軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 外れを引いたと言っていた家から、助けてほしいと手紙が届きました

本格的な雪が三度降ったころには、私はもう毎晩、応接間の長机で帳面を開くのが当たり前になっていた。

北倉の在庫。

村ごとの毛布配分。

火床石の残数。

薬師へ回した乾燥豆の量。

兵舎の予備靴の修繕待ち。

どれも地味だ。

でも、冬を越えるためにはどれも欠けてはいけない。

そしてこの家では、それを《《地味だから後回し》》とは誰も言わなかった。

「北の小集落、火床石を増やしてから熱を出す子どもが減ったそうです」

私が帳面へ印をつけながら報告すると、アシュレイ様は暖炉の前で短く頷いた。

「よかった」

その一言だけで十分だった。

誰かの生活が少し楽になったことを、ちゃんと《《よかった》》と受け取る人がいる。

それだけで、王都にいたころよりずっと息がしやすい。

「ただ、南の外れの寡婦の家はまだ厳しいです」

私は続ける。

「壁の隙間に詰めた藁が足りません。明日、兵舎側の余りを少し回します」

「人は」

「サラと倉庫番のユアンを借ります」

「分かった」

こういう短いやり取りにも、もうだいぶ慣れた。

この人は必要なことだけを訊き、必要な分だけ渡す。

大げさに褒めもしない。

でも、任せると決めたことからは引かない。

その潔さが、思っていたよりずっと好きだった。

そのとき、ハロルド老執事が一通の封書を盆へ載せて入ってきた。

見慣れた実家の紋章。

私は少しだけ手を止める。

母からだろうかと思ったけれど、封の癖が違った。

もっと急いで押したような、乱れた跡がある。

「フォルナー伯爵家より」

ハロルドが静かに告げる。

「急ぎとのことです」

私は受け取った。

まだ温かい。

つい先ほど届いたばかりなのだろう。

実家からの手紙は、最近ずいぶん都合のいいときだけ足が速い。

封を切る。

中の文字は、母のものだった。

でも、いつもの上品に整った筆跡ではない。

焦っているときの字だ。

《《エレミア、助けてちょうだい》》

そこから始まる時点で、嫌な予感はもう十分だった。

《《エミリアの縁談が、少し厄介なことになっています》》

《《侯爵家は思っていたより余裕がなく、婚礼支度に追加の持参金を求めてきました》》

《《それだけならまだしも、先方のご母堂は帳面の整理があまりに粗いと不満を仰っていて、このままでは話そのものが流れるかもしれません》》

私はそこで一度だけ目を閉じた。

そうだろうな、と思う。

妹が喜んでいたあの華やかな良縁も、結局は帳面と支度の上に乗っている。

舞踏会の灯りの下だけで結婚は決まらない。

そんなこと、私は前から知っていた。

問題はその先だった。

《《あなたはこういう地味な実務が得意でしょう》》

《《ほんのしばらく戻って、婚礼支度の帳面だけでも整えてほしいのです》》

《《グランフェルト辺境侯家から余っている毛織物や保存食を少し融通いただければ、先方の心証もだいぶ違うはずです》》

《《お願いです。今回は家のためだと思って》》

私は、最後の行まで読み終えてから、ゆっくりと紙を閉じた。

暖炉の火が、ぱち、と鳴る。

部屋の中は暖かいのに、指先だけが少し冷たい。

「悪い知らせか」

アシュレイ様が訊いた。

私は少し迷ってから、正直に頷いた。

「妹の縁談が、思ったほど順調ではないようです」

「そうか」

それだけだった。

慰めるでもなく、好奇心を見せるでもなく、ただ事実として受け取る。

その反応に、私は少しだけ救われる。

「追加の持参金と、婚礼支度の帳面整理を求められています」

私は続けた。

「ついでに、この家の毛織物や保存食を少し融通してほしいとも」

そこで初めて、アシュレイ様の眉がわずかに動いた。

怒っている、というより呆れている顔だった。

「身代わりで嫁がせた娘に、今度は支度金の穴埋めを頼むのか」

「そのようですね」

私は小さく笑った。

笑うしかない、というほうが近い。

昔の私なら、ここでまず「家のためだから」と自分へ言い聞かせたのだろう。

でも今の私は、その言葉を最初から信じられない。

