作品タイトル不明
第4話 妹は華やかな良縁を選び、私は辺境の冬を選びました
グランフェルト辺境侯家へ来てから二週間ほどで、私は屋敷の中のだいたいの流れを掴んだ。
保存倉、毛布倉、南倉。
物資の出入り。
傷薬の減り方。
雪が近い朝ほど、薪置き場の往復が一往復増えること。
誰が帳面を読み、誰が札の色をちゃんと覚えているか。
そして、誰が「前から変だと思っていたけれど、どこを直せばいいのか分からなかった」と感じていたかまで。
たいていの家は、崩れる前に小さな悲鳴を上げる。
この家もそうだった。
ただ、その悲鳴が誰にも拾われていなかっただけだ。
だから少し手を入れるだけで、驚くほど素直に整っていく。
「奥様」
朝、帳面へ昨日の在庫変動を書きつけていると、サラが手紙を一通持ってきた。
王都からだ。
見覚えのある家紋の封蝋を見ただけで、中身の半分くらいは想像がつく。
「お母様から?」
「いいえ」
サラが首を振る。
「妹君からです」
私は少しだけ眉を上げた。
母からならまだ分かる。
でもエミリアが自分から手紙を寄越すのは珍しい。
普段の彼女は、用事があるときほど母を使うからだ。
封を切る。
中の紙には、思ったよりずっと丸い字が並んでいた。
《《お姉様、聞いてください》》
《《わたくしの縁談が決まったの》》
《《お相手は侯爵家の嫡男ユリウス様。王都でも華やかで評判の良縁です》》
《《やっぱり、お姉様よりわたくしのほうがこういう華やかな場は向いているのね》》
そこまで読んで、私は紙から少しだけ顔を上げた。
やっぱりそう来たか、という気持ちと、思っていたより早かったな、という気持ちが半分ずつだった。
エミリアはずっと、自分がいるべき場所は《《もっと華やかで、もっと王都の人に見られるところ》》だと思っている。
だから辺境侯家を嫌がったのだし、いま侯爵家の嫡男との縁談が決まって舞い上がるのも分かる。
あの子は、そういう子だ。
でも手紙は、そこで終わっていなかった。
《《お姉様も辺境で落ち着いたなら安心したわ》》
《《寒い土地は地味で大変でしょうけれど、お姉様は我慢強いから向いていると思うの》》
私はそこで小さく笑った。
褒めているつもりなのだろう。
でも、相変わらずだとも思う。
私は「我慢強いから向いている」。
エミリアは「華やかだから似合う」。
この家の中での役割分担は、どこまでもそのままなのだ。
「何か、よろしくないことでも?」
サラが、おそるおそる訊いた。
「いいえ」
私は手紙を畳む。
「妹の良縁が決まったそうよ」
サラは少しだけ安心したような顔になって、それから首を傾げた。
「……それは、いいことなのでは」
「そうね」
私は頷く。
「たぶん、そうなのでしょうね」
でも、胸の奥に小さく残ったものは、祝福だけではなかった。
羨ましいわけではない。
けれど、《《あなたは辺境が似合う》》と、ああまで自然に言われることが、まだ完全には平気になっていないのだろう。
手紙を引き出しへしまおうとして、やめた。
そのまま帳面の横へ置く。
自分でも少し不思議だった。
たぶん、見える場所へ置いておきたかったのだ。
いまの私が、あの家の物差しだけで測られる場所にはいないのだと、確認するために。
その日の午後、私は初めて屋敷の外の冬支度を見て回ることになった。
アシュレイ様が自ら、北側の倉と兵舎沿いの配給棚を見せると言ったのだ。
「屋敷の中だけ整っても足りない」
彼は馬上からそう言った。
「冬は、外のほうが先に困る」
私は同意した。
王都では、家の中の見栄えと帳面だけ整っていれば、なんとなく回ることもある。
でも辺境の冬は違うのだろう。
配給が遅れれば凍えるし、薪が届かなければ眠れない。
そういう土地だと、来てから少しずつ分かり始めていた。
北側の物置き場は、屋敷の倉よりさらに荒れていた。
雪除けの板、兵用の予備靴、子ども向けの古い毛布、壊れた手押し車の車輪までが一緒くたになっている。
しかし、ここでも同じだった。
足りないのではない。
場所と順番と、誰がどれを先に触るかが決まっていないだけだ。
「これも整理すれば、かなり違います」
私がそう言うと、アシュレイ様は無駄なく頷いた。
「やるか」
「ええ」
「人は」
「四人いれば」
返答が自然に噛み合って、自分でも少し可笑しくなった。
この人とは、仕事の話になると余計な前置きがほとんど要らない。
それが妙に心地よかった。
兵舎沿いの棚も見た。
こちらはもっと露骨だった。
配給札の色が統一されていない。
古い札と新しい札が混ざり、誰がどの棚を先に開けるかまで人によって違う。
それでは遅い。
吹雪の日には、遅いことがそのまま困窮になる。
「ここは赤と白だけで十分です」
私は棚へ指をやる。
「赤は今日配るもの。白は予備。青は屋敷の倉だけでいいです」
「なぜ」
アシュレイ様が訊く。
「屋敷の中は種類が多いですけれど、ここは《《今日使うか使わないか》》のほうが先でしょう?」
彼は少しだけ考えてから頷いた。
「……分かりやすい」
その一言だけでよかった。
私はどのみち、この人が大げさに褒める人ではないことを知っている。
でも、分かりやすいとか、助かるとか、そういう言葉のほうが今はずっと嬉しい。
