顔で聞いた。
怒っているようには見えない。
でも、その静けさが一番怖い種類のものだと、私は少しずつ知っている。
「そうか」
彼は短く言った。
それから、まっすぐエミリアを見た。
「最初の話はそうだったかもしれない」
エミリアの目がかすかに光る。
希望が見えたとでも思ったのだろう。
でも、次の一言でそれは綺麗に消えた。
「だが、私が妻に迎えたのはエレミアだ」
応接間が静まり返る。
母も父も、声も出ない。
エミリアだけが、信じられないように首を振った。
「でも、お姉様は代わりで」
「代わりではない」
アシュレイ様は言った。
「この家の倉を見て、冬支度を立て直し、領民の配分まで動かしたのは彼女だ。今ここで私の隣に立つのも彼女だけだ」
その声に飾りはなかった。
だからこそ、逃げ道もなかった。
「いまさら入れ替える話ではない。私はそのつもりはない」
母が、ようやくかすれた声を出した。
「グランフェルト辺境侯様、でもエミリアはまだ若く、華やかで……」
「そうだろうな」
アシュレイ様はうなずく。
「だが、私に必要なのはそこではない」
その一言で、母も黙るしかなくなった。
きっとこの人には通じないのだ。
華やかさとか、王都で映えるとか、そういう尺度は。
「お分かりいただけましたか」
私は静かに言った。
「私はもう、身代わりではありません」
エミリアは今にも泣き崩れそうだった。
でも、慰めたいとは思わなかった。
ここで曖昧にすれば、また同じことを繰り返すだけだからだ。
「今日は、これでお帰りください」
父が何か言いかけたが、アシュレイ様が一歩前へ出るだけで黙った。
そのくらいの迫力は、この人にはある。
結局、実家の三人はそれ以上何も言えないまま帰っていった。
馬車の音が遠ざかるのを聞きながら、私は応接間の窓辺で少しだけ肩の力を抜く。
疲れた。
でも、悪い疲れではなかった。
ようやく、切るべきものを切った疲れだ。
「……大丈夫か」
隣でアシュレイ様が訊く。
「はい」
私は頷く。
「少しだけ、長かったですけれど」
「そうだろうな」
短い返事。
でも、それで十分だ。
「ありがとうございます」
私がそう言うと、彼は少しだけ首を傾げた。
「何に」
「止めてくださったことに」
アシュレイ様は少し黙ってから言った。
「止めたわけではない」
「では?」
「確認しただけだ」
灰色の目が、まっすぐ私を見る。
「お前が、もう戻るつもりはないと」
胸の奥が、静かに熱くなる。
そうか。
この人は、私を助けるために入ってきたのではなく、私が自分で立つための場をちゃんと残してくれたのだ。
最後の一線だけを引いて。
「……はい」
私は答える。
「もう戻りません」
「ならいい」
それだけで終わる。
でも、その短さがありがたかった。
大丈夫だとか、かわいそうだったとか、そういう言葉ではなく、《《ならいい》》とだけ言われるほうが、今の私にはずっと救いだった。
窓の外には、いつの間にかまた雪が降り始めていた。
細かく、静かな雪だ。
私はその白さを見ながら思う。
妹の身代わりで嫁いだはずだった。
でも今はもう違う。
この家で倉の鍵を持ち、帳面をつけ、冬を越える順番を決めているのは私だ。
そういうものは、あとから誰かと入れ替えられるような軽いものではない。
「アシュレイ様」
「何だ」
「今夜も、帳面をつけます」
「分かっている」
「でも、少しだけ先にお茶をいただけますか」
そう言うと、彼はほんの少しだけ目を細めた。
たぶん、今までで一番分かりやすい笑い方だった。
「そのくらいは用意させる」
私はようやく、本当に笑えた。
身代わりの花嫁は、もう実家の都合では動かない。
それを自分で言えたことが、何より嬉しかった。