軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 身代わりではなく、最初から私を選んでください

実家の馬車が見えなくなったあとも、私はしばらく応接間の窓辺に立っていた。

雪は細かく降り続いている。

白い粒が庭の石へ静かに積もっていくのを見ていると、ようやく胸の奥のざわつきが少しずつおさまっていく気がした。

「奥様」

サラが、控えめに声をかけた。

「お茶をお持ちしますか」

「ええ」

私は頷く。

「少しだけ、濃いものを」

サラが一礼して去っていく。

昔の私なら、家族とああいう話をしたあと、しばらく何も手につかなかっただろう。

でも今の私は、少し疲れているだけで、壊れたわけではない。

それが自分でも不思議だった。

応接間の机の上には、まだ今日の帳面が開いたままだった。

北倉の補修分、毛布の残枚数、火床石の回送順。

さっきまで家族の言葉でいっぱいだった頭が、その数字を見た瞬間だけきれいに静まる。

やはり私は、こういうものが好きなのだと思う。

好きだからこそやる。

誰かに押しつけられたからではなく、自分でそうしたいからやる。

その違いを、私はようやく知ったのかもしれない。

サラが茶を持って戻るより先に、扉が静かに叩かれた。

この家で必要なときだけきちんと現れる人の、遠慮しすぎないノックだった。

「入ってください」

アシュレイ様が入ってくる。

外套はもう脱いでいて、右肩にだけ薄い雪がまだ残っていた。

さっきまで外にいたのだろう。

「片づいたか」

「はい」

私は答える。

「少なくとも、言うべきことは言えました」

彼は私の顔を一度見て、それから机の上の帳面へ視線を落とした。

そのあと、部屋の奥の小卓に置かれた木箱を手に取る。

「これを」

差し出されたのは、小ぶりだが重みのある鍵束だった。

昨日までの南倉と北倉の鍵だけではない。

形の違う黒鉄の鍵が、三つ、四つ、もっとある。

「これは……」

「屋敷の主だった倉と、配給棚と、補修庫の鍵だ」

私は思わず手を止めた。

それは、少なくとも《《ちょっと手伝う花嫁》》へ渡す量ではない。

「全部を?」

「ああ」

アシュレイ様は短く頷く。

「今ある冬支度の要は、だいたいそこに詰まっている」

私は鍵束を見下ろした。

金属の冷たさより、その意味のほうが重い。

これを受け取るということは、ただ倉を見てよいという話ではない。

この家が冬を越えるための中身を、かなりこちらへ預けるということだ。

「……よろしいのですか」

問いは、半分以上、確認のためだった。

断りたいわけではない。

ただ、軽い気持ちで受け取れるものではないと思ったのだ。

「お前が持つのが一番いい」

アシュレイ様は言った。

「少なくとも、今はそう判断している」

その言い方が、この人らしかった。

絶対だとか永遠だとかではない。

今見ているものから、必要な位置に必要なものを置くだけの言い方。

けれど、その実務的な信頼が私には何より嬉しい。

「ありがとうございます」

鍵束を受け取る。

手のひらにずしりと重みがかかった。

「大事にします」

「そうしてくれ」

アシュレイ様はそれだけ答える。

それから少しだけ黙り、応接間の椅子へ視線を向けた。

「座っていいか」

そんなことを訊かれるとは思わなくて、私は少しだけ目を瞬いた。

この家の主なのだから、好きに座ればいいはずなのに。

でも、そういうふうに訊く人なのだと、今ではもう少しだけ分かっている。

「もちろんです」

私がそう言うと、彼は向かいへ腰を下ろした。

私はそのまま、鍵束を机へ置く。

暖炉の火が、ぱち、と小さく鳴った。

「……さっきの話だが」

アシュレイ様が、ゆっくり口を開く。

「家から来た連中の言うことは、気にしなくていい」

「ええ」

私は頷く。

「もう気にしないつもりです」

少し考えてから、言葉を足す。

「正確には、気にしてしまっても、それで動くのはやめるつもりです」

彼は一度だけこちらを見た。

何も言わない。

でも、その視線には《《それでいい》》がちゃんと入っていた。

「昔の私は、家が困っていると言われれば戻るしかないと思っていました」

ぽつりと、口にしていた。

今さら言う必要のないことかもしれない。

でも、なぜかこの人の前では少しだけ本音が出やすい。

「私が帳面を整えれば丸く収まる。

私が少し譲れば、妹の縁談も、家の体面も、全部どうにかなる。

そうやって、ずっと自分に言い聞かせてきたんです」

鍵束へ視線を落とす。

「だから、今日も最後まで少し迷っていました。断ってよいのだと、頭では分かっていても」

アシュレイ様は腕を組んだまま、静かに聞いている。

遮らない。

急かさない。

そして変に慰めない。

それがありがたかった。

「でも、いざ断ってみたら、思っていたより苦しくありませんでした」

「そうか」

「はい」

私は少しだけ笑う。

「むしろ、ようやく終わった気がしました」

その言葉に、アシュレイ様がごくわずかに頷く。

たぶん、彼には余計な説明が要らないのだろう。

私が何から離れたかったのか、何に縛られていたのかも、もうだいたい見えている。

「エレミア」

不意に、名前を呼ばれた。

奥様でもなく、身代わりの花嫁でもなく、ただ名前だけで。

それだけで、少しだけ胸が忙しくなる。

「はい」

「お前はもう、この家にとっても《《代わり》》ではない」

私は息を止めた。

その言葉が来るだろうと、どこかで待っていた気がしたからだ。

「最初の話が、誰を相手に始まったかは関係ない」

彼は言う。

「今ここで倉の鍵を持ち、冬支度を回しているのはお前だ」

一拍だけ間があった。