「行くか」

アシュレイ様の問いは短かった。

「……分かりません」

私は正直に答えた。

「昔の私なら、たぶんすぐ戻ったと思います。帳面を整えて、先方の機嫌を取って、どうにか破談を避けようとしたでしょう」

「今は違う」

断定ではない。

確認に近い言い方だった。

私はその灰色の目を見返す。

「違う、と思いたいです」

それがいちばん正直な言い方だった。

まだ胸のどこかに、長女として何とかしなければならないという癖が残っているのも分かっている。

でもそれが、自分の人生を削る癖だとも、ようやく知り始めている。

「なら、急いで決めなくていい」

アシュレイ様は言った。

「必要なら馬は出す。必要ないなら断れ」

「断っても、よろしいのですか」

思わずそう訊いてしまってから、私は少しだけ恥ずかしくなった。

何を当たり前のことを確認しているのだろうと思う。

けれど、この家へ来る前の私には、それが当たり前ではなかった。

「お前が決めることだ」

アシュレイ様の答えは、やはり短かった。

「家の事情に付き合うかどうかは、お前が決めろ」

その一言が、胸の奥へ静かに落ちた。

誰かに「決めていい」と言われることが、こんなにも楽だとは思わなかった。

私はこれまで、誰かの都合で決まったあとに動くだけだったから。

「ありがとうございます」

私がそう言うと、アシュレイ様は少しだけ首を振った。

「礼ではない」

「でも、ありがたいです」

それ以上は言わなかった。

言えば、たぶん少し泣きそうになってしまったからだ。

ハロルドが静かに茶を置いていく。

誰も急かさない。

その静けさの中で、私はもう一度手紙を開いた。

《《あなたはこういう地味な実務が得意でしょう》》。

その一文だけが、どうしても目に刺さる。

得意なのは本当だ。

好きなのかもしれない。

でも、それは《《だからまた押しつけてもいい》》とは違うはずだった。

私はゆっくりと便箋を引き寄せた。

返事を書く。

それが、いまの私にできる一番ましな線引きだと思ったからだ。

最初の一文は、かなり迷った。

母上、でも。

このたびは、でも。

どちらも少し違う気がする。

結局、私はこう書いた。

《《お母様》》

そこから先は、思ったよりすらすらと書けた。

婚礼支度の帳面整理のために王都へ戻るつもりはないこと。

グランフェルト家の備蓄はこの領の冬越しのためのものであり、実家の縁談のために融通できるものではないこと。

もし帳面整理が必要なら、先方の家と正面から話し合うべきであり、私を間に挟む話ではないこと。

そして、私はもう《《家の困りごとを何とかするためだけに呼ばれる立場》》へは戻らないこと。

書き終えるころには、指先の冷たさは消えていた。

代わりに、妙な静けさが胸の中へ広がっている。

これでいいのだと思えた。

「決まったか」

アシュレイ様が問う。

「はい」

私は返事を書いた便箋を封へ入れる。

「戻りません」

その言葉を口にした瞬間、自分の中で何かが少しだけ動いた。

たぶんこれは、初めて自分で選んだ拒絶なのだ。

誰かのために我慢するのではなく、自分のために線を引く拒絶。

「そうか」

アシュレイ様は頷いた。

「なら、それでいい」

その一言だけで、十分だった。

理由を求められない。

言い訳を並べなくていい。

ただ、自分で決めたことがそのまま認められる。

それだけで、ずいぶん心が軽くなる。

私は手紙をハロルドへ渡し、明朝一番で王都へ出すよう頼んだ。

老執事は何も言わずに一礼する。

余計な顔をしないところまで、この家らしいと思った。

その夜、帳面を閉じるころには外の雪がまた少し強くなっていた。

風も出てきている。

明日は北側の家へもう一度布を回さなければならないかもしれない。

やることはまだある。

でも、その《《まだある》》は、昔よりずっと気分がいい。

私はもう、実家の都合で動く娘ではない。

そう決めた。

決められた。

ただ、あの家が手紙一通で引き下がるかどうかについては、あまり期待していなかった。

長いあいだ私を都合よく使ってきた家が、こんなにあっさり諦めるとは思えなかったからだ。