夕方、屋敷へ戻るころには、手も裾も少し汚れていた。
王都の母が見たら眉をひそめるだろう。
でも、今日の私は自分でも驚くほど機嫌がよかった。
仕事が進んだからだ。
進んだ仕事は、きちんと目の前に残る。
そういう喜びは昔から知っていたはずなのに、王都ではいつも誰かのために使ってしまっていた。
「お疲れのようには見えませんね」
食堂へ入るなり、アシュレイ様がそう言った。
「疲れてはいます」
私は席へつきながら答える。
「でも、嫌な疲れではありません」
「そうか」
そこで終わると思ったら、彼は少しだけ視線をずらしてから続けた。
「その顔のほうがいい」
私は一瞬、聞き返しそうになった。
その顔。
つまり、今の私の顔のことだろう。
「……ありがとうございます」
そう返すしかできなかった。
気の利いた返事など、とっさには出てこない。
たぶん今、少し赤くなっているのではないかと思う。
でも、指摘されないだけましだった。
夕食のあと、自室へ戻ると、もう一通手紙が来ていた。
今度は母からだった。
封蝋の形だけで、母が少し浮かれているときの手だと分かる。
中身は、やはりエミリアの縁談の話だった。
《《侯爵家はさすがにお金回りもよく、舞踏会も多く、エミリアもとても満足しているようです》》
《《やっぱり、あなたと違ってあの子は華やかな場が似合うのね》》
そこまでは予想通りだった。
でも、そのあとに一文だけ余計なものが混ざっていた。
《《辺境侯家は寒くて地味でしょうけれど、あなたはそういう地味な実務が好きなのだから、むしろ居心地がいいでしょう?》》
私はその文を三度読み返した。
地味な実務が好き。
それはたぶん、当たっている。
だからこそ、余計に腹が立つ。
好きなことと、軽く見られることは違うはずなのに、あの家では最後までそれが一緒くたなのだ。
「……そうかもしれませんけれど」
誰もいない部屋で小さく呟く。
そうかもしれない。
でも、それを《《だから辺境がお似合い》》の一言で片づけられるのは、やはり違うと思った。
私は手紙を畳み、昨日もらった新しい帳面の一番後ろへ挟んだ。
捨てなかったのは、まだ心が決まりきっていないからかもしれない。
私は辺境の暮らしが思った以上に嫌いではない。
むしろ好きになりそうだ。
でも、そのことを《《王都で華やかに振る舞えない姉が、地味な辺境へ追いやられて落ち着いた》》みたいに扱われるのは、やはり悔しい。
そのとき、控えめなノックがあった。
サラが顔を出す。
「奥様、お客様です」
「お客様?」
「旦那様が、応接間でお待ちです」
私は少しだけ首を傾げた。
夕食の席で話は終わったと思っていたからだ。
でも、応接間で待つと言われると、私室で帳面をつけるのとは違う話らしい。
応接間へ行くと、アシュレイ様は暖炉の前に立っていた。
今日は外套を脱いでいる。
それだけで少し、距離が近く見えるのが不思議だった。
「お呼びと伺いました」
「ああ」
彼はテーブルの上の箱を指した。
小さな木箱だ。
中を見ると、倉の鍵が二つ並んでいる。
ひとつは昨日受け取った南倉。
もうひとつは、見慣れない札がついていた。
「北倉の鍵だ」
私は思わず息を止めた。
北倉は、この屋敷でいちばん大きい冬備蓄の倉だったはずだ。
つまり、それはもう、《《少し見てよい》》では済まない。
「よろしいのですか」
「南倉と毛布倉が回った」
彼は短く言う。
「なら、次も任せる」
やはりこの人は、任せると決めるのが早い。
けれど、速いだけで雑ではない。
昨日今日で見たものを、ちゃんと見た上でそう言っている。
「ただし」
そこで彼は、一度だけ言葉を切った。
「無理はするな」
私は少しだけ目を瞬いた。
それは、鍵と一緒に渡される種類の言葉ではない気がしたからだ。
「私がいなくても倉は回る」
彼は続ける。
「だが、お前が倒れると、おそらく全体が面倒になる」
その言い方が少しだけおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
心配だと言えばいいのに、この人はそういう言い方をしない。
「心得ておきます」
私がそう答えると、彼はわずかに頷いた。
「それから」
まだあるのかと思って顔を上げる。
「家からの手紙で、気分が悪くなったなら捨ててもいい」
今度こそ、本当に驚いた。
食堂でも、部屋でも、その手紙を広げていたところを見られた覚えはない。
でも、きっとこの人は見ていたのだろう。
あるいは、顔に出ていたのかもしれない。
「……分かるのですか」
「少しは」
その返事だけで十分だった。
王都の家族が私をどう見るかと、この人がいまの私をどう見ているかは、やはりずいぶん違うらしい。
「捨てはしません」
私は鍵をそっと箱へ戻す。
「でも、帳面の後ろへ挟んでおきます」
「そうか」
それでまた会話は終わる。
不器用な人だ。
けれど、その不器用さの中に、私へ向ける丁寧さがあるのだと、少しずつ分かってきた。
私は鍵を受け取り、胸の内で小さく息をついた。
妹は華やかな良縁を選んだ。
私は辺境の冬を選んだわけではなかったけれど、気づけば自分から倉と帳面を選んでいる。
それは敗北ではないのだろう。
少なくとも、もうそう思いたくはなかった。