暖炉の音だけが聞こえる。

「だから、さっきの連中が何を言おうと、今さら入れ替える話ではない」

それは、今日の応接間で言ってくれた言葉の繰り返しだった。

でも今は、家族へ向けた防波堤としてではなく、私自身へ向けて言われている。

その違いが、思っていた以上に大きい。

「……はい」

私はようやくそれだけ答えた。

喉が少し熱い。

「ありがとうございます」

「礼ではない」

この人はやはりそう言う。

けれど今日は、それで終わらなかった。

「確認だ」

灰色の目が、まっすぐこちらを見る。

「お前が、まだ自分を身代わりだと思っているなら、それは違うと言っておく」

静かな言い方だった。

でも、一つも揺らがない。

私はしばらく、その言葉の意味を考えていた。

実家の前では、もう身代わりではないと言えた。

でも、心のどこかではまだ、自分がそういう始まり方をしたことに引っぱられていたのだと思う。

ここへ来たのは、私ではなく妹の代わりだったから。

最初に選ばれたのは私ではなかったから。

そのことを、ずっとどこかで引け目のように抱えていた。

「……最初は、そうでした」

私はゆっくり言った。

「あなたが欲しかったのは、この家へ嫁ぐ《《誰か》》で、私はたまたまそこへ入っただけです」

アシュレイ様は否定しなかった。

それがありがたかった。

ここで「そんなことはない」と綺麗に言われたら、たぶん私は逆に苦しかったと思う。

最初は本当にそうだったのだから。

「ええ」

私は自分で頷く。

「最初は、そうだったと思います」

一呼吸置く。

「だからこそ、聞きたいのです」

鍵束の冷たさを指先で確かめながら、私は顔を上げた。

「もしこの先も、私にここへいてほしいと思ってくださるなら」

ほんの少しだけ、言葉が詰まる。

でも、ここは曖昧にしたくなかった。

「身代わりではなく、最初から私を選んでください」

部屋が静まり返った。

雪の音は聞こえない。

暖炉の火だけが、静かに揺れている。

言ってしまってから、心臓がやけに早い。

重いだろうか。

面倒だと思われるだろうか。

でも、今さら引っ込めるつもりはなかった。

これだけは、絶対に曖昧なままにしたくなかったから。

アシュレイ様は、少しだけ黙っていた。

逃げるための沈黙ではない。

言葉を選ぶための沈黙だと、今なら分かる。

「……最初から、という願いに嘘はつけない」

その返答に、私はほんの少しだけ息を止めた。

けれど、不思議と傷つかなかった。

この人がそういうところで取り繕わないのは、もう知っていたからだ。

「最初は政略だった」

彼は言う。

「妹が来るはずだったのも事実だ」

そこを曖昧にしない。

だから私は、続きをちゃんと待てた。

「だが、今は違う」

灰色の目が、私だけを見る。

「倉を見て、配分を変えて、人の困りごとを先に拾うお前を見た」

短く、でもまっすぐに続く。

「今、ここにいてほしいのはお前だ。代わりではない」

胸の奥が、きゅっと痛くなる。

でも、それは嫌な痛みではない。

やっと欲しかった言葉が、欲しかった形で届いたときの痛みだ。

「だから」

彼は少しだけ言葉を探すように、ほんの一拍だけ間を置いた。

「最初から選び直したい」

私はしばらく何も言えなかった。

その言い方が、あまりにもこの人らしかったからだ。

過去を消すのではなく、過去の上に今の選び直しを置く。

優しくごまかさない。

その代わり、今の意思は一つも濁さない。

「……ずるいです」

ようやくそう言うと、アシュレイ様の目がわずかに細くなった。

たぶん、またあれだ。

この人なりの笑い方なのだろう。

「そうかもしれない」

「そういうところがです」

私は少しだけ笑う。

泣きそうなくせに、笑ってしまう。

「でも、嫌ではありません」

それが、今の私に言える一番正直な答えだった。

受け入れる、と言い切るにはまだ少しだけ照れくさい。

でも、嫌ではないどころか、嬉しいのだと自分でも分かっている。

「なら、今はそれで十分だ」

アシュレイ様は言った。

「急がせるつもりはない」

「はい」

「だが、この家の鍵はもうお前に預ける」

私は目を落とす。

机の上の鍵束が、さっきよりずっと重く見えた。

でもその重みは、今なら怖くない。

責任と信頼が、やっと同じ形で渡された気がしたからだ。

「大事にします」

私がそう言うと、彼は短く頷いた。

「それでいい」

会話がそこで切れるのは、この人らしかった。

甘い言葉を重ねたりはしない。

でも、その少ない言葉の中に、ちゃんと必要なものがある。

私は鍵束を手に取る。

南倉。

北倉。

補修庫。

配給棚。

全部、この家が冬を越えるための鍵だ。

そして今、その鍵を持つのは私だ。

「アシュレイ様」

「何だ」

「今夜も、帳面をつけます」

「分かっている」

「でも、その前に」

一瞬だけ迷ってから続ける。

「お茶を、一緒に飲んでいただけますか」

言ってしまってから、少しだけ頬が熱くなる。

でも取り消さない。

ここまで来て、それくらいは言ってもいい気がしたからだ。

アシュレイ様は少しだけ驚いたように見えた。

それから、ほんのわずかに口元を緩める。

今まででいちばん分かりやすい笑い方だった。

「そのくらいなら」

私はようやく、本当に安心して笑った。

身代わりの花嫁として始まった冬は、こうして少しずつ形を変えていくのだろう。

最初から私のために用意された場所ではなかった。

でも今は違う。

私は自分で手を伸ばし、鍵を受け取り、ここへ残る理由を選び始めている。

それなら、この先はきっと悪くない。

少なくとももう、誰かの代わりとして息をする必要はないのだから。